一/雨女に関する考察
こつんこつんと窓を叩く雨と、びうびうと吹き抜ける隙間風が、このボロアパートの中をぬるく湿らせてゆく。
今日は雲の層も厚く、真昼だというのに真夜中のようで、電気を消すと足元すら不確かだ。乾き物は連日の雨で湿気てしまっており、お茶請けに買っておいたせんべいは食べられたものではなかった。このまま捨てるのも勿体無いので、グリルで焼いてみるが、思うように焼けなかった。それが一昨日の話だ。
両隣からはテレビの音が聞こえてくる。どうやらお隣さんも雨の為に暇を持て余しているようだ。
このボロアパート、戸は傷んでいてチェーンロックなんて付いてないも同然だ。チェーンロックよりも、この薄い壁の方が信用できる。大声を上げれば隣の人が気付いてくれるということと、あとは壁に思いっきり体当たりすれば隣に繋がる、という意味で。
しかもこのアパートにはエアコンなんて上等なもの、はじめから付いてはいない。おかげでこの蒸し暑さに加え、雨が降り込むせいでマトモに窓も開けられないという始末。雨漏りしないだけマシであるが、流石にこの暑さには参ってしまう。
「暇だ」
遊びに来ていた友人は、その雑多な静寂を叩き壊す。彼は大学に入ってからの友人で、名前を仮にMとしよう。由来は、ドMのMである。
「……そもそも、ここには、暇を潰せるようなものはないよ」
私はそのMをそうやってあしらう。Mが絡んできて、私がテキトーにあしらう。いつもの流れである。
「ふむ。ならば、雨にまつわる話、なんてどうだ?」
「暑いから怪談のつもり?」
調子悪いのにここで怪談されるのはちょっと……。
「丁度いいネタを仕入れたんだ」
Mはオカルトマニアだ。都市伝説から昔話まで、様々な国・時代のオカルト話を収集してはばら撒くというシュミの悪い趣味を持っている。
そのくせ、当人は科学信奉者だというからおかしな話である。何でも、「見聞きしたものしか信じないが、それイコールオカルトを信じない、という理由にはならない」だそうだ。そう言うクセに、「現状ではそれらオカルトを信じられる根拠はない」とまで言うのだから、わけが分からない。発言がまるで矛盾しているように感じられる。
「雨女って、知ってる?」
「うん。確か、雨に好かれている人の、ことだよね」
「そうそう。彼女らが何をするにしてもそこには雨が付きまとう。そんな因果を持つ奴らのことを、巷では雨男・雨女と言うね」
因みに、この気取った口調はこいつのクセだ。その手の専門家でもないのに、普段の会話で『因果』とか真面目な顔で言う奴は相当イタいと思うのだが、どうだろうか。
「こいつらが何で雨を呼び寄せるのか、ちょっと考えたことはない?」
「運が悪いんでしょ、単純に」
また面倒な話題を振ってくるな、こいつ。こっちは頭が痛くて、あんまり頭もしっかり回らないというのに……面倒だ。
「天候を変えるほどの悪運、か。こうやって字に表すと妙にかっこよくない? 雨女にルビでウェザールーラーなんて付けちゃいたくなるな」
「そんなの付けちゃ、イタくなるね」
微妙に黒焦げしそうな会話だ。
「ところでこの雨女、同じ名前の妖怪がいるんだ。多分、雨男・雨女の由来はここから来ていると思うんだ」
「へぇ……」
とりあえず、相槌を打っておく。その『とりあえず』っぷりにMは気付くことなく、話を続ける。
「――ある雨の日、生まれたばかりの子供が神隠しに遭う。その母親は、悲しみにくれやがて妖怪になった。以来、子供が泣いていると雨と共に大きな袋を持った女が現れるという。
――泣く子も黙る妖怪話、雨女の出来上がりさ」
「まあ怖い。何が怖いって趣味だけでそんな細かい所まで調べている君が怖いよ」
「お褒めに預かり光栄だよ」
けなしているんだよ、この暇人が。
「雨女、ねぇ……」
しかしまあ、雨女が気の毒になる話だ。子供を失くした上に、自分は妖怪になっている。そして延々と悲しみ、涙を流し続ける。これもまた、後味の悪い話だ。
