第38話:内親王ジェゼカ(Princessa Geseca)
水音に気付いたのは、鼎頭狗よりもシーラの方が早かった。
シーラを押し倒し、盛んに腰を振っていた鼎頭狗は、大量の水が泡を立てながら流れ込んでくる音に気付いた途端、ぎょっとしたようになって、そちらを振り向いた。自分たち向かって水が押し寄せているのを認めると、シーラを襲っていたことなど完全に忘れ、鼎頭狗は半狂乱になりながら、牢の出入口へと殺到した。頭のひとつを鉄格子に強打しながらも、鼎頭狗は鉄格子の合間をすり抜け、逃げ出していく。
地面に横たわったままのシーラの下に、最初の波がやってくる。水は、はじめこそシーラの身体を濡らす程度だったが、ほどなくして床全体が水びたしになった。何が起きているのかが分からなかったが、何かが起きていたとして、その原因を穿鑿するだけの元気も、今のシーラにはなかった。水嵩が増し、身体が浮くようになっても、シーラはその水面を、枯葉か何かのようにたゆたうだけだった。
鉄格子から抜け出し、通路へと逃げていったはずの鼎頭狗が、口の合間から泡を飛ばし、大きな吠え声をあげながら、シーラの近くまで戻ってくる。鼎頭狗には、水を怖がる性質がある。――カリハの下級傭兵たちに凌辱されていたとき、そんな話を耳にしたことを、シーラは思い出す。
そのとき、水音に紛れつつも、扉の開け放たれる音が遠くから聞こえてきた。水に足を取られることも厭わず、誰かがこちらへ近づいてくる。
白銀の兜を被ったひとりの傭兵が、シーラの瞳に映る。その傭兵は線が細いが、身に着けている外套の純白さから、カリハの中でも高位の傭兵であると分かる。握られた槍斧の光沢により、水面はまだらに輝いていた。
兜の傭兵は、自分を殺しに来たのだと、シーラは考える。これまでに受けてきた拷問による衰弱と、疲労とで、考えをひとつにまとめるだけでも、今のシーラには難しい作業だった。
一匹の鼎頭狗が、白銀の兜の傭兵に飛び掛かる。水に怯えるあまり、見境が無くなっていたのだろう。槍斧を持つ腕を、兜の傭兵は振り上げる。動作は軽かったが、その一閃は重いものだった。槍斧の柄に叩きつけられ、鼎頭狗は横ざまに吹き飛び、壁に激突する。水の中に落ち、鼎頭狗は動かなくなった。
鼎頭狗が死ぬまでの一部始終を、シーラは漫然と眺めていた。逃げる行動も、立ち向かう行動もとらず、シーラは四肢を投げ出したままだった。開け放たれた鉄格子から、兜の傭兵がシーラの下まで近づいてくる。兜を目深にかぶっているせいで、相手の表情は分からない。
シーラは目を閉じ、“その時”を待つ。相手が肉薄してくるのが、体感で分かる。
全身に衝撃が走った。すぐに痛みと、死がやってくるだろう――そう覚悟したシーラだったが、痛みも、死も、シーラには訪れなかった。
自分が目を開けるまで、相手は手を下さないつもりなのだろうか? それならば――と、シーラは目を開ける。兜の下からこぼれた、色素の薄い金髪が、シーラの頬に触れる。自分は抱きしめられているのだと気付いた瞬間、シーラの全身に、相手からのぬくもりが伝わってきた。
「おいたわしい……!」
女性の声が、シーラの耳に届く。懐かしい、聞き覚えのある声を耳にして、シーラははっとなる。
「ジェゼカ……?」
シーラは、相手の名を呼ぶ。
「ジェゼカなの……?」
「はい。シーラ様」
槍斧を脇に置き、兜を脱ぐと、傭兵は――ジェゼカは頬を涙に濡らしながら、シーラに接吻する。
「どうしてここに……?」
様々な感情が、それこそ水のうねりのようになって、シーラに押し寄せる。
レウキリア侯としての爵位を継承する前、シーラはジルファネラス帝国に留学していた。もちろん、“留学”とは名ばかりで、実質的には人質であったが、その際に知り合ったのが、ジェゼカ内親王だった。
「傭兵になったの? あれほど嫌っていたのに――」
「あなた様をお救いするためです」
