第7話:我は庭の王(Les Bassilica ov Microcosmos)
右手は壁に添え、左手では銃を構えながら、オリヴィエは慎重に、塔の頂上を目指していた。
オリヴィエたちは、タージェを先頭に、シロット、そしてオリヴィエの順に、一列になって進んでいる。
先頭を進むタージェは、オリヴィエから借りたランタンを掲げつつ、時折頭上を見上げては、塔の頂上にいるであろう、怪鳥・キュウの様子を確かめていた。
建物は、一階から頂上までが吹抜けになっている。だから、見上げさえすれば、ある程度の高さまでは、目で確認することができた。キュウは目が見えないから、ランタンを掲げても問題ない。
しかし、三人のいる位置からは、キュウがどこにいるのか分からなかった。にもかかわらず、建物の上からは、ガラスの破片や金属の切れ端が、断続的に落下してくる。
――バレてんのかな?
――分からない。
ささやいてきたシロットに対し、オリヴィエはかぶりを振る。
しかし、このことに関連して、オリヴィエはあることを予感していた。だが、そのことをシロットに打ち明けるわけにはいかなかった。今打ち明けてしまったら、シロットを窮地に立たせるばかりか、自分の身も危うくなる。
――その割には、さっきから……
シロットが言葉を続けようとした、その途端、
「助けてくれ!」
という声が、オリヴィエたちの前方から響いてきた。
身を固くしているシロットの背中を、オリヴィエはそっと押す。そしてオリヴィエは、張り詰めた表情で振り向いてきたタージェに対しても、視線を送って頷き返した。そんなオリヴィエの行動を受け、シロットもタージェも、状況を察知したようだった。
この塔の周辺に、助けを呼べる人間などいない。そんなことができるのは、せいぜいタージェの弟くらいだ。だが、タージェの様子からして、今のは弟の声ではないようだった。今の声は、オリヴィエたちをおびき出すために、キュウの行った陽動なのだ。
――やってくれるじゃん……。
唇だけを動かして、シロットがそう言った。オリヴィエは背後の気配を探ったが、キュウの気配はない。
キュウは、何者かが自分の棲み処に足を踏み入れた、ということだけは分かったのだろう。しかし、その何者かが、どこにいるのかは分かっていないのだ。キュウは目が見えない。その代償として聴力が発達しているが、何者かが音を立てなければ、居場所を特定できない。
だからこそ、キュウは人間の声のようなものを発して、陽動を行ったのだ。三人の居場所をキュウが特定しているのならば、「陽動」などというまだるっこしいことはせず、すぐにでも三人に向かって、飛びかかってきたことだろう。
「愚かな、」
またしても、人の声がした。しわがれた男の声である。しかしその声は、建物のあらゆる方面から響いてくるような、そんな声だった。
「並みの獣とあらば、我を怖れ、我が棲み処に近づくまい。汝は人であろう?」
男の語る言葉は、明らかに三人に向けて発せられたものだった。自らの魔力を解き放って、キュウが三人に呼びかけているようだった。
だがオリヴィエも、タージェも、シロットも、誰もキュウの声に応じない。三人は、今まで上り詰めていた階段が途切れているのを確認すると、中央の足場を抜け、反対側にある通路を目指した。
「蓋し我の捕らえた獲物も、人臭かった……。人は弱い。人は群れる。我を生み出したる汝の先達らも、そうであった」
(まずい……)
シロットが立ち止まり、頭を押さえたのを、オリヴィエは見逃さなかった。
身体に彫ってある刺青の効果で、オリヴィエは声の影響を受けない。しかし、キュウの発する声は、オリヴィエたちの精神に、直接語りかけてくるものだった。刺青に守られているオリヴィエは、刺青に守られているために、そのことに気付けなかった。
シロットの身体を支えてやろうとして、オリヴィエが手を伸ばす。しかし、それよりも早く、オリヴィエとシロットの側に、ひときわ大きな瓦礫の塊が落ちてきた。その衝撃は、シロットをよろめかせるには十分だった。
シロットの靴が、床に落ちていたガラスの破片を踏み抜く。
「あっ――」
シロットが思わず、声を上げた。その声も、踏み抜かれたガラスの破片が立てた音も、小さなものだった。しかし、それらの音だけでも、建物を覆っていた沈黙のとばりをひき裂くには、十分な音だった。