畳に直置きしているペットボトルを手に取る。中は水で、この湿気と暑さでペットボトルの周りには水滴が付いている。口の中が乾いてきたので、ペットボトルの中の水で口を潤す。
窓の外も雨で水まみれ、中は中で湿気と飲み水で水だらけ。私の体の中だってそうだ。人体の七十パーセント近くが水だとか、そんなフレーズの飲料水のCMもあったっけ。
ちゃぽんと音を立てる水。ぽとぽととペットボトルにくっついた水滴が畳を濡らす。
私は近場のコンビニにてアルバイトをしている。その日、私は、結局上手く焼けなかったせんべいを放り投げて、仕事先に向かった。雨は強まりながらもだらだらと振り続ける。こういう日はあまり外には出たくないのだが、仕事なので仕方が無い。
そのコンビニはテナントビルの一階に位置しており、上には怪しげな団体の事務所があるためか、変な人間がよく来る。その割にはこの辺は人通りが少なく、夜も更けてくると完全に客足は途絶える。来るとしたら上の事務所の関係者ぐらいだ。そのため、やっておくべき仕事も片付いてしまい、レジ番を一人立たせて後は裏でサボる、というのがこのコンビニの夜のシフトメンバーの仕事っぷりだ。
雨はまだ止む気配を見せない。なお強くなる雨音に、先輩はうんざりとした顔を見せている。
その先輩がバックヤードでサボっている頃だった。一人の女性客が現われた。大きなバックを片手に、びしょびしょに濡れた髪の毛をタオルで拭っている。タオルはその大きなバッグの中から取り出したもので、タオルは乾いたままだった。バッグは水滴を弾いており、きっと防水性なのだろう。
女は黙ったまま、店内を歩き回り、菓子類を物色する。
その女性客は菓子ばかり、籠一つ満杯になるほどのお菓子を買い込むとそれらお菓子の数々を大きなバッグの中に入れていく。
「ご一緒に、傘はいかがなさいますか?」
その異様な雰囲気に、思わずそう口を聞いてしまった。
しまったと思った。これじゃあまるで押し売りの類だ。しかし、出した言葉を引っ込めることはできない。長い沈黙が店内に流れる。
「願掛け、なんです」
すると、意外な言葉が返ってきた。「結構です」、でもなく、「いらないです」、でもない。
「それってアレですよね、何か願い事が叶うまで、何か好きなモノを絶ったり」
「ええ。私の場合、雨の日に傘をささずに歩くことが、一種の願掛けなんです。だから、傘はいらないです」
そう言うと、女はレジを離れる。
「でも、ありがとうございます。心配してくれるって、嬉しいことですよね」
その言葉を残し、女は店を後にする。
ふと思い出したように先輩がバックヤードから姿を現した。どうやらレジ番を交代するつもりらしい。
「ああ、アレね。この辺で有名な雨女なのよ」
「雨女?」
「そうそう。雨の日に傘もささずに歩き回る女っていう、まさに歩く都市伝説」
都市伝説なのに実在している。よく考えなくてもおかしい話だ。
「あの女な、子供が行方不明になっているのよ。神隠しって奴。子供がいなくなった日が雨の降っている日だったから、あの女はこうして雨の日に子供を捜して歩き回っているんだよ」
「それが何で都市伝説になるんですか」
それじゃあただの悲劇だ。友人曰く、都市伝説ってのは怪奇譚でなければならないらしい。それも、実在するのかあやふやな怪奇譚。それが都市伝説の骨子になければならない。例えば鎌を持った口の裂けた女とか、病院地下のホルマリンプールとか、そういったあるのかないのか分からないモノを都市伝説と呼び、紙幣を折るとピラミッドになるとか数字を当てはめていくと特定の日にちを指すとか、そういうのは陰謀論だって言ってんだろ、といつも口を酸っぱくして言っている。……正直、どちらでもいい話だ。
「いやね、女は雨の日にいつもあの大きなバッグを持っているんだけど、その中には何が入っているのか、ってのが話のミソだったんだよ。曰く、白骨化した子供の死体だとか、むしろ何も入ってなくて、子供を見つけたらバッグに詰めるつもりだ、とかそんな話が実しやかに囁かれていたわけ」
