七/暗闇の中に潜むモノ
バイト先から出ると、夜風が思ったより冷たいことに気付く。半そでのシャツで家を出たことを後悔しながら、私は家路を急ぐ。
夜風がアスファルトを撫でて山の方へと走ってゆく。私は冷たくなっていく腕を擦って暖める。
冬が目の前に来ている。昼間は暑かったというのに、夜になるとこれだ。毎年のように、この夜の冷え込みで私は秋が来ているのを実感するのだ。
私はあまり寒さに強い方ではないので、秋の風はかなり苦手である。
びゅうびゅうと吹き荒ぶ秋風によって枯葉は舞い上がり、その赤い色は月によって照らされる。月がぷかりぷかりと浮かぶ夜空。その強い光を恐れたのか星々は闇の中に紛れてしまっている。
今夜は妙に綺麗な夜だった。物影は真っ暗なのに月明かりが当たる場所は明るい。明暗の境界線はハッキリしており、その所為か夜道に妙に嘘くさいリアリティを感じてしまう。
――いや、影絵的なのか、これは。現実感のない現実は、やがて私の視界を飲み込んでゆく。自分が立っている地面すらあやふやで、影絵たちが踊りだす。影絵の化け物たちは踊り笑う。甲高い哄笑はこんなシャープな夜に響き渡る。
彼らには形がない。故に形を得たいと人に襲い掛かる。
影絵たちはにじり寄ってくる。形が欲しいと、笑い踊りながら。やがて私はその影たちに飲み込まれ――。
「お、何やってんだよ、こんなところで」
そんな妄想に取り憑かれそうになった時、背後から声を掛けてきたのは例によって例の如く、友人Mであった。
最近姿を現さないMだが、どうやらオフ会の参加に忙しいという。しつこく私に見せびらかす写メも、最初の違和感はどこかに消えて、見慣れたものへと変わっていた。
――なんというか、アレだ。こいつが女の人と一緒にいる姿を中々見ないためか、違和感が強く感じられたのだ。
「バイトの帰り。あんたは?」
「俺? 俺はな、なんと飲み会の帰りだ」
どうだ、リア充死ねとでも言ってみろ、とでも言いたげなドヤ顔が癪に障る。
というか、飲み会とか言っているがお前は下戸だろうが。
「まあ、君はエア友達と戯れていればいいのさ」
「……爆発してしまえ」
さて、おき。Mと外で鉢合わせるのは珍しい。何だかんだでこいつは忙しいのか、それとも暇なのか、どこか一箇所にずっと居座っていることが多い。だから、こうして出くわすというのは中々ないことなのだ。
「今から暇なんだけどさ、お前の部屋、行っていい?」
「まあ、いいけど」
別に困ることがあるわけでもなし、Mの提案を受け入れる。
Mは自宅を持っていない。というよりは、実家から追い出されて路頭に迷っている。寝食の大体は愛車である中古の軽の中で行い、風呂は安い銭湯で済ませている。今も銭湯の帰りなのだろう、手提げ袋を提げている。
だからこうして、スキさえあれば友人の家に泊り込もうとするのだ。流石に冬場は、あの通気性抜群の軽の中は辛いらしい。私のアパートも大概だが、布団があるだけマシだとか。
金はあるらしく、一度アパートを借りるように言ってみたが、どうやら親が保証人になってくれないらしい。一体何をすればそれほどまでに親に嫌われるのか、イッペン聞いてみたいと思うところだ。
道すがら、スーパーで夕飯の材料を買い込む。ところでこのスーパー、真夜中であっても平気な顔をして営業するような外道スーパーであるのだが、近隣のコンビニはこのことをどう思っているのか、非常に気になるところだ。
面倒なので、食事は鍋物にすることに決めた。昆布、鶏骨、鶏肉、白菜、長ネギ、椎茸、しらたき等を投入した水炊き……というよりは無色鍋である。
所詮貧乏学生の鍋なんてこんなものだ。
寝床のボロアパートに戻ると、月が昇る時間になっても灯一つ点いていなかった。今夜はどの部屋の住人も用事があるようだ。よくこのボロアパートの住民たちで一緒に鍋を突付いたりするが、その時の鍋は今回のような貧乏鍋とはまた違う。たまに悪乗りしてしまうものの、大体がマトモな食材を持ち寄るからだ。
……ん? 集まって鍋パーティーを開けるような相手がいるということは、私もリア充の類だということになるのか? 非リア充というスタンスでやっているのだから、それはそれで問題じゃないのか?
