第6話:家族(Vamilie)
どれくらい時間が経ったことだろう。オリヴィエとシロットは、タージェに導かれるまま、タージェの弟が潜んでいるという“隠れ家”へと向かっていた。
既に日没を迎えており、地下道に漏れていたかすかな光も途絶えた今、周囲は完全に闇に呑まれていた。オリヴィエが背嚢に提げているランタンで、かろうじて周囲の様子が分かる程度である。
「いつまで……歩かせる気なのよ……」
半分はタージェをなじるつもりで、半分は愚痴っぽくなりながら、シロットが言った。持久力のないシロットにとって、長時間歩くのは苦痛以外の何ものでもない。おまけに、日が翳ってきたせいで、シロットは汗が冷えて寒かった。
「もう少し」
シロットの方を振り向くことさえせず、タージェは言った。タージェの歩みは速く、ほとんど走るようなスピードになることもあった。シロットはもちろん追いつくことができず、三人の中で唯一光源を持っているオリヴィエも、特にタージェに歩調を合わせたりしなかったため(これは、シロットにとっては意外だった)、先を行き過ぎたタージェが、二人が追い付くまで足踏みすることが何度もあった。
「タージェ、何の音?」
十何本目かの梯子を上りつめてすぐ、オリヴィエが尋ねた。
「え?」
上がりきった息を無理やり殺し、シロットも耳も澄ませてみる。すると、オリヴィエの尋ねたとおり、かすかな音が進行方向から響いてくるのが聞こえた。
「み、耳が良いのね、オリヴィエちゃん……」
シロットの聞く限りでは、それは、水が高いところから低いところへと、一気に流れ落ちる音だった。
「水車の音だ」
「あなたが作ったもの?」
「まさか! 元からあったんだ。だから、この近くを隠れ家にしてる」
「『元からあった』って……どういうこと?」
シロットが尋ねる間にも、三人は音のする方向へ歩き続けており、音は次第に大きくなっていた。
「誰かが、この辺りに住んでたってわけ?」
「分からない。住んでたにしても、もう死んでる」
そりゃそうだけど……、そう言おうとした矢先、シロットの顔に水の粒が当たった。
「うへっ?!」
シロットは思わず口走る。
「冷たっ?!」
「シロット、見て」
ランタンを掴むと、オリヴィエはそれを正面に掲げてみせた。光に照らされて、臼を真横にしたような円筒形の物体が、水を浴びて回転している様子が目に飛び込んでくる。
タージェの言う“水車”とは、このことだろう。水は水車を目がけて降り注いでおり、オリヴィエたちのいる足場の下を通り抜け、そのまま川のようになって流れていた。もともとは通路だった場所に、水が流れ込んでいるようだ。
「いや、すごいんだけどさ……」
水車の羽根に当たって飛び散ってくる水しぶきにしかめっ面をしながら、シロットが言う。
「これ、意味あんの?」
「すぐに分かるさ」
水車のすぐ側を横切ると、タージェは段差を降り、ほどなくして立ち止まった。今までどおり、後ろを歩いている自分たちが追い付くのを待っているのだ……とシロットは考えたが、タージェは単に、行く手にそびえる鉄扉の前で立ち止まっていただけだった。
しかしシロットは、オリヴィエの持つランタンの光が反射してくるまで、そこに鉄扉があることには気付かなかった。そのくらい、鉄扉は闇に溶け込んでいた。光源に近いシロットですらそんな具合なのに、タージェは光源さえ持たず、ずんずんと前へ進み、道すがら一回もつまずいたりしていなかった。オリヴィエの耳と同じぐらい、タージェの目も感度が高いようだ。
「変ね、この扉」
ランタンを再び背嚢に戻すと、オリヴィエは鉄扉の表面に触れた。鉄扉は両開きの構造をしており、表面は光沢を帯びていたが、把手のようなものは見当たらない。
「この扉、どうやって……」
「見てろ」
鉄扉の脇に進み出ると、壁に空いた穴に、タージェは腕を突っ込んだ。
「うへっ?!」
シロットは思わず口走った。
「眩しっ?!」
タージェが何かをした途端、周囲が明るくなり、目の前の鉄扉が鐘の音を立てて、ひとりでに開いた。
「タージェ、これは……?」
ランタンの灯りを消しながら、オリヴィエが尋ねる。
「すごいだろ? 古い建物に、電気が通ったんだ。あのタービンのおかげだ」
得意げにそう言うと、タージェは鉄扉の中に入り込んだ。鉄扉の奥は箱のようになっており、左右には、小さな無数の電灯が埋め込まれている。
「早く入れよ。このまま上に行くんだ」
「上?!」
シロットは、目が回る思いだった。
「何、登らなきゃいけないわけ?!」
「そんなの必要ない。この箱が、上まで連れてってくれる」
二人が中に入ってから、タージェは真横についていた電灯を二つ押した。程なくして、鉄扉が勝手に閉まる。半信半疑だったシロットも、箱の振動、身体に感じる重力の変化から、自分たちを乗せた箱が上昇していることを理解した。
