第23話:長い夢(La Libido Fervidas)
手首を掴まれ、オリヴィエは現実に引き戻される。
長い夢、いや、“記憶”を見ていたのだ――そう気づいた矢先、オリヴィエの膝の上に座っていた少女が、手首を掴んでくる。
「シロット?」
オリヴィエは尋ねるが、少女――シロットに、気にする様子はない。
ブルガーの街を抜け出してから、半年が経とうとしている。旧文明の時代の残骸である、巨大な橋の縁に腰かけ、自分たちは今“睦み合い”の最中だったのだと、オリヴィエは思い出す。
行為の最中のシロットは、普段と違って大人しく、聞き分けが良い。大胆に扱えば嫌がるようなしぐさをするが、内心まんざらでもないのだということを、これまでの“睦み合い”から、オリヴィエは学んでいる。
となると、どこまで深みへと分け入れるのか、オリヴィエも興味がわいてくる。果汁はすでにしぼり尽くした。今度は、乾いた海綿のようになっている彼女の身体に、自分の体臭を染みこませるべき時だ。かくして、これまではシロットの誘いから始まることの多かった“睦み合い”も、今ではオリヴィエから切り出すことが多くなっていた。
「どうしたの?」
「こう、こうやって――」
自分の首のあたりまで、シロットはオリヴィエの腕を引っ張る。オリヴィエの右手の指先が、ちょうどシロットの顎へと触れる。
「こうやってさ、相手の顎を持ち上げたのよ」
オリヴィエの右手首を、シロットは持ち上げる。オリヴィエの手は、シロットの顎にあてがわれているから、オリヴィエは自然と、シロットの顔を自分の方へ向けさせる形になった。
その状態がしばらく続いた。海からの風の強さを、オリヴィエは肌に感じる。数百年にわたって潮に蝕まれているというのに、橋が原型を留めたままでいるのは奇跡のようだと、状況も忘れ、オリヴィエは考えてしまった。
やがてシロットは、オリヴィエの手首を離す。ばつが悪くなったオリヴィエは身じろぎをしようとするが、膝の上のシロットが邪魔で、それができない。シロットは、重心をわざと前に寄せ、オリヴィエを動きにくくさせていた。
「ちょっと――」
「シーラって誰?」
オリヴィエが抗議の声を上げかけた矢先、狙いすましたかのように、シロットが言った。
「え……?」
思いがけず、オリヴィエは声を漏らした。シーラという名前を出され、しかしオリヴィエはその名を知らない。それにもかかわらず、シーラという名前に動揺している自分がいる。――先ほどまで眺めていた記憶は、自分のものではない記憶だったのだと気づき、額から汗が噴き出してくる。
“自分”は“シーラ”を知っている……?
「ええっと」
「どこの女?」
記憶を手繰ろうとして、オリヴィエは断念する。記憶の引き出しをいくらまさぐってみたところで、その中身は役に立たない。今のオリヴィエは、オリヴィエであってオリヴィエでないからだ。
二人の人間が縒り合わさることで、今のオリヴィエは生を許されている。身体の元の所有者は、精神を喪っていた。そのままの状態が続けば、身体はやがて朽ち果ててしまっていただろう。そうならなかったのは、精神の持ち主が、みずからの身体をなげうって、融合を果たしたからだ。
しかし、融合はその場しのぎの策にすぎない。本来の自分の身体を喪ってしまったために、精神の持ち主は、身体に紐づくもの、すなわち自分の記憶を引き出すことができなかった。
代わりに参照できるのは、身体の持ち主の記憶だけである。――これが、今のオリヴィエの陥っているジレンマだった。たまに殺到する白昼夢が、精神の所有者側の記憶の断片であると、オリヴィエは気づいていた。しかし、それらの記憶は識域下に沈み込んでいて、オリヴィエが独力で引き出すことはままならなかった。
だから自分は旅をしているのだ。“死せる神の塔”へ行って、賢者マースに会って、運命を変える。身体の持ち主が、自分の精神を取り戻せるようにするために――。
「答えて」
「ごめんなさい」
シロットの詰問に、オリヴィエはそう応じるしかなかった。次に何を言われるだろうか。据わった目をしているシロットを見ながら、オリヴィエは肩をすぼめる。
紺色の刺青に覆われた右腕を、シロットは伸ばす。今度はシロットの指先が、オリヴィエの顎に触れる番だった。
「何?」
「嘘はついていない」
シロットは言う。その声には、何かを裁くような響きがあった。
ため息をつくと、シロットはオリヴィエの膝の上から立ち上がる。茫然としているオリヴィエを後目に、シロットはツナギを着始める。
「続きは?」
オリヴィエは尋ねる。シロットは答えない。背中の刺青が、ツナギに覆われて隠れた。
「もしかして、怒ってるの?」
「怒ってないよ」
シロットの答えは素早かった。まるで、オリヴィエから「怒ってる?」と訊かれるのを、待ち受けていたかのようだった。
「嘘だ。怒ってるわよ」
そう言うオリヴィエに対し、シロットが振り向いてくる。真顔で、目は笑っていなかった。喉がゴクリと鳴る。掻いたことのない汗が、オリヴィエの額から噴き出してくる。
「あっ、あっ」
「早く出して」
どうすれば良いのか、オリヴィエには分からなかった。あたふたと服を着ると、傍らに停めてあったサイドカー付きのバイクまで、オリヴィエは向かう。サイドカーには、既にシロットが乗り込んでいて、不機嫌そうに腕を組んでいた。
「出すね?」
おっかなびっくりといった調子で、オリヴィエはシロットに尋ねる。シロットからの返事はない。しばらくは口を聞いてくれないかもしれない。
ブルガーを抜けた今、二人は“レウキリア”に向かって旅をしていた。




