第19話:自分自身(meme)
「――動くな」
シロットの首筋に、硬いものがあてがわれる。感触から、シロットはそれが、匕首の切っ先であると理解した。
「やっぱり……」
跪いたままの姿勢で、シロットは言った。
「やっぱりアンタを……殺しておくべきだった……」
シロットの言葉に、相手は――サーミは――含み笑いを漏らす。
シロットの背中越しに伝わってくるサーミの気配は、初めて出会った時のような、あか抜けない新米傭兵のものではない。匕首をシロットの首筋にあてがう角度も、肘の折り畳み方も、サーミの技術は完璧だった。シロットが少しでも身じろぎしようものなら、あるいは、身じろぎする素振りでも見せようものなら、匕首の切っ先は、たちまちのうちにシロットの喉元に食い込むだろう。
シロットは理解した。背後に立っている獣人の傭兵は、サーミであって、サーミではない。
「……アダバダね?」
「ずいぶんと時間がかかったな」
サーミ――“アダバダ”が、鼻を鳴らした。
「さては……油断したな?」
(クソ……)
シロットは奥歯を噛む。
アダバダの言うとおり、正体に気付くことのできるチャンスは、幾らでもあった。“エンマハのハルエラ”から逃れてすぐのシロットに、サーミは背後から忍び寄って、シロットに声を掛けた。いかにシロットの注意力が散漫になっていたとはいえ、サーミが素人だったら、シロットに気付かれることなく、その背後に忍び寄ることなど、できはしなかっただろう。
高台へ登った時もそうだ。サーミがただの傭兵だったならば、サーミは到底、高台までよじ登ることなどできなかったはずである。にもかかわらず、大して時間もかけずにサーミが登りつめたのは、シロットと同程度の身体能力を、サーミも有しているからにほかならない。
それに、青年の放ったパチンコ弾で、“決死隊”が散りじりになりかけていた時も、そうだった。
――あんなの……避けきれないよ……
あの時、サーミはそう言って泣きべそをかいていた。しかし、裏を返せば、サーミは塹壕に飛び込んできたパチンコ弾の軌道を、しっかり見切っていたことになる。
その時、外から聞こえてきた笑い声が、廃墟全体を震わせた。その笑い声は、さながら男性が歯ぎしりしつつも、何かに打ち勝ったことを誇るかのような、そんな笑い方だった。
上から降って来た水が、シロットの正面に水たまりを作る。建物が震えた弾みで、上層部のひずみに溜まっていた水が、こぼれ落ちてきたのだろう。
「時間がない」
アダバダが言った。
「間もなく、イカーナが孵化する」
「……イカーナ?」
シロットは訊き返す。
「そうだ。イカーナ、……廃業傭兵年金機構で、元締級の傭兵だった者だ。遺失技術の研究者だ。何度も会ったろう? 我々だって」
「まさか……」
シロットの脳内に、虹色の怪物の影像が去来する。シロットが初めて邂逅した時、虹色の怪物は、まだ半分ほどは人間の形状だった。
「あの男は、“プロトマギヌス”の研究をしていた」
シロットの思考を見透かしたかのようにして、アダバダが語る。
「“プロトマギヌス”は、宿主を“デウス”に変化させる寄生生命体だ。傭兵団で取り込めば、戦力の大幅な底上げにつながる。イカーナはエンマハからの脱走を試みていたから、俺たちが手助けした」
「そこへ、ハルエラがやって来た……」
散逸していた事実の破片が、シロットの頭の中で筋書を描き始める。
イカーナは、自らの研究成果である“プロトマギヌス”を携えて、カリハの傘下であるブルガーの街へ逃げ出した。しかし、脱退を厳しく咎めるのは、エンマハもカリハも同じである。ブルガーの街に副頭取のハルエラが投入され、追いつめられたイカーナは、自らに“プロトマギヌス”を投与したのだ。
「ハ、ハ……ハ!」
シロットの背後で、アダバダが声を上げる。それが笑い声であると気付くのに、シロットは時間がかかった。アダバダの笑いは、笑う方法を忘れてしまった人が、練習して笑い方を身に着ける途中のような、不自然な笑い声だった。
「キミには礼を言おう」
――水たまりに映り込んだ景色が変化したことを、シロットは見逃さなかった。アダバダの背後が揺らめいたかと思うと、人影が姿を現したのだ。人影の輪郭はおぼつかなかったが、シロットはその形状から、人影が短刀を握り締めていることを察した。
青年が――もう一人の“オリヴィエ”が、今、アダバダの背後に迫っている。
「あら、良いってことよ」
シロットは、わざとらしく言ってみせた。オリヴィエの作戦を成功させるために、シロットにできることはひとつしかない。 アダバダの注意を、自分に向けさせることである。
「知ってるでしょ? 『求めよ、されば与えられん』って」
「お蔭で、“プロトマギヌス”の真価を垣間見ることができた。既に標本も回収できている。あの生命力、進化に対する飽くなき欲求。――いずれも、我らカリハの望むところだ」
「それで、アンタは――」
あと三歩で、“オリヴィエ”の短刀はアダバダに届く。
「アンタの欲求は何?」
「お前の肉体だ。――分かるだろう? この身体が、オレのものではないことくらい……!」
アダバダの声に、珍しく感情の火がともった。その声には、身体に対するいまいましさが込められているように、シロットには聞こえた。
あと二歩。
「この獣人の肉体を奪って、オレは生きながらえている。だが、もうウンザリだ。臭くて、薄汚くて……血が澱むようだ」
「ハハハ、お客さん、言いますねえ」
「アイツさえいなければ……!」
(――アイツ?)
