二/夏の怪物は何を思う
子供の頃、とにかくまわり道が好きで家に帰るのですら、様々な道を辿って帰っていた。無意味に裏道を通ったり、藪道獣道に潜り込んだりと、ふらふらと小さな冒険を繰り返しながらの、毎日の家路を楽しんでいた。
いつの間にかその悪癖もすっかりと抜け、今では如何に最短距離最速時間で家に帰りつくかを考えている。この夏の話は、そんなまわり道の話だ。
その日の夜も、両隣からテレビや話し声が洩れ聞こえ、たまに国道を大きな音を立てながら単車が走っていくという、いつもと変わらぬ雑多な静けさに包まれた夜であった。
このボロアパートは南側に大窓があり、その大窓からは綺麗にまん丸な月が覗いている。
さて、いつもは気にすることもないお月様であるが、今夜は少し事情が違った。残り一本となっていた蛍光灯の寿命がついに尽き、部屋の中が真っ暗になってしまったのだ。
このまま寝てしまおうと思ったが、寝苦しさを感じる暑さの為にいつまでたっても眠気はやってこない。
少し布団の上に寝転がるだけでタンクトップがびしょびしょになってしまい、その上喉も乾いてきて、寝てもいられずに布団から出る。その頃には隣人は寝入ってしまったのだろう。窓の外から聞こえてくる車の走行音か、虫の鳴き声ぐらいしか聞こえてくるものがない。
ついでに冷蔵庫の中には何も飲み物がなかった。連日の猛暑で麦茶のポットが空っぽになってしまっていた。そのくせ素麺の汁だけはポットになみなみと入っている所為で、余計に何か飲み物が飲みたくなって来る。
飲み物が飲みたくて、かつ必要な物もある。私は、汗だくの肌からタンクトップを剥ぎとり、シャツと上着を適当に羽織ると、ボロアパートを出る。
どうせだから夜の散歩も兼ねてコンビニに行こうと、自転車には手を出さなかった。
コンビニというのは大体歩いていける距離にあるものだ。特に人口密度の濃い場所ではその傾向が顕著であり、歩いていける距離にコンビニがないとしたら、それは田舎町ぐらいのものだろう。
この街は学生が多く、夜でもふらふらと遊びまわる学生の姿をちらほら見る。点在するアパートやマンションの灯りを横目に、私も夜の町を学生らと同じようにふらふらと出歩く。
程なくして、コンビニへと辿り着く。蛍光灯とペットボトルのお茶、発泡酒を数本購入すると、帰宅の路に付く。
しばらく歩くと、裏道にそれる道を見つける。行きはコンビニに行くことを主眼に置いていた為に見逃していたが、ふとこの薄暗いわき道を通ってみたいという衝動に駆られた私は、そのまま街灯一本が照らす裏道へと潜り込んでいく。
「……この辺、昔通った道だ」
この道には覚えがあった。子供の頃、学校から家まで寄り道染みた冒険をする為に潜り込んだ覚えがある。
確か、この道を坂の上まで上っていくと、ちょっとした広場が見えた筈だ。昔、その広場で遊んだ覚えがある。そのまま坂道を上っていく。
程なくして、道からそれる形でぽつんと隠れるようにその広場は現われる、筈だった。
「なくなってる?」
いや、なくなっている、というわけではなかった。手入れもされずに最早広場というよりは林というべきか、膝上ほどの雑草がびっしりと生えてしまっている。
その雑草を蹴り折り獣道を作るつもりで潜っていく。すると、不思議とあまり雑草が育っていない場所へと繋がった。切り株を中心に、ぽっかりとその辺だけ雑草の伸びが悪かった。
「――っ!」
その切り株の上に腰掛け、夜空に浮かぶ月を眺める影があった。
それは、本当に影だった。のっぺらぼうな影法師のような生き物。目のようなものが二つだけ光っており、それはひたすら月を眺めていた。
まるでこの空間はこの影法師の領域のようであった。汗すら止まり、目は影法師に釘付けになってしまう。
影法師がこちらに気付く。落とすように首を折り、目のようなモノはまっすぐと私を射抜く。
思い出したかのようにぶわっと汗が溢れ出す。私は思わず悲鳴を上げることすら忘れてきた道を走り逃げた。
草むらの中を迷わなかったのは運が良かったのか、それとも無意識に蹴り折った草を目印にして元の道に戻ったのか、いずれにせよ、気が付いた時にはいつものボロアパートの自室にへたり込んでいた。
「――それってさ、夏の怪物だよ」
いつもの如く友人のMが呼びもしないのに私の部屋に現われ、自慢のオカルトウンチクを披露する。口を滑らせてしまい、少し前に起こったことを話してしまったのが災いし、あまり楽しくない話に付き合うことになってしまった。
夏の怪物とは。この街に最近流れ始めた都市伝説の類で、夏になったらあらゆる所、時間に現われる謎の化け物の怪談である。
「まあ、これといって悪さをするモノではないけれど、モノノケの類に分類されるものには変わりないだろうね。で、君はそれを本当に見たの?」
Mはオカルト話や怪談の類を収集するのが趣味のクセして、その存在には懐疑的な立場を取っている。「好きなことと肯定することは違う」と彼は言うが、やはり意味が分からない。