「我が庭の平安を乱す者――赦さじ」
キュウが言った。その言葉には、残忍な笑い声のようなものが混じっていた。
「なに、何?!」
シロットが何かを言おうとしていたが、その声は、怪鳥の雄たけびに紛れ、消えてしまった。オリヴィエとシロットのいる足場が、突如として大きく揺れ始めたかと思えば、床のタイルには亀裂が走り始める。
オリヴィエの正面で、赤い火柱が上がった。それはランタンの炎で、タージェはランタンを取り落としたようだった。
「待って、タージェは?!」
瓦礫と一緒になって転がりながら、シロットが叫んだ。足元に走る亀裂を避けながら、オリヴィエもまたタージェの行方を探る。しかし、タージェの姿は見えない。
肘を折りたたむと、オリヴィエは当て推量で、高所に銃撃を放った。しかし手ごたえはなく、銃撃の虚空を穿つ音が、空しく響いただけだった。
(しまった……)
ここに来て、オリヴィエも全てを理解した。しかしそのときには、何もかも遅かった。足場に出来た亀裂が一気に割れると、そこからキュウの、黄色くて、尖った嘴が飛び出してくる。――キュウは高所にはいなかった。蛇のように壁面を伝い、オリヴィエたちの足元に潜伏していたのだ。
とっさに身をよじると、オリヴィエは地面を蹴って跳躍する。オリヴィエが足場を飛び出したのと、キュウの嘴がオリヴィエの影を薙いだのは、ほとんど同時だった。足場に頭を打ちつけたようになりながら、キュウは全身を蛇のようにうねらせ、通路へと姿を消してしまった。
「ハァ、ハァ……」
立ち上がると、オリヴィエは上を見た。中央の足場は完全に粉砕されており、タージェの姿も、シロットの姿も確認できない。
「シロット!」
オリヴィエは叫んだ。当然のことながら、シロットから返事はない。その代わり、オリヴィエの周囲では、何者かが自身の身体を引きずりながら移動する音が聞こえた。蛇のように腹ばいになりながら、キュウはオリヴィエの隙をうかがっているようだった。
銃を構えると、オリヴィエは前方にある通路へと進む。通路は暗かったが、ほかに進める道はなかった。
「貴様の武器は……銃であるな?」
キュウの言葉が、オリヴィエの脳内に響く。先ほどキュウは“汝”と呼んでいたが、今は幾分かマシな“貴様”と呼び改めていることに、オリヴィエはすぐに気付いた。
「昔者から生き延びているようね、あなたは」
神経を研ぎ澄ませ、オリヴィエはキュウの気配を探る。
「滅んだ文明の生き残りが、まだいるなんて。……名は何と言うの?」
「名はない。ただ“キュウ”と呼ばれるのみ。貴様の武器は、銃であるな?」
先ほどと同じ言葉を、キュウは繰り返した。オリヴィエが持っている武器に、キュウは関心があるようだった。
「銃は我らを殺すための武器。銃は最も神聖な武器。その使い手の一人は、西の果てに自らの国を建てたと聞く。貴様は、その国より出ずる者であるな? 名は何と申す? 言え」
「名乗るほどの者ではないわ」
オリヴィエはわざと、両腕を広げてみせる。腕を開いたときの衣擦れの音を聞きつけ、キュウが何かを仕掛けてくることを覚悟したが、キュウは何もしてこなかった。
仕方なく、オリヴィエは話を続ける。
「私は、その国を追われた者よ。今は東へ向かっている」
「ママイを探す者であるか?」
キュウの言葉に、オリヴィエは目を細めた。
「ママイを知っているのね?」
「我ら獣を作りし、王の名である」
「ママイが?」
オリヴィエは聞き返した。キュウの言う“ママイ”と、オリヴィエの探す“マース”が同一人物であるとすれば、ママイはキュウにとっての敵であり、決して味方にはなり得ない。
「それはウソよ」
「ウ、フ、フ、フ、フ、フ、フ……」
オリヴィエの言葉に対し、キュウは不気味に笑うだけだった。キュウの言葉を確かめたい気持ちはあったが、オリヴィエもまた、それ以上は追及しなかった。
「真を語るは、貴様を殺めるよりたやすいこと。人は弱い。人は群れる。なれど願わくはママイに見ゆるを得ん……違うか?」
オリヴィエの背後で、何かを引きずるような、大きな音が響いた。しかし、オリヴィエは振り向かない。それがキュウの陽動であることを、オリヴィエは知っていたからだ。