上着の内側から小瓶を取り出すと、ジェゼカはそれをシーラの唇にあてがう。
「霊薬です。苦いですが、効き目は抜群です」
ジェゼカの言うとおりに、シーラは小瓶の中身を飲む。仮にセメントを飲まされたら、こんな感覚を味わうのだろうというような舌ざわりだった。口腔内の水分は全て持っていかれ、喉に、食道に、へばりつくような後味の悪さがある。
「立ち上がれますか?」
ジェゼカに問われ、シーラは足腰を奮い立たせる。先ほどまで、何の気力も湧かないほど衰弱していたのに、今では何とか立ち上がれるほどまでに、足腰に力が行き渡っている。脳に垂れこめていた霧のようなものもかき消え、思考が明晰さを取り戻していくのが、今のシーラには手に取るように分かった。
「では、参りましょう」
「サイラスは? この水は何?」
「水の原因は、本陣でも把握しかねています。ただ、サイラスは本陣を退却させる決定をしました」
「ダメ、逃げられない……!」
ジェゼカの着る帷子の裾を、シーラは掴んで引き留める。
「城の者たちが、森に逃げている。置いてはいけない」
「逃げはいたしません」
そう言いながら、ジェゼカは不敵にほほ笑んでみせる。その意図が分からず、シーラは一瞬、言葉に詰まった。
「では、どうするの?」
「“笑い声”」
ジェゼカの言葉に、シーラは息を呑む。
「それを起動しましょう。ご存じなのでしょう? どこにあるのか」
「危険すぎるわ」
「誰にとってですか、シーラ様? それに、何に対して?」
そう尋ねられ、自分が答えを持ち合わせていないことに、シーラは気付く。“笑い声”をみずから起動し、それを掌中に収める。ひとたびそれが実現し、かつ、“笑い声”の性能が伝承どおりであるのならば、サイラスといえども、うかつに手は出せなくなる。
では、仮に伝承が虚飾であり、“笑い声”が取るに足りない骨とう品にすぎなかったとしたら? そのとき、シーラは殺されるだろう。ただ、今すでに死にかけているのだから、しょせんは時間の問題にすぎない。
何より“笑い声”が役立たずだとすれば、そもそもカリハ傭兵団の作戦は、その前提を喪うのである。そうすると、これ以上中間世界に軍団を駐留させることに意味はないのだから、サイラスは大人しく撤退するだろう。サイラスは周到な傭兵である。機構や六芒星に口実を与えないためにも、レウキリアの領民に手を出すことも控えるはずだ。
ジェゼカの言うとおりだった。誰にとっても、そして、何に対しても、自分が恐れることには理由がないのだと、シーラは気付く。
それでも、シーラには気になることがあった。
「どうぞ、掴まって」
自分の身体に腕を回させると、ジェゼカはシーラの身体を支える。
「私を、“笑い声”のところまで案内してください」
「ひとつ教えて」
シーラは言う。
「“笑い声”を発掘して、文献を漁っていたとき、私は気付いたことがある。あの装置が真価を発揮するためには、操縦者には途方もない資質が要求される。あたかも、“笑い声”のことを隅々まで熟知し、自分の身体を操るように、自由に操れなければならないかのように」
ジェゼカは答えない。シーラは言葉を続ける。
「つまり、操縦者は“笑い声”と融合しなければならない。ところが、“笑い声”は装置であって、デウスではない――」
「私は、あなた様に命を救っていただきました」
シーラの話が核心に至るより前に、ジェゼカが口を開く。
「その命を活かすべきときが今だと、私は心得ています」
「命を無駄にしちゃダメよ」
言葉を詰まらせかけていたシーラが、やっとの思いで言えたのは、それだけだった。
「命を無駄にしちゃダメ」
「何をおっしゃいます。あなただって、この地下牢で命を投げ出そうとされていたのに」
シーラとは対照的に、ジェゼカはせせら笑って見せる。
「それに……私には秘策がございます。命をみすみす投げ捨てるようなことはいたしません。すぐにお分かりいただけると思います。私は死にません」