そんなくだらないことを考えながらボロアパートの錆びた鉄階段を音を立てて登って行く。時々踏み抜いてしまうのではないかと不安になるが、不思議と抜けることはない。
当然ながら、部屋の中には誰もいない。シンと静まり返った空気が部屋には満ちていた。
「下沢のヤツ、大学辞めるって」
「マジで? なんでさ、今辞めていいことなんかないだろ」
「逆。今以外に辞め時はないんだってさ。就職に少しでもプラスになれば、と思ったものの、ここ数年の雇用状況を見ると、このまま続けててもしょうがないとか思ったって。今は会社の設立を目指して資金を調達してるとか」
「ぇっはー。あいつも無理するなぁ。今創めても、それこそしょうがないと思うぞ、俺は」
「まぁ、少し状況が落ち着いてからでもいいとは思うけどね。ただ、流石に会社を創るとなると話が別なんじゃない? あいつの先見の明がどれほどのものか、知らないけどね」
そんな近況報告をお互いにしながら、私たちは鍋の準備を始めた。Mはカセットコンロを引っ張り出し、私は鍋に水と昆布と鶏がらを突っ込んで火を掛けつつ、具材を切ったり洗ったりする。
数十分も煮込むと、だし汁が出来上がる。鶏がらと昆布を取り除き、だし汁を土鍋に移して、そのままコンロでまず鶏肉を、その後白菜、長ネギ等を煮込んでいく。
最後にしらたきを突っ込んで、ひとまずは完成。机の上にスタンバイされていたカセットコンロへと鍋と残りの具材を持っていく。
後は取り皿とポン酢、お玉を持って行って鍋の準備はできあがる。
無個性な無色鍋であっても、ポン酢があってダシさえそれなりなら、美味しくできてしまうものだ。
「まあ、この時代、下沢並みの行動力がないと成功できないってことか。俺は無理」
「下沢が成功したらあやかろう」
自分で言っておきながら、最低な台詞だな、これ。
「ところで、下沢は何をするつもりなんだ?」
「エロゲメーカーだって」
「ああ、それは……成功するな……」
その下沢とやらは大概アレな訳であるが。
残りの具材もなくなり、鍋も底を見せる。その頃になると、部屋の中の空気も弛緩し始める。
そんな空気振り払うように、Mはその話を始めた。
「今日は妙な空気だな」
「ん? 何を突然……」
「なんというか、輪郭がハッキリしているくせに、空気はぼんやりしている。自分だけはしっかりと持っているのに、周りの空気があやふや。なんというか、夢に近いというか、夢とは間逆というか……」
「よくわかんないな。確かになんか変な空気の夜だとは思うけど、これといって妙なことは起きてないよね?」
「確かにそうなんだけどな。今夜は一人で過ごすのはちょっとイヤだったから、お前の部屋に転がり込めてよかったわ」
何をしおらしいことを……。男のクセに、気持ち悪い。
しかし、そういう自分もまた、この夜の空気が少し嫌だったりする。なんというか、うなじの部分がぞわぞわするというか、背筋を何か得体の知れないものが這いずり回っているというか、そんな厭な感覚があったりする。肩甲骨と肩甲骨の間、その少し上辺りが凝ったような感覚にも近い。そんな正体不明の感覚に襲われている。それは、コンビニから出た辺りから続いているのだ。
これは、そうだ。心霊番組を見た後のあの気持ち悪さだ。特に、邦画独特のあの空気感、気持ちの悪い間とねっとりした空気、それに似ていた。
台所の暗がりが目に入った時に、その正体に気がついた。
暗闇の中に何かが潜んでいるような幻覚に陥った時、それそのものだった。開いた押入れの隙間、その闇の中から何かが覗いているように感じられたのだ。
今夜は月が明るく、そして闇が濃い。だから、暗がりがいつもより強調され、目に付いたのだろう。それがいつの間にか、人の一番原始的なトコロ――暗がりの中の気配に敏感になってしまったのだ。
しかし、気配なんてものが正常に機能している現代人は少ない。故に、こうしてただ闇の中を警戒し、怯えるだけになってしまったのだ。
――そうは言っても、その原因をどうにかすることなど、普通の人間には無理だろう。どうしても暗闇の中に棲む『何か』を人間は妄想してしまう。それは、どんなに科学が進んでも、人が灯りを精神的な要因に置いて欲していることからも明らかだ。
見えないということは不安だ。最初から見えないのならまだしも、人が急に視覚を失うのは、自ら感じ取れる世界の多くを消失することに近い。そして、闇の中というのは視覚を失った世界に非常に近い性質を持つ。今回の恐怖の正体はそれなのだろう。
