八/うみぞこのくじら
水の中に潜る夢を見る。
夜の海を、ひたすら底へと潜って行く。不思議と息苦しさはない。それはきっと、これが夢だからだろう。
足元に月を見下ろしながら、少しずつ、沈むように暗い暗い海底へと昇っていく。
それはまるで、宇宙へ射出されるロケットのように、しかし速度は鈍足で海の底に横たわるくじらを目指して寒い旅路を昇っていく。
――化け物たちが横を泳ぐ。まるで誘っているようだ。海の底にて蠢く彼らは、私を海底へと誘惑する。
うみぞこのくじらは、私を見る。冷たい海底で腐ることもせずに、少しずつ身体を蝕まれながら、私を見る。
その冷たい瞳は、私を射抜く。うみぞこのくじらは哂う。
何が可笑しいのか、それはついぞ分からなかった。
昼過ぎに眼が覚めた。日差しは暖かく、少し汗ばむほどだ。そのくせ、時折冷たい隙間風が吹くのだから、汗ばんだ身体が冷えてしまう。
最近夢見が悪い気がする。妙な夢ばかり見てばかりで、起きた時は必ずと言って良いほど、身体が冷えている。どうやら、自分は身体を冷やすとロクな夢を見ないタチらしい。
と言っても、厭な気持ちだけ残っていて、夢の内容は全く覚えていないのが常である。
最近夢に振り回されっぱなしで、どうにも居心地が悪い。というか、夢オチばかりでどうかと思わないでもない。
「やぁ、お土産だよ」
「きめぇ、この素人童貞」
「なんでいきなりそんなに辛辣なんだよっ!」
そんな妙に爽やかな笑顔で、私の寝起きを襲撃したのは、もう語るまでもないだろう。友人のMであった。
この友人のMを扱いを決めあぐねている今日この頃であるが、いつものように彼は私の部屋に現われる。
彼には自宅がない。それ故に彼が私の部屋に転がり込んでくることは分かってはいる。それ故に扱いが困る。普通なら追い出すこともやぶさかではないが、この男の場合はそもそも寝床が車だ。そうなると追い出した自分が悪者みたいである。
「寝起きで見たくないモノの一つなんだよ、お前の顔は」
「見たくないモノって言ったなっ! 見たくない顔ならまだ気持ちマシだけど、モノ全般から代表されるとかなりヘコむんですけどっ!」
まあ、こればかりは扱いを保留するしかないのか。そう思うと余計にこの男の笑顔が憎たらしくなってくる。私は重い頭を抱えながら布団から這い出る。
コーヒーを飲むために、手鍋に水を張る。
もう昼時なので残りのお湯でインスタントラーメンをこしらえるのも悪くない。万歳インスタント生活っ!
「――ってもうちょっとは体のことを考えろ」
私がインスタントラーメンを棚から引っ張り出した辺りで、Mはそう私のお尻に蹴りを入れる。
「何をするっ! なんだ、いきなりスパンキングにでも目覚めたかっ!」
「うっせぇっ! なんでそんなにインスタント食品を備蓄してんだよっ!」
良いじゃないか、インスタント食品。時間も節約できて、中々に安価だ。こんなすんばらしいモノ、現代文明の利器と言わずになんと言う。
その旨をMに叩きつけると、Mは――。
「現代文明の利器は大抵身体に不健康なモノを吐き出すんだよ」
と、そうのたまった。
ぐぅの音も出ない。いつか泣かすことを胸に誓いながら、私はインスタントラーメンにお湯を入れる。
「あ、俺、シーフードな」
「お前も食うのかよっ!」
どうやら、腹が立ったのは私が昼飯の手を抜こうとしたからのようだ。当然のように相伴に預かろうとするこの友人は相当卑しい。無闇に餌付けするモンじゃなかった。
さて、シーフード味カップラーメンでMを餌付けしながら、今日の計画を立てる。
とりあえずサークルに顔を出して、そしてさっさと帰宅して、ご飯食べて、お風呂に入って、そして……。
