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デウス・エクス・マギカ  作者: 囘囘靑
第3章:猫と毒薬(Las Chats e La Toxica)
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第38話:内親王ジェゼカ(Princessa Geseca)

 水音に気付いたのは、鼎頭狗(ツァーベアス)よりもシーラの方が早かった。


 シーラを押し倒し、盛んに腰を振っていた鼎頭狗(ツァーベアス)は、大量の水が泡を立てながら流れ込んでくる音に気付いた途端、ぎょっとしたようになって、そちらを振り向いた。自分たち向かって水が押し寄せているのを認めると、シーラを襲っていたことなど完全に忘れ、鼎頭狗(ツァーベアス)は半狂乱になりながら、牢の出入口へと殺到した。頭のひとつを鉄格子に強打しながらも、鼎頭狗(ツァーベアス)は鉄格子の合間をすり抜け、逃げ出していく。


 地面に横たわったままのシーラの下に、最初の波がやってくる。水は、はじめこそシーラの身体を濡らす程度だったが、ほどなくして床全体が水びたしになった。何が起きているのかが分からなかったが、何かが起きていたとして、その原因を穿(せん)(さく)するだけの元気も、今のシーラにはなかった。水嵩が増し、身体が浮くようになっても、シーラはその水面を、枯葉か何かのようにたゆたうだけだった。


 鉄格子から抜け出し、通路へと逃げていったはずの鼎頭狗(ツァーベアス)が、口の合間から泡を飛ばし、大きな吠え声をあげながら、シーラの近くまで戻ってくる。鼎頭狗(ツァーベアス)には、水を怖がる性質がある。――カリハの下級傭兵たちに凌辱(レイプ)されていたとき、そんな話を耳にしたことを、シーラは思い出す。


 そのとき、水音に紛れつつも、扉の開け放たれる音が遠くから聞こえてきた。水に足を取られることも(いと)わず、誰かがこちらへ近づいてくる。


 白銀の兜を被ったひとりの傭兵が、シーラの瞳に映る。その傭兵は線が細いが、身に着けている外套の純白さから、カリハの中でも高位の傭兵であると分かる。握られた槍斧(ハルベルト)の光沢により、水面はまだらに輝いていた。


 兜の傭兵は、自分を殺しに来たのだと、シーラは考える。これまでに受けてきた拷問による衰弱と、疲労とで、考えをひとつにまとめるだけでも、今のシーラには難しい作業だった。


 一匹の鼎頭狗(ツァーベアス)が、白銀の兜の傭兵に飛び掛かる。水に怯えるあまり、見境が無くなっていたのだろう。槍斧(ハルベルト)を持つ腕を、兜の傭兵は振り上げる。動作は軽かったが、その一閃は重いものだった。槍斧(ハルベルト)の柄に叩きつけられ、鼎頭狗(ツァーベアス)は横ざまに吹き飛び、壁に激突する。水の中に落ち、鼎頭狗(ツァーベアス)は動かなくなった。


 鼎頭狗(ツァーベアス)が死ぬまでの一部始終を、シーラは漫然と眺めていた。逃げる行動も、立ち向かう行動もとらず、シーラは四肢を投げ出したままだった。開け放たれた鉄格子から、兜の傭兵がシーラの下まで近づいてくる。兜を目深にかぶっているせいで、相手の表情は分からない。


 シーラは目を閉じ、“その時”を待つ。相手が肉薄してくるのが、体感で分かる。


 全身に衝撃が走った。すぐに痛みと、死がやってくるだろう――そう覚悟したシーラだったが、痛みも、死も、シーラには訪れなかった。


 自分が目を開けるまで、相手は手を下さないつもりなのだろうか? それならば――と、シーラは目を開ける。兜の下からこぼれた、色素の薄い金髪が、シーラの頬に触れる。自分は抱きしめられているのだと気付いた瞬間、シーラの全身に、相手からのぬくもりが伝わってきた。


「おいたわしい……!」


 女性の声が、シーラの耳に届く。懐かしい、聞き覚えのある声を耳にして、シーラははっとなる。


「ジェゼカ……?」


 シーラは、相手の名を呼ぶ。


「ジェゼカなの……?」

「はい。シーラ様」


 槍斧(ハルベルト)を脇に置き、兜を脱ぐと、傭兵は――ジェゼカは頬を涙に濡らしながら、シーラに接吻する。


「どうしてここに……?」


 様々な感情が、それこそ水のうねりのようになって、シーラに押し寄せる。


 レウキリア侯としての爵位を継承する前、シーラはジルファネラス帝国に留学していた。もちろん、“留学”とは名ばかりで、実質的には人質であったが、その際に知り合ったのが、ジェゼカ内親王だった。