しかし、今回ばかりは恐怖の正体を知ったからと言って、その恐怖そのものが消えるわけではなかった。なんせそもそも形のないモノだからだ。その正体は妄想そのもの。その妄想を振り払うだけの意志力がない限りは、その恐怖はいつまで経っても付きまとってくる。きっとそれらと折り合いをつけて、人は恐怖を乗り越えていかなくてはならないのだ。
「ところで、こんな怪談があるのだが」
そうまとめた辺りで、Mはその都市伝説を口にした。
「ルームメイトの死っていう都市伝説があってだな」
それは、夜遅くに帰ってきた主人公が、ルームメイトを起こさないように真っ暗なままで寝て、朝目覚めると横には殺害されていたルームメイトがいた。そして血文字によって書かれた「電気をつけなくて命拾いしたね」というメッセージがあった、という話である。
……相変わらず空気の読めない男だった。
電灯を落とすと南向きの窓から差し込む月明かりだけが、この部屋を照らす。その月明かりも、群雲へと姿を消す。すると、部屋の中は真っ暗闇となってしまう。
六畳間の狭い部屋では、布団を二枚敷くとそれだけで足の踏み場が無くなってしまう。起きて半畳寝て一畳とは言うが、布団は二畳分ぐらい場所を取る。
だから、布団から抜け出す時は最新の注意を伴った。暗い部屋の中で、間違ってMを踏んでしまっては、可哀想である。
……まあ、むしろもっと踏んでくださいとか言い出しそうではあるが。流石に私に踏まれるのは嫌なんじゃないかなと思う。
冷蔵庫の中のお酒を持って、窓際まで歩く。途中踏みそうになってつまずき掛けたが、何とか無事に窓際に辿り着く。
窓からは、群雲に姿を消したお月様が、それでも微かな光を漏らしている。このまま窓を開けて窓枠に腰掛けたいところだが、虫が入ってくるので網戸を開けることができない。
夜闇は静かに街を包み込んでいた。街の明かりはちらちらと見えているが、それでも空を照らすまでには至らない。
まるで街そのものが闇の中に落ち込んでしまったみたいだった。闇は根源的な恐怖を呼び起こすが、大部分の人間は闇の中で深い休息を取る。それは、人が夜という危険な時間帯を我が物にしたということを指す。
しかし、それでも人は闇を恐怖する。闇を怖くないと声高々に言う人間はいるが、その多くは恐怖に対して鈍感になってしまっているのだ。
それを悪しとは言わない。それはある意味、人間の進歩の証であるからだ。
だが、それでも、闇の中には依然として恐怖は存在する。何故ならば、闇そのものは未だその意味を失ってはいないからだ。
都市伝説、ルームメイトの死。それは、何もかもを覆い隠してしまうという闇の本質を核にしている。そういった怪談話がある限り、人は闇そのものを克服したとは言えない。
いや、そもそも闇を克服するには、人が物理的な進化をすることが必要だ。超音波によって闇の中を飛び回るコウモリのように、闇の意味そのものを剥奪するような、そんな進化を行わなくてはならない。しかしそれは、人という種がこのまま道具に頼る限りは不可能な話である。
そして、闇が消え去ることはない。そもそも闇はこの宇宙そのものの本質であるからだ。
宇宙にはそもそも光は存在しない。太陽などの恒星があって初めて、宇宙は照らされるのだ。そして、星は自ら輝くか周囲の恒星に照らされて輝く。月もまた、太陽に照らされて輝いている。そして同時に、月や星が輝けるのはこんな闇夜だけなのである。
そのことに気付くと、闇のまた別の一面が見えてくる気がした。
闇の中に瞬く星や月が、どれほど綺麗なものなのか、それを私たちは知っている。
闇の恐怖を拭い去ることはできないが、闇の中でも見えるモノの大概は、私たちにとって憧憬たるものである。
闇に落ちた街角、その茂みの中に、ガラス玉が二つ、こちらに光を指す。
「……あれ? 猫かな?」
――否、それは猫らしき動物の瞳であった。幽霊視たり、枯れ尾花。人が恐れるものの正体というのは大体こんなもんなのだろうか。
光の主は、がさりと茂みの中に潜り込んだ。やがて、周囲に一片の光も見当たらなくなる。
闇は内包する。混沌、秩序、そして輝きを。その輝きを見つけることができれば、きっと私たちは闇に対して、少しは胸を張ることができるだろうか。
――群雲が晴れる。すると、そこには夜闇に浮かぶ白銀の月が、私たちを見下ろしていた。
七/暗闇の中に潜むモノ――了