第37話:青い光(Las Lazel Cobol)
足元の白い小石を、シロットはつま先で蹴る。跳ね上がった小石は、放物線を描きながら落下し、斜面をなぞるようにして、くぼ地の底まで落ちていく。
今、シロットとキスメアの二人は、宮城の裏手にある、小高い山の稜線にいる。すり鉢のような形態をしたその山は、レウキリア宮城と隣接している。
宮城を本陣とするカリハ傭兵団にとって、この山は前線から離れているだけでなく、補給路からも外れている。傭兵たちの気配は全く感じられず、シロットはほとんど観光気分で、空を行きかう鳥の群れや、灌木を彩る花の鮮やかさなどを眺めながら歩いた。
キスメアはといえば、シロットの後ろからしずしずと着いてきた。背後から刺される可能性もあったため、シロットは金属製の鞄を両手で抱えるよう指示したが、そんな憂慮などはなから無駄であったかのように、キスメアは従順だった。もっとも、キスメアがそういう性質であることは、シロット自身もよく分かっていたのだが。
「意外と歩きましたね」
「そんなもんよ」
そう口にしたシロットだったが、頭の中では、“ガラスの森”を抜け出してすぐの頃を思い返していた。見かけでは近くにあるように思えても、実際に近づこうとすると距離がある。オリヴィエとのバイクの旅で、シロットが学んだことだった。
ラルトンの僧兵団は自衛を目的に結成されているため、遠征する機会が少ない。だから、僧兵出身のキスメアが、自分と同じ感想を抱くのは当然だ。――そんな物思いに耽っていたシロットは、キスメアの吐息が耳に近いことに気付いた。
「キッス?」
振り向いてみれば、金属製の鞄を砂地に置き、膝に手を当てて、キスメアは肩で息をしている。裸体は汗に濡れ、陽の光を受けて輝いている。
キスメアの背中に這う刺青に、シロットは目を細める。刺青の描く紋様は、刺青を彫った者の体内に宿る魔力と共鳴して、魔術の効用をもたらす。その反面、発汗の制約などの代償が、その身体にのしかかる。
「イヌハナの命令って言ってたわよね」
シロットは腕を組む。
「ラルトンには彫師がいるでしょう。誰も止めなかったわけ?」
「団長の命令には逆らえません」
んなワケないでしょう――と言いかけ、シロットは口をつぐむ。
僧兵団の団長が権力を行使できるのは、僧兵団の中でだけである。彫師たちは団長の指揮下にはなく、ラルトンの中でも独立した地位を保持しているため、職権によって、刺青を彫ることを拒否することもある。
背中に走るコバルト色の刺青が、キスメアの身体に負荷をかけているのは、シロットの目からも明らかだった。皮下組織に沈着した色素は、やがて体内に浸透し、芯まで蝕んでいくことだろう。――自分より後から僧兵になった者たちが、自分より先に死ぬかもしれない。それも、大義を賭けた戦いなどではなく、誰かを守るために彫ったはずの刺青が原因となって。
正体を明らかにしたい。正体を明らかにして、刺青を除去するようにキスメアに言いたい。そんな欲望が鎌首をもたげるが、深く息を吐いて、シロットはその欲望を矯める。今のシロットは、シロットであってシロットではない。それに、シロットは既にラルトンを去った身だった。
「ぐずぐずしてはいられません」
額の汗を手で拭うと、キスメアは身を起こし、ケースの蓋を開ける。蓋が百八十度開いた途端、留め具が外れ、発条が弾ける。細い金属の骨格が、シロットの目の前で、たちどころにして相互に連結されていった。最終的には、流線型の骨格を備えたトーテムが、シロットの頭ほどの高さにまで形成された。
「魔法陣です」
足音を立てないよう、慎重に後ずさりながら、キスメアは言う。
「立体法陣。奥行きを計算しなければならない分、平面の魔法陣よりも複雑な描画が必要ですが、その分だけ、より高度な術式の指定ができます」
「それで……指定されている術式は?」
「見れば分かる――そう言っていました」
「誰が?」
「望タイケメリア枢機官です」
タイケメリア。僧兵団の出身で、その名を知らない者はいない。ラルトンの三魔女のひとりで、凍結の魔法の達人である。性格も氷のように冷たく、一度手に入れたものを、決して手放そうとしない。
シロットの目の前で、金属の骨格から、青い電流がほとばしる。電流はトーテムの頂点から発散され、白い煙となって空へと立ち昇っていく。煙は線香のようにか細いものだったが、周囲が急激に冷え込んでいくのが、シロットにも分かった。自分のせいで全裸にされているキスメアがくしゃみをするに及び、さすがのシロットも罪悪感を覚える。
ほどなくして、中空に白い雲が浮かび上がってくる。はじめこそ、線香の煙をかき集めたくらいの小ささだったが、幾度かまばたきを繰り返す合間にも、雲は見違えるほど大きくなり、嵩を増し、鈍色になっていった。
雨雲だ――そう考えた矢先、シロットの頬に、最初の雨粒が触れる。
まばたきする間もなく、雲から雨が押し寄せてくる。これほど冷え込んでいるというのに、沸騰した水が釜から噴きこぼれるさま連想してしまうくらい、水量は圧倒的だった。
ただ、その雨はくぼ地を狙い撃ちにしていた。まるで雨雲が意思を持っているかのようだった。くぼ地から跳ね返ってくる雨の飛沫のせいで、周囲は霧がかかったようになる。