だから歩く都市伝説というわけか。正確には『だった』を付けるべきか。
「だけど、今日何となく分かったよ。あん中には大量のお菓子が入ってたわけか」
この都市伝説の肝は、バッグの中身。それが今確認されてしまったが故に、この都市伝説はその意義を失い、ただの事実に成り下がってしまった。故に、この都市伝説は終わってしまった都市伝説なのだ。
しかし、何故お菓子をあんなに……。
「さておき、レジ交代だ。倉庫でサボって来ていいぞ」
「あ、はい」
私は倉庫に潜りながら思う。丁度いい。どうせだから、とことん雨女の気持ちになってみよう、と。
「……だから、雨の日に傘も差さずにバイト先からこの部屋に戻ってきて、風邪を引いてしまったのか」
Mは呆れ声を上げた。私は枕元に水の入ったペットボトルを置くと、もう一度万年床に潜り込む。
「だって、思ったんだもん。雨に濡れたら、ちょっとは雨女の気持ちが分かるかなぁって……」
結局、良く分からなかったけど……。でも、少しだけ新鮮な気持ちにはなれた。傘を持っているクセに差すこともせずに、雨に降られている私を見る人の目が、少し痛かったけれども。
「他人の気持ちなんて、そう簡単に分かってたまるかよ。そんなエスパーみたいな能力があれば、もう少しは楽に社会に溶け込めるよ」
Mはそう毒づく。Mは偉そうな口を聞くくせに、人見知りをする。人前だとその口もそう簡単に動かないという。
「――そうそう。件の雨女、今日死体で見つかったぞ」
「……っ! それって、どういう……」
「どうもこうも、ただの心筋梗塞だったらしい。雨の日に歩き回ったツケじゃないのか?」
それは、少しショックだった。元気とは言えないものの、死ぬ様子の無い人が急に死んだ、という話を聞くと、知らない相手であっても少しばかりのショックを受けても仕方が無いだろう。
「でもまあ、何でか知らないけど、その女、すっげぇ幸せそうな顔をしていたそうだ」
「……」
ありがちな話だ。死ぬ間際に願ってたモノの幻想を見る。本当にありふれていて嫌になる。
結局女は自分の作り出した妄想と幻想によって救われた。その代償として、彼女はその命を失う。彼女はニセモノの救いに救われて、やがて息絶えた。その推測が本当ならば、それはどれだけみじめで、救いの無い話なのだろうか。
「でさあ、ちょっと気になるのが、バッグの中には大量のお菓子が入ってたらしいんだけど、何でか分かるか?」
「それは……分かんないや」
そう言って、私は話はこれまで、と言わんばかりに布団を被る。
……その話に関しては、実のところ仮説があることにはある。だけどそれはあくまで仮説であるし、何より今になっては確かめようの無いことだ。それに、この程度のことも推論付けられないこの男には、少しばかり悩んでもらおうとも思ったのもまた口にしなかった理由の一つだ。
もし、もしだ。雨の日にいなくなってしまった子供が、また雨の日に戻ってくると信じている母親がいるとしよう。その時、子供は一体どういう状況なのだろうか?
そして雨女はその結論に至った。
それは無論、推論であるし、この理論を結論とするにはいくらなんでも状況証拠が過ぎる。しかしまあ、そう考えた方がまだ後味がいい。
子供がもし見つかった時、お腹を空かせていたら。そうしたら、バックの中のお菓子を食べさせてあげよう。そう思ったんじゃないだろうか。
ヒトデナシの友人、Mは悩み始めて沈黙したため、部屋は元の雑多な静けさを取り戻す。隣の部屋のテレビの音が洩れ聞こえ、屋根を叩く雨音が部屋に響き渡る。
――もう一度、ペットボトルの水を飲む。温くなってしまい、結露も細かなモノから大きな水滴に変わっている。
この雨の中で、もう女は歩き回らない。悲しみながら歩き回ることも無い。今日、雨の中で涙を流すのは、このペットボトルぐらいでいいだろう。
一/雨女に関する考察――了