「信じられない」
「そうだろ?」
なぜか得意そうに、タージェが言った。
「オレだって、初めはそうだった。だけど、電気を通すことで、この建物は動くんだ。『古代文明は電気の文明だった』って言伝えは、本当だったんだ」
タージェが話す間にも、三人を乗せた箱は、上昇を続けていた。暗くてよく分からないが、三人はもうとっくに地下を脱出していることだろう。いつしかシロットは、オリヴィエの腕を知らずしらずのうちに掴んでいた。
「ずいぶんと高いところまで行くのね?」
ややあってから、オリヴィエが尋ねた。
「地下に潜っていた方が、キュウに見つからなくて済むんじゃない?」
「キュウは地上の獲物を探しに行く。だから、高いところに陣取った方が、却って見つからない」
タージェの視線は、鉄扉の真上に注がれていた。橙色の小さな電灯が、左から右へと点滅している。やがてシロットは、自分たちのいる高さと、電灯の点滅が右へ進むことが対応していることに気付いた。
最も右端の電灯に、光が点いた。箱の振動が小さくなり、身体の芯を包んでいたような気づまりな重さから、オリヴィエとシロットは解放される。
目的地に着いた――。オリヴィエとシロットがそう得心した瞬間、扉が開き、中に風が吹き込んでくる。
「うう、寒っ」
「ちょっと……」
このときにはもう、オリヴィエもシロットも、お互いの身体が密着していることを自覚していた。シロットは更に身体を密着させようとしたが、オリヴィエはシロットの肩を鷲掴みにして、強引に引き離した。
「タージェ、あなたの弟は?」
風のせいで口に入りかけた髪をどけながら、オリヴィエが尋ねる。しかし、タージェは返事をしない。
「タージェ?」
「ウソだ」
そう言った途端、タージェはオリヴィエに返事さえせず、突然駆け出した。
「あっ、ちょっと?!」
追いかけようとしたシロットだが、周囲が暗いせいで、走るのは気が引けた。この暗闇の中をよく走れるものだ、と、シロットは感心してしまったくらいだった。箱の中が眩しかったこともあり、目が慣れるのには時間がかかりそうだった。
「待ってってば……もう、何なのよ、アイツ?!」
「追いかけましょう」
目の辺りを服の袖で隠すと、オリヴィエはタージェの後を追いかける。口の中で悪態をつきながら、シロットもしぶしぶ、オリヴィエに従った。
◇◇◇
「そんな……そんな……」
道は一本道だったから、オリヴィエとシロットは、すぐにタージェに追いつくことができた。タージェはといえば、部屋の右端で、うわ言を繰り返していた。
そして、部屋の右側の壁は、無残にも崩されていた。いや、もっと正確に言えば、“外側から引きちぎられていた”と言った方が良いのかもしれない。
「キュウがやったのね……」
部屋の光景を見てから、オリヴィエが言った。
「タージェ、あなたの弟は?」
「分からない。さらわれたんだ、きっと」
そう答えるタージェの声は、小刻みに震えていた。
タージェの手から滑り落ちた何かが、外からの風にあおられて、シロットの視界を横切る。それは衣服の切れ端であり、暗い中でも、何かがこびり付いているのが見えた。おそらくは血で、タージェの弟のものだろう。
「キュウには見つからない。そう思ったのに……」
「ねぇ、しっかりしなさいよ」
へたり込んでいるタージェの正面にしゃがむと、シロットはタージェの両肩を掴んで揺さぶった。タージェは泣いていた。
「泣いてるだけじゃ、何にもならないでしょ!」
「『さらわれた』って言ったわよね、タージェ?」
引きちぎられた壁から外を睨みながら、オリヴィエが尋ねる。
「キュウは、すぐには殺さない。狩った獲物は、巣に持ち帰って、いたぶってから、食べるんだ」
「キュウの巣の場所、あなたなら、分かるんじゃない?」
「橋のたもとに……ビルがある。この森で、一番高いビルだ」
「あれか――」
立ち上がると、オリヴィエが見つめている方向を、シロットも見つめた。闇夜の中に、ひとつの巨大な建物がそびえているのが分かる。その建物は、周囲の建物よりもはるかに大きく、屹立しているために、この世界の質量を、完全に無視しているかのような存在感を放っていた。
建物は、二本の塔から成り立っている。うち一本は、途中で折れ、欠けていた。――直観的に、シロットは、折れていない方のもう一本の塔こそが、キュウの隠れ家であると分かった。そして、オリヴィエもそのように考えているようだった。
「助けるの、こいつの弟を?」
「シロット、私にも、弟がいたのよ」
タージェの命を救ったときと全く同じ台詞を、オリヴィエは繰り返した。シロットはため息をついた。
「出来の悪い弟だけれど、おねーちゃんにとっては、大事な家族……そうだっけ?」
シロットに答える代わりに、オリヴィエは一度だけ頷いた。シロットには、それで十分だった。