キッス、キッス――、と、雨の音に負けないよう、シロットは声を張り上げる。
「何なの、これ?」
シロットの言葉に、キスメアは首を振る。
「どういう意味よ?」
「分からないんです!」
雨音にかき消されないように声を張り上げているせいで、キスメアの口調は悲鳴のようになっている。
「とにかく、レウキリアに派遣されたら、この山で鞄を開けるように、って――」
やがて、滝のような雨も収まっていく。
小雨が降りしきる中、ぬかるんだ斜面で足を滑らせないよう注意しつつ、シロットはくぼ地を見下ろせる位置まで近づく。山腹までは水没しており、ちょっとしたダムのようになっている。山が堤防の役割を果たしているが、これが崩れれば、レウキリアの宮城目掛けて、この水が押し寄せることになるだろう。
レウキリア宮城に近い山際に、雨を生成した金属製のトーテムが浮かんでいるのを、シロットは目撃した。大雨に流されて、トーテムはくぼ地まで落ちていったのだろう。しかし、金属でできているはずなのに、まるで浮標のように、トーテムは浮かんでいる。
「キッス、あれ見える?」
シロットの隣まで近づくと、キスメアも目を細め、シロットが指さす方向を見つめる。
「あれ、爆発するわよ」
「そんな馬鹿な――」
キスメアはそう言ったが、強く否定もしてこない。
レウキリア宮城の側には山がある。山には、雨を溜めるのにちょうどよい大きさのくぼ地がある。金属製のトーテムは、そのくぼ地を目がけて雨を降らせた。それから、トーテムはまるで意思を持つかのようにして、くぼ地へと転がり込んだ。そして浮かび上がったかと思えば、今度はレウキリア宮城と、貯水槽と化したくぼ地とを隔てる山肌まで、ゆっくりとたゆたっている。――これで「爆発しない」と考える者がいるとすれば、その人物はよほどの馬鹿か、または天才かのどちらかである。
考えに耽っていたシロットだったが、視界の端から淡い青色の光を感じ取り、そちらに目を向ける。キスメアの背中を這う刺青が、鈍い青色の光を放っていた。
刺青が放つほの暗い光を、シロットは凝視する。トーテムが放った魔法に、刺青は共鳴しているようだった。
光が収まる。刺青の発色が、以前よりも鮮やかになっている。
イヌハナ団長の力では、彫師を従わせることはできない。しかし、ラルトンの三魔女ならば? 氷のように冷たい白い瞳で、彫師たちを頤使するタイケメリアの姿が、シロットの脳裡をよぎった。
「キスメア、あなたに命令がある」
キスメアの反応を待たずに、シロットは言葉を続ける。
「背中の刺青を取り除きなさい」
「どうして?」
「危険だから。あなたを殺しかねない」
「まさか」
両腕を肩より高い位置に上げると、キスメアは伸びをしつつ、シロットに背中を見せる。腰のくびれがより細くなり、背中の刺青の鮮やかさが際立った。
「これを突いてから、自分でも実感できるくらい、私は強くなったんです。模様も気に入ってますし」
「あんたが気に入っても、あたしが気に入らないの」
シロットは畳みかける。
「いい、キッス? あんたがあたしの奴隷になったのは何で? 後輩を庇ったからでしょう。何で後輩を庇ったの? 後輩を大事に思ってるからでしょう?」
戸惑った表情を浮かべるキスメアに近づくと、シロットはその手を取る。
「今はまだいい。でもその刺青は、あんたの身体を蝕むわ。そしたら、今度はあんたが後輩たちに庇われるようになる。大事に思ってた後輩たちを、自分のせいで、死地に追いやることになる」
「ただ、今強くならなければ、後輩たちを守ることはできません」
「あんたも誰かの後輩だったはずでしょう?」
シロットは続ける。
「シロット……だっけ? その先輩だって、あんたが死に向かって突き進んでいそうなら、止めるとは思わないわけ?」
「シロット先輩なら、刺青を入れることに賛成してくれます」
激昂に襲われ、シロットは頭が痺れるような感覚を味わう。
「馬鹿……!」
怒りで指先が震えているのを悟られないよう、シロットは手を引っ込めようとする。しかし、今度は反対に、キスメアがシロットの手を離さない番だった。
「ちょっと……!」
声を荒げるシロットだったが、キスメアの視線は、シロットの後方に向けられている。
次の瞬間、キスメアがシロットの腕を思いきり引っ張った。放り投げられたシロットは、上下逆さまになった状態で、先ほどまで自分が立っていた地点に視線を注ぐ。ワニのような脚を持った生き物が、霧を割き、地面を穿っている。
空中で身をひるがえし、シロットはぬかるみの中へと着地する。ワニのような太い脚に、太い尾。鱗に覆われら全身に、爬虫類特有の黄色い眼と、鉄くぎのような鋭い歯。それでいて、怪物にはコウモリのような翼が生えている。
竜。――現実には存在しないはずの幻獣の名を、シロットは思い浮かべる。
「どこから……!」
シロットは歯を食いしばる。霧が立ち込めているとはいえ、竜はこれほどまでの巨体である。それにもかかわらず、シロットもキスメアも、間近に迫られるまで、竜の存在を感知できなかった。
ましてや今のシロットは、オリヴィエの鋭敏な五感が利用可能である。それでも竜の接近を許してしまったのは、怒りのあまりわれを忘れたからだろうか?
