第35話:ナディ(Nadie)
首の後ろに手が添えられるのを、シーラは感じ取る。
シーラは目を開ける。自分の間近で、誰かがこちらを覗いている。照明が逆光となるせいで、相手の表情は分からない。相手の手が離れ、丸められた毛布が枕の代わりにわたし込まれる。
サイラスに嬲られ、鼎頭狗に凌辱されている間に気を喪ったのだと、シーラは思い起こす。その最中、シーラを介抱していた相手が、みずからの唇をシーラの唇に寄せた。
「うっ……?!」
うろたえたシーラは、相手の肩を手で掴む。しかし、シーラが相手を突き飛ばすよりも、口づたいに甘い液体が流れてくる方が早い。――糖蜜が自分の喉を潤していく事実を認めるに及び、シーラは抵抗をやめる。
相手が唇を離す。照明の光がその顔を照らした。赤色の巻き毛に、黒い瞳。そばかすのある顔――。
「ナディ……」
相手の名を呼んだ拍子に、シーラはせき込む。
「しっ! 静かに」
シーラの耳元に顔を近づけると、相手の少女――ナディはささやく。
ナディは、レウキリアの城下町に住む、猟師の娘である。弓や、罠や、ときには猟銃を駆って、ウサギやシカ、イノシシを狩っていた。
「お話はなされないで。お身体に障ります」
「どうやってここに?」
「杣道を伝って。父から教わったものです」
ナディの父は、シーラの父と親しかった。しかし今は、二人ともこの世にいない。
「木の洞を入口として、ちょっとした小道を通る。陽の光は射しますが、地面の中に埋まっているので、容易には見つからない。そのまま宮城の地階まで出られる」
「知らなかった」
「レウキリアでも、父と私以外に、その道を知る者はおりません。あなた様を助けに来ました」
“助けに来た”――散逸しかけていたシーラの意識は、その言葉に局在化される。
「私のことはいい」
シーラはナディから顔を背ける。
「遠くまで逃げて。できるだけ遠くへ」
「そんな……できません」
ナディは首を振る。
「宮城の者は皆、橋近くの森にキャンプを張っております」
「橋――南の?」
「はい」
「どうしてそんなことを」
シーラは再びせき込む。そんなシーラの背中に腕を回すと、ナディはできるだけ、シーラを楽な姿勢にする。
「立入りは祖法で禁止されている。デウスがいるのだから」
「背に腹は代えられません。身体を横にしますよ」
右腕が天井を向くような姿勢で、ナディはシーラを横にする。金属の容器に入ったタオルを取り出すと、ナディはシーラの背中を丹念に拭いていく。背中に生えたカビをこそげ落とし、発疹には透明な軟膏を塗る。
「南へ逃げるのよ、橋を渡って」
シーラはナディの方を向く。
「あなたの勇気には感謝するけれど、その勇気を、レウキリアの皆に分けてあげて」
「姫の存在こそが、レウキリアの皆の勇気なのです」
ナディはシーラの手を取る。
「あなた様が死のうものなら、レウキリアの皆は根なし草になります。あなた様を生かすこと。それが私の使命です」
「ナディ……ありがとう」
上半身を起こすと、シーラはナディの赤毛をかき分け、その頬に口づけをする。
「あなたを尊敬する。ただ、ここを出ることはできないわ。私が脱走しようものなら、カリハが取決めを守ることに理由がなくなる。皆殺しになる」
「では……どうすれば?」
「可能なかぎり援助をしてほしい。私は耐えてみせる」
シーラは言葉を続ける。
「“笑い声”の件は、機構にも、六芒星にも伝えている。他の傭兵団が来たら、カリハも戦略を変えざるを得ないはず。そうしたら、脱出する機会はある。レウキリアの皆にも、みじめな思いをさせないで済む」
「分かりました」
ナディが言い終えた矢先、遠くの方で、鉄格子が開くときの、蝶番の軋んだ音が響いてきた。
「逃げて。鼎頭狗が来る」
音がした方と、シーラのことを、ナディは交互に見やった。
「早く……!」
シーラは小声で、しかし語気を強める。名残惜しげにシーラを眺めつつも、ナディは荷物を手早くまとめ、牢を去っていった。




