第47話:異常な愛情(Lieve Etrange)(1)
光に包まれたとき、死を浴びているとシロットは感じた。
死にかけたことなど、数え出したら際限がない。目の前に差し出された、鏡のようにみがき抜かれた刀身に、ひるむ自分の姿が映り込むのを目撃したことだってある。
それにもかかわらず、今浴びた光は、魂の根幹を震撼させるようなものだった。
自分は死に面している。
死が降りそそいでいる!
いや、そうではないのだ。さもなければ、鼻孔をくすぐるこの甘い匂いや、口の中に拡がるこの金属の味を、いったいどう説明すれば良いというのだろう?
それからシロットは、この匂いが、この味が、“笑い声”に由来するものなのだと理解した。
自分を屠ろうとしたサイラスは、もはやこの世にいない。
青磁色の、極太の光線に撫でられ、サイラスは世の外へと蒸散していった。
そのときの影像は一枚絵のようになって、シロットの記憶に焼き付いている。
それはまるで、存在しないはずの記憶のようだった。
赤子の笑い声が耳に響く。
気化光線を照射した装置の、笑い声のような駆動音だった。
光線が通過したところは、生地から型が抜かれたようになっている。
神は過たず、分け隔てをしない。
シロットの知る教条である。
神がそうであるなら、光もまたそうなのだろう。競技場のアスファルトを、外に広がる山を、光は平等にくり抜いて、世界から除去したのだ。
ただ、水だけは違っていた。
光線は、レウキリアの城下に押し寄せていたおびただしい水を突き、しかし世界から消し去りはしなかった。
光が通り抜けた跡を伝って、水は競技場まで押し寄せ、オリヴィエの足元を、シロットの膝を濡らしている。サイラスの巻き上げた竜の炎は沈下し、競技場全体に白煙が立ち込めていく。
白煙の帳が、折からの風によって巻き上げられる。
風は羽ばたきによるものだった。
“笑い声”の青磁色の機体の上に、魔獣が留まっている。
胸部から生えた肢を駆使し、魔獣は“笑い声”を抱えている。
頭部から伸びた触角は、立ち昇る白煙の中で優雅に動き、長い口吻は、地面の砂を擦っている。
胴体よりもはるかに大きな紫の翅は、“笑い声”の機体の色と相俟って、宝石のように輝いて見える。
“笑い声”の操縦席には、ひとりの少女が、魔獣を背にして立っている。
青色の長い髪に、青色の瞳、白い肌に、すらりとした手足。
レウキリア侯爵・シーラの姿だった。
「私はパプリオス――と、人に呼ばれています」
シーラの唇が動く。
ただ、声は脳裏に直接響いた。
それが魔獣の――パプリオスの言葉であると、シロットにも分かる。
「今はシーラと……この娘と融合し、新たな生を得ています。“笑い声”は、それを操縦する者の生命を代償にしますが、泉のように潺々と湧く生命を、今の私は得ている。しなやかな器と、それに勝るとも劣らない権能。この二つを同時に手に入れるため、私は千年の時を待った」
「シーラを離しなさい」
オリヴィエは銃を構えている。
その声は、いつになく低い。
「シーラの自由を奪う権利は、あなたにない」
「自由を感じられるだけの精神は、この娘の中ではとうに死んでしまった」
紫色の翅を拡げると、パプリオスは競技場全体を覆う。
薄暗がりの中で、パプリオスの単眼が光る。
「ゆえに、反対に考えることもできる。融合によって、私はこの娘を生かしているのだという考えが、それだ。旅の者よ、いや、バンドリカの王家に連なる者よ、それが分からないほど、愚かな貴方ではないはず」
オリヴィエの背中に、シロットは視線を注ぐ。
ブルガーの街で、シロットが見抜いたのと同じこと――。
パプリオスは、それを見抜いている。
問いはもうひとりのオリヴィエに――青年のオリヴィエに向けられている。
ただ、もしパプリオスの言葉が真実だとするのなら、今目の前にいるオリヴィエは、すでに死んでしまっていることにはならないか?
――『王を殺した犯人を追っている』らしいけれど、少し違うわ。
――その子も、王の死に関わっている。
過去に披瀝した自分の推理を、シロットは思い出す。
王は死んだ。
目の前のオリヴィエも死んでいるとする。
ではいったい、誰が生きているというのだろう?