「見たよ。間違えようがなかったね」
「お酒も飲んでない?」
「飲んでない」
この辺もムカつく所だ。とにかく疑う。猜疑心の塊のような男で、口調に性格の嫌らしさが見え隠れするからムカついてくるのだ。
「まあ、君が見たかどうかは問題じゃないか。えーっと、ここで問題なのはその夏の怪物がどーいう因果で君の前の現われたか、というところかな」
「どういうこと? 夏の怪物って因縁とかがないと化けて出ないものなの?」
「因縁じゃなくて因果。どうやって君は夏の怪物を見ることになったのか、幽霊を見るメカニズムについてさ」
「……?」
メカニズムも何も、幽霊なんて科学的に説明できるもんじゃないだろうに。それを解明できるなんて、ありえない。
「人の目で見た物ってのは目の中ではまだ現実そのものなんだ。だけど、頭にその情報が転送されると、それはいとも簡単に脳によって改変されてしまう。それは、自然界で生き残るには重要なファクターであってね、中途半端な情報を補完して、即行動に起こす為の経験則というわけさ。
――その結果、見たものはその人だけの情報になってしまうんだ。人は目で物を見て、現実は頭で見る。ふむ、中々詩的な表現だな……」
「知るかよ……。で、何さ。つまりお前さんが言いたいのは、この目で見た物が気のせい、脳みそが勝手に作り出した妄想だっていいのかな?」
「勝手に作り出した、っていうのは語弊があるかな。物理的に見たものを、その時頭にあった何かで補完した、ってところかな。逆説的には、この理論は幽霊の証明にも繋がるかも知れないんだ」
ワクワクとした、少年のような目でテンションを上げるM。興奮した大人ってこんなにウザかったのか。
「前述のとおり、脳みそは見たモノを補完してしまうという厄介な特性を持っている。しかし、この特性はある種の情報を受け取った時に、ある感覚的な情報に変換される」
「それが幽霊の正体だっていうの?」
「そう仮説する人もいるってことさ。言うなれば、その特殊な情報が『幽霊』そのもので、その情報を受け取る器官、感覚が『霊感』ってところかな。霊感があるなしの違いは、その感覚器が人より優れているかどうか、と言ったところかな」
そういって、どっかの受け入りをさも自分の意見かのように披露するMを横目に、私はあの広場をもう一度想う。
それから数日後。まだまだ暑いものの、夏は少しずつ列島から旅立ちつつあった。
太陽はぎらぎらと照り付け、紫外線注意報は連日発令中。そのワリに海側からは涼しい風が吹き付ける所為で、紫外線が強いということを忘れてしまいそうになる。
あの広場に道に差し掛かる。ほとんど偶然だ。偶然この道を使って、偶然その時、暇があった。だから、あの広場に行く道を探す。
――後から探しに行って見つからなかった、という怪談めいたオチがあったわけでもなく、程なくして広場は見つかる。
前と同じように草むらを蹴り折って広場に入ると、あの時と同じように、影法師が切り株の上に座って、こちらの方をじぃっと眺めていた。
「……バカみたいだ」
そう呟きながら、その影法師の横に座る。当の影法師は、ひたすらに私が入ってきた広場への入り口を見つめている。
「マネキンかよ……」
黒い布を被せられたマネキンだった。黒い布には細工がしてあって、丸く切り取られたアルミホイルが二つ、頭に当たるところに貼り付けてあった。これが月明かりを反射して、光る目を演出していたらしい。首は折れてしまって、中骨の針金だけで首が繋がっていた。
イタズラなのか、それとも何かに使った小道具をここに投棄したのか、いずれにせよはた迷惑なマネをしてくれる。
ふと、思った。もし、幽霊情報と友人が呼ぶものが魂とか感情といった類のものならば、それを受け取った人間が見るものは幽霊と変わらないのではないだろうか、と。
古来より物には魂が宿るという。もし、このマネキンに何らかの由縁があって、魂が宿るようなことがあれば、それはこのマネキンが幽霊と相違ないということになる。
魂の解明・証明は未だ成されていないが、もしそれが正しかったら、自分の見たアレはなんだったのだろうか。
何が言いたいって、要は「自分の見たものはやっぱり幽霊だった」、ということだ。
そんな屁理屈を捏ねながらも、私は幽霊の存在を肯定する。このマネキンの存在は、私にとってそんなに残念なことだったのだろうか?
考えてみて、詮のない話だと気付く。この結果が後の自分に何らかの変革をもたらすかと言うと、そういうわけでもない。
首をだらりと下げたマネキンは、今では自分の足元を眺めている。私は首の位置を元の、空を見上げられるように戻すと、広場を後にする。
もし、あのマネキンに幽霊が宿っていたとしたら、ここでじぃっと空を見つめ続ける彼――夏の怪物はどう思ったのだろうか。そして、この広場に入ってきた私をどう見つめたのだろうか。
――振り返ると、夏の化け物は青い空と入道雲を眺めていた。夏が終わる頃には、彼はこの広場から姿を消していた。
二/夏の怪物は何を思う――了