第41話:正体露見(Identicas Reveale)
「それで?」
肩をすくめながら、シロットはみずからにそう問いかける。
「何がどうなってる、って?」
シロットたちは今、宮城の中空に浮かぶ、畑の真ん中に立っている。遠い昔は庭園だったであろう場所を、レウキリアの人びとは耕地に変えたようだった。
洪水も、この空中庭園には無縁である。靴のかかとをこすり付ければ、乾ききった耕地から、土ぼこりがくすぶった。
シーラ姫の奪還が、シロットたちの目的である。強襲するリスクをできるだけ低減させる目的から、洪水の混乱に乗じる作戦だった。
しかし、いざ乗り込んでみれば、宮城はもぬけの殻だった。洪水を目の当たりにし、カリハが退却を決めるだろうことは、シロットも予見していた。しかし、撤退にしては乱雑に過ぎていた。庭園へたどり着くまでの間に、横転した輜重車や、中途半端に畳まれた天幕などを、シロットは何度も目撃した。本陣を引き払うことよりも重要な関心事が、カリハの首脳部にあるかのようだった。
「オリヴィエ様――オリヴィエ様」
キスメアの言葉を聞き過ごしていたシロットだったが、今の自分はオリヴィエなのだと思い出し、取って付けたようにして振り向く。
キスメアは、シロットの傍まで戻ると、抱きかかえていた人物を地面に降ろした。赤色の巻き毛をし、頬にそばかすのある少女が、目を閉じ、静かに身を横たえている。
「そこの陰にいました」
キスメアが指さす先には、中くらいの位置でへし折れた、柱のオブジェが見える。
「知ってる子?」
シロットの問いに、キスメアはかぶりを振る。少女は穏やかな表情をしていて、眠っているのか死んでいるのか、見当がつかなかった。
しゃがむと、シロットは少女の鼻先に手をかざしてみるが、指先には、鼻息も呼気も当たらなかった。死者も生者もシロットは見慣れているつもりだったが、この少女は、そのどちらにも当てはまらないようだった。
「何? 死んでる?」
――精神は。
自問したシロットの脳裡に、オリヴィエの声が響く。
――肉体は生きているけれど、間もなくエーテルの塵に変わる。自壊が起きるの。魔獣が、みずからの魔力に耐えられなくなるのと同じように。
「魔獣? この子が?」
――多分だけれど、魔獣は一時的に、この子を宿主として選んだにすぎない。ここで別の、もっとふさわしい宿主を見つけて、それに乗り移った。
もっとふさわしい宿主。――オリヴィエの言葉に、シロットは生唾を呑み込む。道中で出会った、白銀の兜の傭兵などは、あるいは魔獣の宿主としてふさわしいだろう。
レウキリアには魔獣がいる。ガラスの森で邂逅した“キュウ”の存在が、シロットの脳裡をよぎった。
「ちょ、ちょっと……!」
その矢先、シロットはキスメアに肩を掴まれ、思いきり揺さぶられる。
「何よ」
「独り言! 独り言!」
「えぇ……?」
生返事をしかけたシロットも、状況を理解する。オリヴィエの声が、あまりにも自然に脳裏に入ってきたせいで、シロットも自然体で、その言葉に反応してしまっていた。
オリヴィエの声は、シロットにしか聞こえないのである。キスメアにしてみれば、シロットがぶつぶつと、独り言を言っているようにしか見えなかったのだろう。
「いますぐ量を減らさないと、さもないと――」
「薬物キメ之介だと思ってんでしょ」
キスメアの腕を、シロットは払いのける。
「失礼な。あたしゃ素面ですよ」
「素面であの独り言」
キスメアが真顔になった。
「余計ヤバいじゃないですか」
「うるさいな」
――シロット、そろそろ出るわね。
「いや、ちょっと待ってください」
いま、この間合いで話しかけてくるのはさすがに違うだろうと、シロットは言ってやりたくなる。
ただ、“出る”とは、まさに“出る”ということなのだろう。シロットの意識の全ては、その言葉に局在化された。全身が光に包まれていくのが、シロットにも分かる。