「――何が言いたいの?」
「力を貸してやっても良い、と言っている」
今までで一番、キュウの声には感情がこもっていた。それは、他人への優越感と、うぬぼれとだけが生み出すことのできる、人外の感情だった。
「我が精神を貴様の肉体に融合すれば、東の果てまで進むことなど、造作もない」
「それがあなたの目的ね?」
オリヴィエはため息をついた。強大な魔力を持つ一部の魔獣は、その魔力の強さに耐えられず、ゆくゆくは朽ち果ててしまう。これを“自壊”といった。
しかし、人間の精神を乗っ取り、その肉体を得ることができれば、魔獣は自壊を防ぐことができるだけでなく、長命をも確保することができる――。
これが、魔術仕込みの神たちが、人の肉体を欲する理由だった。キュウは、オリヴィエの精神を乗っ取り、その肉体を手に入れることを欲している。
「さぁ、身体をよこせ」
「そうやって……丸め込んだわけね?」
オリヴィエの言葉の後、奇妙な沈黙が、一瞬だけ周囲を支配した。
「どういう意味だ?」
「騙しおおせていると……本気で思っているの?」
手の内で銃を回すと、オリヴィエは続ける。
「目を失った代償として、あなたはその聴力を得ている。健常者と同じようにふるまえるほどの聴力を。自分で立てた足音の反響から、障害物を確かめるなんて芸当も、あなたにとっては『造作もない』こと。だけど、標的がもし広いところに出ていたら? 例えば、この“ガラスの森”のような広いところに? そのときあなたは、標的を建物に追いやらなければならない。あるときは狙撃して、あるときは正体を現して――」
オリヴィエの側で、石畳が吹き飛び、火花が散った。皮膚の色を瓦礫に擬態させていたキュウが、猛然と姿を現し、オリヴィエの正面で通路を塞いだのである。
すかさず肘を折り曲げると、オリヴィエは身体の正面に銃を構え、撃鉄を上げる。……が、引き金には指を掛けない。
「シロット!」
「お、オリヴィエちゃん……!」
とぐろをまくキュウの身体に、シロットが拘束されていた。
「オリヴィエちゃん、撃って、そのまま……」
「娘を生かすか、娘を殺すか……」
キュウはますます強く、シロットの身体を締め付ける。少しでもキュウが加減しなければ、シロットの肉体は弾け飛んでしまうだろう。
「選ぶが良い。さもなくば――」
しかし、それ以上の言葉を、キュウが語ることは許されなかった。右手を銃に添えると、オリヴィエはまるでボールでも投げるように、握りしめていた銃を大きく振りかぶった。その手から銃が離れることはない。しかし迷うことなく、オリヴィエは引金を引いた。銃声! ――次の瞬間、銃撃の描く弧は大きく湾曲し、シロットの身体を紙一重で避けると、羽毛に覆われた、キュウの胸部を打ち砕いた。
キュウの絶叫が、建物全体に響き渡る。シロットを解き放つと、キュウは通路の中を激しくのたうった。キュウの尾が鞭のようにしなり、オリヴィエに殺到する――。
「――はぁっ!」
だが、キュウの尾がオリヴィエを捉えることはない。鉄鎚を逆手に構えると、シロットは自らの身体を急旋回させ、その尾を叩いたからだ。空気の割れる音とともに、周辺が一瞬、明るくなった。シロットの一撃が重過ぎるせいで、加圧された空気が発光したのだ。
見えない巨人に叩かれたようになって、キュウの身体が壁をぶち抜いた。そのまま吹き抜けを落下しそうになったところで、キュウは体勢を立て直すと、オリヴィエたちなど全く無視して、最上階へと逃げ込んでしまった。
「どうなってんのよ、オリヴィエちゃんの銃」
鉄鎚を握りしめたまま、シロットが呆れ気味に言った。
「この魔法銃は、実弾が打てない。弾薬は、私の心のエネルギーよ」
「ずる過ぎでしょ、弾が曲がるなんて。……あ。でもあたし、ちゃんと借り返したからね?! 幾らオリヴィエちゃんがかわいくっても、このことだけは――」
「分かってる。よく分かってるつもりよ」
「それより……タージェは?!」
キュウが壁に開けた大穴から身を乗り出すと、シロットは階下をのぞいた。
「あいつを探してやんないと……」
「その必要はないわ」
「え?」
「行きましょう。すぐに分かるから」
目を白黒させているシロットを引っ張るようにして、オリヴィエは登れそうなところから、建物の最上階を目指した。