「私が旅をしているのは、人を生かすためよ」
オリヴィエは答える。
「東の果て、死せる神の塔へ行く。マースに会い、願いを叶えてもらう。それが、私の旅の目的。あなたはどう? マースに会ったとして、シーラの自由を願えるの?」
「私は愛に生きると誓った!」
パプリオスの長い口吻が、小刻みに震える。
「幾歳月を経ようとも、情熱を止めることはできない。身体は熱く、心は燃えている。願うのは、この娘の自由だけではない。人間に対する私の欲望は、世のすべての森よりもなお深い」
視界のゆがみを感じ、シロットは目を細める。
眩暈……ではない。実際に空間がゆがんでいるのだ。
パプリオスから放たれる魔力によって、地面に転がっていたカリハの傭兵たちの亡骸が、ひとり、またひとりと起き上がる。
動屍人となった傭兵たちは、パプリオスを守護するかのようにして、その前に立った。
「私は、私を愛してくれた者たちを生かす。これが私の願いであり、母の跡を継ごうとする目的」
魔獣と人間が相容れない理由。
それがシロットにも分かりかけてくる。
魔獣は人語を解せるかもしれない。
知性もあるだろう。
ただ、その在り方が人間と違うのだ。
始祖男性と始祖女性とは、また異なる様式によって智慧の樹の禁断に触れた者たち。
それが魔獣なのだ。
そうではないか?
だからこそ、人を愛すと言いながら、その魔力で死体を手繰ろうとする。
人倫を越えた異常な愛情のゆえに、パプリオスの単眼は光を帯びている。
いや、もしかしたら、愛情の定義はおろか、心さえも、人間の在り方とは異なるのかもしれない。
だからこそ、精神を喪い、抜け殻となった人間に共鳴し、融合を果たすことによって、求愛を実現しようとしている――。
そこまで考えた矢先、シロットは後ろから、腰の辺りを叩かれる。
後ろにいる者といえば、キスメアしかいない。
何やってんのよ……。ため息交じりに振り向こうとして、身動きが取れないことにシロットは気付いた。
丹田の辺りに、何かが突き出している。
シロットはそれを撫でる。
槍の穂先で、それが腹部を貫いていた。
槍がしずかに引き抜かれる。
両脚にしびれが走り、シロットはその場で膝立ちになった。
痛みはじわじわと拡がっていく。ただ、驚きが大きすぎ、痛みの大きさは気にならなかった。
キッス……? 後輩の名を呼ぼうとして、その代わりに、食道を逆流した血の泡がこぼれる。
身体を支えられず、シロットはうつ伏せに倒れた。
泥水は身体を濡らし、鼻へ、口へと、血と水が押し寄せる。
槍を引き抜いたままの姿勢で、キスメアはシロットを見下ろしている。
キスメアの、藍色の瞳をのぞき込み、シロットも勘付いた。
「タイケメリア……!」
ラルトンの三魔女・望タイケメリア枢機官。
この瞬間にキスメアへ憑依したのか、または、初めからキスメアのフリをしていたのか。
タイケメリアはいずれにしても、古魔術を利用して、キスメアを簒奪したのだ。
「あんた……キッスを……!」
「この娘はずいぶんと役に立った」
せせら笑うキスメアの声は、キスメアのものではない。
「――シロット?!」
パプリオスと、シーラにかかりきりだったオリヴィエも、ここでようやく、背後で生じた異変に気付いたようだった。
「パプリオスよ!」
シロットの脇を通り過ぎると、パプリオスに向かって、キスメアは――いや、タイケメリアは――両手を拡げてみせる。
「ラルトンは、あなたへの支援を表明しましょう。この者は、死せる神の塔に至る鍵を握りし者。あなたの権能と、われらの魔術の知恵が合わされば、あなたは愛を地上に実現し、われらは義をもってあなたの愛に応える。われらの神は愛の神。ゆえにあなたは、世の神となるのです」
そう言いながら、キスメアは地面にひざまずく。
「さあ、裏切り者は仕留めました。残りはバンドリカの王族だけ。今ならば二対一――」
「――二対二よ!」
そのとき、どこかから声がした。