ダメだ、眠い。もうやたら眠い。ここ最近は夢見は悪い所為か、眠気だけはひねもすのたりのたりと頭の中を蠢いている。
寝ても寝ても寝足りない。おかげでここ数日は暇さえあれば寝てばかりいる。
寝たら疲れてしまうのだ。だからすぐに睡眠を取ると、やっぱり疲れてしまう。疲れが取れずにここ数日の生活にも支障が出てしまうほどだ。
とりあえず、今日は何もするでもなし、さっさと寝てしまおう。
「あ、今日も部屋借りていいか?」
……もしかして、ここ数日の夢見の悪さと寝疲れは案外、こいつの所為かも知れない。
――うみぞこのくじらが呼ぶ。彼の歌が深海にて反響する。
海底砂漠に横たわるうみぞこのくじらは、少しずつ身体を食われながら、私をじぃっと見つめる。眼は既にないというのに、その視線は私を射抜く。
夜の海の静けさが耳に痛い。夜の海底砂漠には生き物の姿は皆無に等しい。唯一、うみぞこのくじらの周りにだけ、むせ返るほどの生命の息吹を感じられる。
暗くて静かな海底にて眠るうみぞこのくじらは、寂しげにも見える。だが、同時に安らかでもあった。静かで暗い海の底。ここでなら、静かに眠れるのだろうか。
ああ、眠い眠い。この海でなら、静かに眠ることができるのだろうか。
――ここでなら――ここでなら。
「おいっ! 何してんだっ!」
ふと、聞き覚えのある声がした。
意識が浮上する。急速に海底から引き上げられる意識は、圧力で収縮されていた空気が爆発的に膨張するように覚醒していく。
「何してんだよ、お前っ!」
Mの声だ。私はぼぅっとした頭でその声を受け入れる。
「……何って、ただ寝てた、だけ」
そう答えて、ふと違和感が頭を掠める。だって、私は今、眠っているクセに立っているのだ。冷たい空気が頬を掠めて、その風の所為で身体が冷えてしまっている。
私が立っていたのは、どうやら波止場の先端。立入禁止の柵を越えた先のようだった。
寝間着のまま、数キロは離れている海まで歩いてきたようで、身体がぐったりと疲れていた。
思わず、座り込んでしまった。何で自分はここにいるのだろうか? 自分はただ眠っていただけじゃないのか?
――そしてそもそも、ナンデワタシハココニイルノダ?
くじらの歌声を幻聴した。
その事件以降、マトモに眠っていない。それでも寝ないと人間は身体を壊してしまう。だから、私が眠っている時は、Mが私の様子を見てくれている。
睡眠時間が短くなった所為か、うみぞこのくじらの夢はあまり見ていない。見たとしても、Mがいてくれたので大事に至るほどではなかった。この借りはいつか返さないと思うが、Mに対して借りを作って置くのは生理的に受け付けられない。
「俺、豆ご飯が食べたいー」
「うっせぇ、眠いのに台所になんか立てるか」
一気に『借り』なんてモノが吹き飛びそうになった。
「まあ、飯もいい加減作って欲しいし、確かにこのままじゃ不味いんだよなぁ」
「お前の召使いじゃないんだけど……」
「元の放送室を選挙するようなあなたに戻ってくださいっ!」
「腐ったみかんでもないっ!」
つ、疲れる。ただでさえ眠くて疲れも取れないのに、こいつといると余計疲れる。
「疲れた顔だな。ここはいっちょこいつを使って……」
「抱き枕(仮)ちゃんだとっ!?」
いつぞや、ノリでUFOキャッチしてしまった抱き枕がそこにあった。というか何勝手に掘り出してんだこいつっ!
「か、返せっ!」
「この抱き枕に抱きついているところを下の階の高校生の子に見つかっちゃって大変恥ずかしい思いをしたとかしないとか」
「なんでその経緯を知ってんのさっ!」
こいつに話した覚えはないぞっ!
