第30話:第六感(Six Sens)
そう言ってのけた矢先、シロットは、こちらに向かって誰かが近づいてくることに気づいた。
出払っていたカリハの傭兵たちが、戻ってきたのではないか。シロットは最初、そのように考えた。しかし、聞こえてくる足音は二人分しかない。いつもの癖で、ベルトにぶら下げた鉄槌の柄に触れようとし、シロットは今の自分が“オリヴィエ”であったのだと思い至る。
それにしても――と、シロットは考える。オリヴィエの身体に施された稠密な刺青の存在に気づいたのは、ガラスの森にいた頃のことだ。今こうして、オリヴィエの身体を自分のもににするに及んで、シロットはその刺青の効用に、息を呑む思いだった。
まず、五感の鋭さが桁違いになっている。先ほどから耳に入ってくる足音も、かなり遠いところから響いてきている。これまでのシロットでは、気づくことなどは絶対に不可能だっただろう距離だ。
くわえて、今のシロットは足音を感知できるのみならず、その足音を聞き分けて、人数までも特定することができた。これまでの冒険で、シロットが勘や経験をたよりに乗り切ってきた出来事も、オリヴィエにとっては、全て知覚の範囲内だったのだろう。
「だれか来る」
ホルスターに銃をしまいながら、シロットはその銃に――オリヴィエに――話しかける。
しかし、オリヴィエからの返事はない。
「二人ね。――ねえ、拗ねてんの?」
――ごめんなさい。
オリヴィエの声がする。
――集中してないと、この状態を維持できないみたい。あまり喋れないかも。
「ハハン」
脱ぎ捨てた服に手をつけながら、シロットは鼻で笑う。
「生殺しっスねえ。身体を弄ばれておきながら、じっと我慢しているしかないなんて――」
軽口をたたいていた矢先、二人組の足音が、不意に止まった。二人組は目を細め、シロットの裸体を――背中、肩甲骨の辺りを――見つめているようだった。相手の視線が、自分の身体のどこに当たっているのかまで、今のシロットにははっきりと分かる。
立ち止まっていた二人組が、再び歩き始める。駆け出している、といってもいいくらいの速度だ。しかし、まっすぐこちらへ向かってくるのはひとりだけで、もうひとりは横へと大回りしている。
この展開の仕方を、シロットは知っていた。二人一組で行動せよ。標的を目視し、なおかつ、相手がこちらに気づいていないようであれば、ひとりはまっすぐ進み、もうひとりは回りこんで、前後からはさみ撃ちにせよ。――遠い昔、修練所で、シロットが習ったことだった。
「ラルトンだ」
シロットはつぶやく。つぶやいてから、オリヴィエの反応を待っている自分がいることに、シロットは気づく。
オリヴィエから反応があったとして、自分はいったい、どのような反応を期待しているのだろう?
「――待て!」
自己嫌悪へと収れんしそうになっていたシロットの思考は、声によって外側に引き戻される。ひとりの少女が、シロットを見すえている。年端からして、つい最近に修練所を卒業し、僧兵になったばかりの子だろう。
例年の予定どおりなら、卒業式は三か月ほど前である。そのころにはもう、シロットはラルトンを去っているので、直接の面識はない。
薄紫色の外套は、ラルトン聖皇国に仕える僧兵の証だ。もし、シロットが元の姿のままだったら、ツナギが同じ色であるために、素性を怪しまれていたにちがいない。
「おまえは何者だ」
詰問に対し、シロットはわざとらしく、自分のうしろを振りかえってみせる。おどけの意味が半分だったが、もう半分は、迂回したもうひとりを索敵するためだった。
灌木の裏側に、もうひとりが隠れひそんでいる。シロットは内心でほくそ笑んだ。当人は隠れているつもりなのだろうが、オリヴィエの五感の前には赤子の手をひねるも同然だった。
「おい、おまえに言っているんだ、変態」
「ただの旅の者ですよ」
うわずった声の少女に対し、シロットは取りすました口調で答える。ニ対一。人数不利ではあるものの、経験の差は簡単には覆らない。負けることは万にひとつもないと、シロットは見こんでいる。まして、今のシロットはシロットであるとともに、シロットではないのだから。
「にしても、山で会ったら『こんにちは』、初対面なら『はじめまして』でしょう? “変態”だなんて、ぶしつけな」
「だ、だったら――」
僧兵の顔が真っ赤になる。
「そんな、下半身を……せめてパンツくらい……!」
「何ものにも束縛されない生き方を目指して、旅をしているんですな」
などと言いながらも、シロットはパンツを穿く。
「あなたのところもそうでしょう。下着はくじ引き、ってヤツですよ」