傭兵(マルセナ)になったの? あれほど嫌っていたのに――」

「あなた様をお救いするためです」


 上着の内側から小瓶を取り出すと、ジェゼカはそれをシーラの唇にあてがう。


霊薬(エリクサー)です。苦いですが、効き目は抜群です」


 ジェゼカの言うとおりに、シーラは小瓶の中身を飲む。仮にセメントを飲まされたら、こんな感覚を味わうのだろうというような舌ざわりだった。口腔内の水分は全て持っていかれ、喉に、食道に、へばりつくような後味の悪さがある。


「立ち上がれますか?」


 ジェゼカに問われ、シーラは足腰を奮い立たせる。先ほどまで、何の気力も湧かないほど衰弱していたのに、今では何とか立ち上がれるほどまでに、足腰に力が行き渡っている。脳に垂れこめていた霧のようなものもかき消え、思考が明晰さを取り戻していくのが、今のシーラには手に取るように分かった。


「では、参りましょう」

「サイラスは? この水は何?」

「水の原因は、本陣でも把握しかねています。ただ、サイラスは本陣を退却させる決定をしました」

「ダメ、逃げられない……!」


 ジェゼカの着る帷子の裾を、シーラは掴んで引き留める。


「城の者たちが、森に逃げている。置いてはいけない」

「逃げはいたしません」


 そう言いながら、ジェゼカは不敵にほほ笑んでみせる。その意図が分からず、シーラは一瞬、言葉に詰まった。


「では、どうするの?」

「“笑い声(リュヴ・スメクス)”」


 ジェゼカの言葉に、シーラは息を呑む。


「それを起動しましょう。ご存じなのでしょう? どこにあるのか」

「危険すぎるわ」

「誰にとってですか、シーラ様? それに、何に対して?」


 そう尋ねられ、自分が答えを持ち合わせていないことに、シーラは気付く。“笑い声”をみずから起動し、それを掌中に収める。ひとたびそれが実現し、かつ、“笑い声”の性能が伝承どおりであるのならば、サイラスといえども、うかつに手は出せなくなる。


 では、仮に伝承が虚飾であり、“笑い声”が取るに足りない骨とう品にすぎなかったとしたら? そのとき、シーラは殺されるだろう。ただ、今すでに死にかけているのだから、しょせんは時間の問題にすぎない。


 何より“笑い声”が役立たずだとすれば、そもそもカリハ傭兵団の作戦は、その前提を喪うのである。そうすると、これ以上中間世界に軍団を駐留させることに意味はないのだから、サイラスは大人しく撤退するだろう。サイラスは周到な傭兵である。機構(エンマハ)六芒星(ヘキサ)に口実を与えないためにも、レウキリアの領民に手を出すことも控えるはずだ。


 ジェゼカの言うとおりだった。誰にとっても、そして、何に対しても、自分が恐れることには理由がないのだと、シーラは気付く。


 それでも、シーラには気になることがあった。


「どうぞ、掴まって」


 自分の身体に腕を回させると、ジェゼカはシーラの身体を支える。


「私を、“笑い声”のところまで案内してください」

「ひとつ教えて」


 シーラは言う。


「“笑い声”を発掘して、文献を漁っていたとき、私は気付いたことがある。あの装置が真価を発揮するためには、操縦者には途方もない資質が要求される。あたかも、“笑い声”のことを隅々まで熟知し、自分の身体を操るように、自由に操れなければならないかのように」


 ジェゼカは答えない。シーラは言葉を続ける。


「つまり、操縦者は“笑い声”と融合しなければならない。ところが、“笑い声”は装置であって、デウスではない――」

「私は、あなた様に命を救っていただきました」


 シーラの話が核心に至るより前に、ジェゼカが口を開く。


「その命を活かすべきときが今だと、私は心得ています」

「命を無駄にしちゃダメよ」


 言葉を詰まらせかけていたシーラが、やっとの思いで言えたのは、それだけだった。


「命を無駄にしちゃダメ」

「何をおっしゃいます。あなただって、この地下牢で命を投げ出そうとされていたのに」


 シーラとは対照的に、ジェゼカはせせら笑って見せる。


「それに……私には秘策がございます。命をみすみす投げ捨てるようなことはいたしません。すぐにお分かりいただけると思います。私は死にません」

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