そもそも、オリヴィエは? 握りしめた銃把が手汗で湿る。オリヴィエからの言葉は、先ほどから途絶えていた。銃に意識を宿すためには、集中し続けなければならないと、オリヴィエは言っていた。
それが原因ならばまだいい。
しかし、彼女の精神に何かあったとしたら?
シロットは銃を構える。その矢先、竜は長い首をもたげた。
カッ、カッ、カッ――。
聞きなれない音とともに、竜の口の周辺から火花が散る。
何か来る――。シロットが真横に跳躍したのと、シロットに向かって竜が口を開いたのは、ほぼ同時だった。灼熱の息吹が解き放たれ、シロットのいた地点は火炎に包まれる。
地面を転がり、立ち上がった矢先、竜が身をよじる。その瞬間、巨躯はたちどころに消え去り、全身が霧に紛れた。
光学迷彩だ、消えたわけではない――頭では分かっていても、五感が悪さをする。逃げるべきか、距離を詰めるべきか、シロットは一瞬だけたたらを踏み、重心がわずかにせり上がる。
その瞬間を、竜は逃さない。
シロットの耳が、風の音を捉えた。反射的に肘を折りたたむと、シロットは頭を庇う姿勢を取る。竜の太い尾がしなり、シロットの身体を打った。一撃を受けて、シロットはぬかるみを転がる。地面に対して鋭角で叩かれたために、全身を強く打ち付けることこそなかったが、地表の摩擦係数が少ない分、なすすべなく転がり続けるしかなかった。
転がっている間でも、シロットは冷静だった。何より、痛みに耐えられていることが、ほとんど奇跡のようにシロットには思えた。オリヴィエの身体でなかったら、今の一撃でシロットは死んでいただろう。
泥の中で身体をよじると、滑る勢いを利用して、シロットは立ち上がる。
カッ、カッ、カッ――。
銃を構え直そうとした矢先、中空で――それも、シロットの眼前で――火花が再び散った。歯は火打石の代わりをしている。竜はそれを打ち鳴らし、ガス含みの息を吹き込んで、火炎を吐くのだ。
シロットの背筋を、冷たいものが走る。自分が発砲するより、あるいは銃を投げ込んで稲妻に頼るより、竜が火を吹く方が早いだろう――。
その瞬間、竜の背後から、青い光が迸った。――もっとも、竜は光学迷彩で背景に溶け込んでいるため、青い光のせいで、視界が不自然に歪んだように、シロットの目には映った。
光の強さを前にして、シロットは目をつぶる。つぶったと同時に、竜の絶叫が、シロットの耳にこだました。うっすらと目を開けてみれば、青い光に全身を貫かれ、竜が苦しんでいた。
竜は、頭を大きく反り上げ、白い喉元が、シロットの眼前に露わになっている。
「今です!」
キスメアが叫ぶ。
撃鉄を起こすと、シロットは引き金を引く。銃声! 銃撃を優先したために、シロットは無茶な姿勢を取っていた。反動で肩が外れそうになり、シロットの全身から、どばっと脂汗が噴き出す。銃撃は竜の喉に殺到し、熟れたザクロのようになって弾けた。
銃撃に圧され、竜の巨体が後ろへ倒れる。斜面に倒れ込んだせいで、竜はそのまま、背後にできたダムの中へと滑り落ちていった。
終わった、生きてる――。ため息をついたシロットの下に、人影が現れ、手を差し伸べる。キスメアだった。
キスメアの表情は逆光で見えない。背中の刺青が、光を強く放っているせいだった。
「これのおかげです」
キスメアは言った。
「これでも、まだ除去しろって言うんですか?」
唇を引き結ぶと、シロットは自力で立ち上がる。憮然とした様子のキスメアの脇を通り過ぎると、くぼ地の中をシロットは見下ろす。竜は死に、水の中で、みずからの血にまみれて浮かんでいた。
そのとき、くぼ地の遠くで、火柱と、轟音が上がった。トーテムが爆発したのだと、シロットは直感する。トーテムの放った火炎はすさまじく、一瞬だけくぼ地の水の表面が燃え上がったようになった。炎の片鱗に触れ、竜の体内に宿っていたガスにも引火する。
くぼ地の中の水が、ある一点に向かって、猛烈な勢いで流れていく。山が崩れ、その崩れたところから水があふれ出し、レウキリアの宮城へと殺到している――。
黙りこくったまま、レウキリア宮城まで、シロットは歩き出す。キスメアは何か言いたげだったが、そのままシロットの後に続いていく。