「このまま抱き枕(仮)ちゃんにはこの作品のマスコットとして周りを和ませてもらいましょう」
因みにその抱き枕(仮)ちゃんは頭の方が自重で俯いてしまって、首が折れているように見える。マスコットというよりは新手のグロ画像だ。
「さておき、いい加減しっかり寝た方がいいぞ。このままじゃ本当に身体を壊すぞ」
「……」
それは、嫌だ。確かにこいつが私のことを見張っていてくれるのなら、その選択肢もある。しかし、問題はそれだけに留まらない。
一度深い眠りに落ちてしまうと、今度は戻って来れない気がする。前回と違って、今回はもっと直接的に、植物状態のような眠りに陥ってしまうのではないか、そんな不安がある。
「倒れても知らんぞ」
そう吐き捨てて、Mは携帯電話を手に取り、部屋を出る。台所の曇りガラスにMの頭が映ったのだが、どうやらどこかに電話しているようだ。
Mが出て行くと、部屋は急に静かになる。音といえば、冷蔵庫のファンの音や、外を走る車の音くらいで、雑多な静寂がこの部屋を満たしていた。
こう静かだと、瞼が重くなってくる。ふぅっと身体の力が抜けていく。すると、面白いほどに高速で意識が落ちていく。最後に見たのは、部屋に入ってくるMの姿だった。
深海へと昇っていく。辿り着くのはやはりあの海底。
うみぞこのくじらは歌う。暗い深海で歌い続ける。
私はその姿に、畏怖と哀愁のようなものを感じる。うみぞこのくじらを見下ろしながら、ただ流れのない深海に漂う。
海底の砂漠には、生き物の気配は感じられない。だけど、うみぞこのくじらの周りだけは違う。あそこにはむせ返るほどの生命の息吹が感じられる。当のうみぞこのくじらはもう既に死体の類であるというのに、あそこだけはその死体をむさぼり食う海底の化け物たちでごった返している。
――ふと、うみぞこのくじらの歌に混じって、声が聞こえた。
『……いつなんですけど……なりませ……』
『……のバイトの……さん……君……あいだったんだ……』
聞き覚えのある声だ。どこで聞いたのだろうか。歌に掻き消されるほど小さな声だが、それでも断片的な会話が私の耳に届く。
『夢……の……だね……そうい……詳しい人を……』
ダメだ。これ以上は聞き取れない。それより、先ほどからうみぞこのくじらの歌がより強く、大きくなっている。まるで怒るように、猛るように。
うみぞこのくじらに吸い込まれる。大きな口に、飲み込まれる。逃げようとした獲物を飲み込む為に、うみぞこのくじらはその死に体を動かす。
やがて夢を見ていたという意識すら曖昧になる。残っていたのは、酒を飲んで倒れた時のような酩酊感と、何もない暗闇だけだ。
その昔、いつの頃だったか、暗闇に付いて考えたことがある。それがつい最近だったのか一億年ほど前だったのか、忘れてしまった。あの時、人間はある種の物理的な進化によってしか暗闇を克服はできないという結論に達した。しかし、これはまた別だった。
暗闇なのに、そこに何があるのか手に掴むように分かる。感覚器は何も捉えていないのに、何もかもが手に取るように分かるという矛盾。
それは、この暗闇の中には何もかもがないという証拠であった。目に見えないものですら存在しない暗闇。即ち虚無。原始の宇宙と呼ばれるそれに似たモノだ。そこでは、感覚器など必要がない。何もないのだから、情報を受け取る為のモノなど無意味だ。
そして、この虚無は真理と同義であった。そして、私もまたその虚無と同義である。だから、私はこの暗闇に何もないただの虚無だと直感できた。
この暗闇に恐怖は感じない。だって、何もないのだから。私はこの虚無と同質化し、ただ漂うだけだ。
『……い、心音がっ!』
ふと、その虚無の中にすらその音は響いてきた。
やっぱり聞き覚えのある声だ。
『だいじょ……すぐ引き上げ……』
こっちは聞き覚えがない声だ。女の子の様な、年老いた老婆のような、そんな声だ。
暗闇の中、確かに聞こえる声。そして、暗闇の中に突然現われた光。それは、海底から見上げた月のように見えた。その月から差し出されるのは、小さな白い手だった。