「まだ自瀆し足りないのに……!」
それが、オリヴィエの身体に憑依していたシロットの、最期の言葉だった。
◇◇◇
目を開けてすぐ、自分が地面に寝そべっていることに、シロットは気付く。
隣には、いつものようにオリヴィエがいて、顔にかかる銀色の髪を、手でかき分けていた。そういった乱雑な仕草は男の子のようだと、シロットは思う。
「よっこいしょ」
シロットは立ち上がる。重心も、視野も、視力も聴力も、いつもの自分に戻っている。オリヴィエの身体に慣れてしまうと、自分の身体が野暮ったく、鈍重に思えてしまうのではないかと危惧していたが、いざ戻るとなると、案外すんなりとしたものだった。
「まったく――」
ひどいじゃないですか、いきなり戻るだなんて。そう言おうとした矢先、二人の隣で固まっていたキスメアが、突然バク宙に失敗したかのような不審な挙動とともに、みずからの頭をしたたかに地面に打ち付けた。
「何やってんの?」
「しっ、しっ、しっ、しっ、しっ」
キスメアは地面にへたり込み、矢継ぎ早に呼吸を繰り返しながら、圧力鍋のような音を立てていた。それからやっと
「しっ、しっ、し、シロット先輩」
と、意味の通じる単語を繰り出す。
「シロット先輩……ど、ど、どっどど、どどうど、どどうど、どうやって……!」
そう言う合間にも、キスメアの脚の付け根からは、水たまりが広がっていく。
「ワンちゃんじゃん」
ブルガーの廃墟を抜け出してすぐの頃、失われたはずのバイクを見出し、嬉しさが昂じて失禁するオリヴィエの様子を、シロットは回想する。
「ワンちゃんしかいないじゃん、あたしの周囲」
「霊廟――」
オリヴィエの声を聞き、シロットは振り向く。少女の手に銃の側面を当て、みずからは反対の側面に手を当て、オリヴィエは目をつぶっていた。
「レウキリアの霊廟――皆はそこに向かってる」
オリヴィエは、銃を媒介にして、少女の記憶を引き出しているようだった。そんなこともできるのか、と、シロットは内心舌を巻いていたが、最近ではもう、オリヴィエの振る舞いを見るだけで、何をやろうとしているのかが分かるようになっていた。
「そこに“笑い声”がある」
「なるほど? 最高じゃん」
「行きましょう。ほら」
茫然自失といった体のキスメアに、オリヴィエは手を差し出す。
「あ……」
「私はオリヴィエ――と、人から呼ばれている。言っておくけれど、これまでの振る舞いは、全部シロットの悪ふざけだからね? この変態とは一緒にしないで」
オリヴィエとシロットを、キスメアは交互に見やる。
「分かった? 分かってない? どっち?」
「わ、分かりました」
そう言うと、オリヴィエの手を取って、キスメアは立ち上がる。
「ちょっと、キッス」
そのままオリヴィエに着いていこうとするキスメアに、シロットは声を掛ける。
「ねえアンタ、背中の刺青、どうするつもり?」
「それは――」
「さっき言ってたわよね?」
キスメアの手を掴み、強く握りしめると、シロットは畳みかける。
「『シロット先輩なら、刺青を入れることに賛成してくれます』って。ならば言わせてもらうけど、全く賛成しないわ。さっさと取り除きなさい」
シロットの言葉に、キスメアはうつむく。
「あたしはもう紅宮を去った身だから、アンタに権限はないけど。――心配なのよ。アンタも、アンタの後輩たちも。言いたいこと、分かるでしょう? 今回ばかりは、あたしの顔を立ててくれない? どう?」
ためらいがちに顔を上げると、キスメアは小さく頷いてみせる。その仕草は、キスメアが僧兵団に入隊したばかりの頃を髣髴とさせるものだった。
懐かしい気持ちが一気に押し寄せ、感傷の波が、シロットの心に拡がっていく。そのことに勘付かれないよう、照れ隠しの意味もこめて、シロットはキスメアの身体を抱きしめる。
「なんですか、先輩……!」
「ありがとう。アンタを愛してる」
それから二人は、オリヴィエの後を追った。




