第8話:闇こそが日常(La vital est Darc)
「タミン……どうした? 泣くなよ……お前にはオレがいる……心配要らない」
弟の名前は、“タミン”というらしい。――弟の側に座りこみながら、タージェが言った。
弟からの返事はない。
「オレの傷か? 大丈夫さ……じきに良くなる……きっと良くなる……」
弟がそうしているように、タージェもまた、壁に背を預けていた。タージェの腹部には穴が空いており、そこから血が溢れている。まるで、銃弾か何かを撃ち込まれたかのような怪我であり、タージェの言葉は、半ば自らに言い聞かせているかのような口調だった。
弟からの返事はない。
「『どうしたのか』だって? ――ドジっちまったんだよ。油断したんだ。気付くチャンスはあったのに、欲張って、失敗した……」
腕を伸ばすと、タージェは弟の身体の一部を掴んだ。そのまま弟の身体の一部を引きちぎると、タージェはそれを口に運んだ。タージェが食べているのは、干からびた弟の皮膚である。
弟からの返事はない。
弟は死んでいる。
弟は半分干からび、半分白骨化していた。
◇◇◇
「もう十分でしょう?」
「あ……」
オリヴィエに呼びかけられるまで、シロットは完全にタージェに釘付けになっていた。
キュウの棲み処の最上階に、肝心のキュウはいなかった。その代わりにいたのは、被弾して瀕死となったタージェと、そのタージェが必死に探して求めていたはずの弟――ただし、死んでいる――だった。
「なに、アイツ、」
シロットの背中を、冷たいものが走る。
「狂ってた、ってこと?」
「タージェの弟は、とっくの昔に死んでいたのよ。でもタージェは、弟の死を受け入れられなかった。その心の隙を、キュウにつけ込まれた」
弟の亡骸に話しかけるタージェの姿をじっと見つめながら、オリヴィエは言った。ひとりで明るく、楽しそうに笑うタージェの姿は、不気味を通り越して、滑稽でさえあった。
「魔獣と融合してしまった時点で、その人間は精神的に死んでしまう。魔獣が人間の姿を保っているときは、生前の記憶を引き出して、人間らしく振舞っているのよ」
「でも、初めにキュウに襲われたとき……」
「あれは一時的に、キュウが宿主を離れただけよ。それに、タージェはキュウにそっくりだった。分かるでしょう? キュウと同じように、タージェも目が見えてない。でも、それをごまかせるくらい、耳が良かったこと――」
自分の記憶を、シロットは振り返ってみる。
言われてみると確かに、思い当たるふしがあった。狙撃を受け、ビルに隠れたオリヴィエとシロットをいぶし出すときに、タージェは発煙弾を投げてきた。発煙弾の効き目は、当然タージェにも及ぶはずだ。しかし、タージェに苦しむそぶりはなかった。視神経が死んでしまっていたせいで、タージェは痛みを感じなかったのだ。
それに、隠れ家に向かうときも、タージェだけは暗闇を怖れず、ひとり先頭を突っ走っていた。あれも、タージェにとっては闇こそが日常だからだ。――オリヴィエがタージェを追いかけなかったのは、もうその時点で既に、タージェの正体に気付いていたからだろう。
「で……どうする?」
「このままでいい」
鉄鎚を握りしめたシロットに対し、オリヴィエはかぶりを振った。
「そっとしておいてあげましょう。私たちが手を下さなくとも、タージェはじきに死ぬわ」
「筋、通してあげるべきじゃない?」
シロットは言った。
「前も言ったと思うけど、アイツ、あたしたちのことを騙して、殺そうとしたのよ? それに――」
「それに?」
「あれは、かわいそうよ。見てて虚しくなる」
「アハハハハ!」
聞こえてくるタージェの笑い声は、いつしか病的なけたたましさに変わっていた。
「あれも、タージェが選んだ道よ」
「そうだけど……」
「もし、シロットが『どうしても赦せない』っていうのならば、止めはしないわ」
「そーゆー言い方、ズルいと思うんだけどな……」
シロットはため息をつくと、鉄鎚をしまった。
「『汝の敵を愛せ』、ハイハイ、分かってますよお姫様」
シロットの言い方に、オリヴィエはムッとした様子だった。
「『お姫様って呼ばない』っていう約束よ、シロット。――ほら、こっち」
「あはん? じゃあ、“ちゃん”付けはオッケーってことね?」
「そういう問題じゃない――」
そう言いながら、オリヴィエとシロットの二人は、真後ろにあった階段を下っていった。
◇◇◇
最初の踊り場にたどり着いたとき、オリヴィエがふと、後ろを振り向いた。
「どうしたの、オリヴィエちゃん?」
「言ったのよ、私、『あなたは生まれ変わることができる。もう一度生きることができる』って、タージェに」
「言ってたわ」
深く息を吐きながら、シロットはオリヴィエに答えた。オリヴィエの瞳は、じっとシロットを見つめている。
「あなた、確かに言ってたわ」
シロットは“オリヴィエちゃん”とは言わず、オリヴィエのことを“あなた”と呼んだ。ここで、この場面では、そう呼ぶべきだと思ったからだ。
「証人になってあげても良い」
「ありがとう。――ねぇ、シロット」
「何?」
「私も、生まれ変わることができると思う? もう一度、生きることができるかしら?」
「さぁ……?」
シロットは首をかしげた。
「本人次第じゃないかしら? よく分かんないけど」
「そうよね。ありがとう」
きびすを返すと、オリヴィエは再び階段を降り始めた。シロットは、そんなオリヴィエを追った。