その小さな白い手を見た時、私はそれが何だか分からなかった。だけれど、この白い手を掴むかどうか、それが私の将来を決める気がした。
『さあ、帰ってくるのじゃ。そちらはお前さんのセカイではない――』
私はその手を――。
ぼぅっとした頭を抱えて、布団から起きる。横には抱き枕(仮)ちゃんが寝かされている。これは、Mの仕業か。
何か夢を見ていたようで、何にも覚えていない。まあ、夢とは大抵そういうものだ。ここ数日見ていた夢も一緒に忘れてしまったようで、妙に頭がすっきりしている。
私は久しぶりに気持ちよい寝起きとなった為、上機嫌で着替える。まるでここ数日は何かに取り憑かれたような気分だったが、眠かった所為でよく覚えていない。
大学に向かう道中、博物館の割引券をチラシ配りの若者から頂く。どうせ今日は暇だ。行ってみようと思い、割引券をポケットの中に突っ込む。
――授業が終わり、私は学食に立ち寄った後に、件の博物館に足を運んだ。
博物館はそこそこの賑わいであった。特に今回はある種の展覧会の類だったようで、それ目当てなのか客の入りも上々である。
展覧会の内容は、『海の哺乳類展』だ。海の哺乳類の剥製や骨格を中心に展覧しており、目玉は、『クジラの全身骨格』だった。
例のクジラの骨格を見た時、ふと海の底に横たわるくじらの姿が脳裏を過ぎる。どこで見たのか分からないが、妙に生々しく、リアリティの強い想像だった。疲れた私は休憩所へと足を運び、飲み物を口にする。
「こんちは」
休憩所のベンチに腰掛けた時、同じタイミングで女の子が腰掛けた。小学生ほどの女の子だ。挨拶は、その女の子がしたものだった。
「こんにちは」
挨拶をされたので、挨拶で返す。女の子はその返答に満足したのか、その手に持っていた缶コーヒーのブルタブに爪を立てる。
……ブラックだと。妙に渋いぞ、この子。
「クジラの全身骨格、凄かったのぅ。アレはなんていうクジラなのかの?」
喋り方も妙に渋いぞ。渋いというか老いてるというか。声だけは小学生のそれなのに、言葉遣いが不釣合いだった。
「ミンククジラだって」
「なんだ。シロナガスクジラかと思ったのにのぉ」
「アレはあんなに小さくはないよ」
しかし、なんでだろうか。確かに違和感があった。私は最近、もっと大きなクジラの死体を見たような、そんな感じがした。
「それに、シロナガスクジラの全身骨格標本なんて、日本じゃ下関の海響館と太地町とくじらの博物館くらいしか展示してないよ」
確か、くじらの博物館に関しては複製だったような気がする。海響館の方は本物だとか。シロナガスクジラに関しては、日本で展示しているのはこの二箇所だけだ。
「そうか。今度かずちゃんに連れてって貰おうかのぅ」
かずちゃんとやらは大変だ。この街から海峡館やくじらの博物館まで行くのにいくら使うことか。それはもう旅行だ。
「思ったのじゃけれども、あーいうトコロに展示されるのって、どんな気分なんじゃろなぁ」
それは、どういう感覚なのだろうか。私がその立場に立ったとしたら、どう思うのだろうか。
「――まあでも、誰もいない深海よりはマシだと思うな」
ふと、そんな言葉が零れ出た。
一人でゆっくり眠りたいのか、それとも騒がしい場所で眠るのか、どちらが良いのか、それは本人にしか分からない。だけれど、私は深海よりは良いと思った。
女の子はその答えに満足したのか、会話はここで終わりと言わんばかりにベンチから立ち上がる。その小さな白い手から放たれたコーヒーの缶は、綺麗に弧を描いてゴミ箱に吸い込まれた。シュートが上手くいったのが嬉しかったのか得意げな顔で、迎えに来たかずちゃんとやらのところに向かっていった。そっちの男の子も小さくて、まるでノミの夫婦というか、もう年子の兄弟姉妹の類だ。
さて、私も帰ろうか。とりあえずは、部屋でゴロゴロする為に。今夜も奴は姿を現すだろうから、食事の準備も怠らずに――。
八/うみぞこのくじら――了