「き、貴様……!」
シロットの嘯きに、それまで赤かった僧兵の顔が、真っ青になった。
「神を愚弄するなんて!」
「信じてるの?」
服を着終えると、シロットは僧兵に向きなおる。――もうひとりの僧兵には、ちょうど背中を向けた格好だった。
「え?」
「神をよ。光の上の光」
「それは……もちろん」
「ハハハ、いいな」
腕を組んでみせる僧兵に対し、シロットは笑う。
「私も、そんな時があったよ――」
シロットが最後まで言い終わらないうちに、目の前にいる僧兵が、シロットに向かって一歩踏み出す。あらわになった槍の穂先が、炎を受けて、目の前できらめく。
(槍か)
槍の軌跡を目で追いながら、シロットは唇を引きむすぶ。
「血を流してはならない」が、ラルトンの戒律である。このため、形式的ではあるにせよ、刃物を武器にすることは、僧兵団で禁じられていた。シロットが鉄槌を振るうのも、それが理由である。
修練所を卒業したばかりの、かけ出しのころ、シロットに最初に渡されたのは鎚鉾だった。シロットだけではない。同期で僧兵になった者たちも、皆鎚鉾を渡された。
時代が変わってしまった。いや、そこまで月日が経ったわけではない。変わったのは“時代”ではない――。
「やあっ!」
振り下ろされた槍を、服の皺が動くくらいのかすかな動作で、シロットはかわす。そのときにはもう、もうひとりが背後に肉薄している。二人の連携は教科書どおりで、非の打ちどころがない。修練所も優秀な成績で卒業したにちがいない。――しかしその程度なら、シロットも成しとげている。
これまでの経験と、オリヴィエの身体とが、二人の僧兵との差を歴然とさせていた。背後から突き立てられた槍の柄をつかむと、シロットはそのまま、力任せに投げ飛ばす。
瞬発的な怪力だけは、シロットの方がオリヴィエより上のようだった。ただ、オリヴィエの怪力にも底しれないものがある。並外れた膂力に、シロットの投げの技術が合わさる。おまけに、槍を突き出す際に、重心が上がっていたのだろう。シロットに振り回されたもうひとりは、槍を手放すいとまもなく、そのまま吹き飛んで、地面に転がった。
「あっ――」
正面から近づいてきた僧兵は、自分の槍を紙一重でかわされ、図らずも、シロットの懐に飛びこんできたような格好になった。相手の亜麻色の三つ編みをつかむと、シロットはそのまま、相手を自分の側にたぐり寄せる。相手が身をよじろうとする前に、その唇を、自分の唇でふさぐ。
「うっ?!」
突然のシロットの行動に、僧兵は槍を取り落とす。うぶだなァ、と思いつつも、シロットは相手を離さない。相手の背中に両腕を回すと、シロットは背骨の凹凸を指でなぞり、下まで這わせ、腰骨の辺りを指の腹で愛撫する。官能的な意味もあったが、抵抗しようものなら、背骨をへし折ってしまうぞ、という威嚇の意味合いもあった。
その意味合いは、相手にも伝わっている。この状況を脱するために、相手は何千何万という思考をめぐらせている。――ぐるぐるしている相手の目の様子から、シロットにはそれが分かる。
自分の顔を密着させ、シロットは相手の唾液と、吐息を吸い取る。混乱と、官能と、呼吸困難で、相手の目からは、だんだんと光が消えていく。
「初めて、奪っちゃったみたいっスね」
相手の唇を解放すると、シロットは言った。腕の中で、三つ編みの僧兵は気を喪っていた。
「さあ、どうします?」
もうひとりの僧兵に、シロットは尋ねる。槍を構えなおしながらも、相手は行き詰っているようだった。
「エミちゃんを離せ……!」
「エミちゃんっていうの?」
二人の僧兵を、シロットはかわるがわる見やる。
「かわいいじゃん」
「バカにするな!」
「で、どうすんのよ」
にじり寄ってきた相手に対し、シロットは、同じ分だけ下がる。
気を喪っている者を人質にするのは、得策とは言いがたい。相手がいつ息を吹き返すか、分かったものではないからだ。それに、気を喪っているフリをしつつ、標的の隙を窺っている可能性もある。
今回に限って言えば、その危険性はないだろう。ただ本来なら、このような状況を避けるのは定石だった。
――シロット、
これまで静かだったオリヴィエが、シロットに声をかける。と同時に、頭のてっぺんから背筋を通って、電気のようなものが流れていくのをシロットは感じ取った。“第六感”――とでもいうべきものなのだろうか。もっとも、シロットのものではなく、オリヴィエのものなのだが。
――分かるでしょ?
分かるよ――唇だけを動かして、シロットは答える。“相手”は大きく跳躍し、シロットめがけて急降下を始める。