アダバダの言葉に、シロットの第六感が反応する。
アダバダの言う“アイツ”。――どういうわけか、シロットはその人物が、シロットも良く知る人物であると直観した。
あと一歩――。
「それって――」
「――お前のことだ!」
アダバダが、シロットの首筋から匕首を翻す。そのまま右腕を鞭のようにしならせると、アダバダは背後に立っていた人物――“オリヴィエ”――に、匕首を振りかざしていた。
だが、“オリヴィエ”も負けてはいない。アダバダが振り向いたのと同じタイミングで、“オリヴィエ”も短刀を振るう。
アダバダと“オリヴィエ”、二人の構えた短刀が、シロットの目の前で交錯する。
……
……
「久し振りだな、アダバダ?」
……
……
“オリヴィエ”が、わざとらしくアダバダにウインクしてみせる。
その胸板には、アダバダが放った匕首の切っ先が埋まっている。
「ずいぶんと可愛くなったじゃないか、え?」
そう言うと、“オリヴィエ”は短刀を握る左腕に力を籠め、アダバダを遠ざける。
「う、ぐっ……!」
口元から泡を漏らしながら、アダバダが後ずさる。その拍子に、握り締めていた匕首から、アダバダは手を放す。
“オリヴィエ”の胸元から、匕首が地面にこぼれ落ちた。
アダバダの右肩には、オリヴィエの放った短刀が、深々と突き刺さっている。
ほんの少しの差だった。アダバダの狙いは完璧で、匕首の尖端は、“オリヴィエ”の心臓を精確に捉えていた。
もし、アダバダが“サーミ”の身体でなかったら、腕の長さが上乗せされ、アダバダの匕首は、“オリヴィエ”の心臓に達していただろう。だが、アダバダは大切なことを忘れていた。今のアダバダは、自分自身であるとともに、自分自身ではない、ということだ。
「クソっ……この身体では……」
“オリヴィエ”とシロットの双方から、アダバダは遠ざかる。アダバダの尻尾は小刻みに痙攣しており、右腕はだらりと垂れ下がっていた。“オリヴィエ”は短刀の一撃で、アダバダの右腕の腱を断ち切り、短刀をひねることで、右肩を剥離させたようである。
「悪いんですけどね、アダバダさん、」
鉄鎚を取り出すと、シロットは立ち上がって、アダバダの前で構える。
「あたし、今の身体は大分気に入ってるんですわ。ニオイが気になるんだったら、やっぱり全剃りするしかないんじゃないっスかねぇ、その体毛」
「ハ、ハ……ハ!」
アダバダが笑った。
「ハ、ハ……ハ! 好きに言えばいい。だがその言葉、忘れるなよ……!」
「待て――」
シロットが叫んだ時には、既に手遅れだった。アダバダの全身が点滅したかと思うと、瞬きした時にはもう、アダバダは完全に姿を消していた。
「消えた?」
「逃げたんだ」
シロットの背後から、“オリヴィエ”の声が聞こえる。
「今のアイツじゃ……二人も相手にできない……」
「ちょっと……!」
慌てて振り向くと、シロットは膝をついている“オリヴィエ”に手を貸した。胸元の傷は開いており、“オリヴィエ”の白いシャツは、血で真っ赤に染まっていた。
「しっかりしてよ、オリヴィエ」
いつしかシロットは、目の前の青年のことを、普通に“オリヴィエ”と呼んでいた。――だが、そのことにシロットが気付くのは、だいぶ後になってからのことだった。
「連れてってくれ――」
シロットは黙ったまま、“オリヴィエ”に手を貸し、横たわっているもう一人の“オリヴィエ”のところまで連れて行った。
「もういい、ありがとう」
「言っとくけど、これは“貸し”よ?」
「ハハハ……」
“オリヴィエ”は笑った。こんな場面にもかかわらず、“オリヴィエ”の笑いは、素直な笑い方だった。
「ちゃんと説明してもらうからね――」
「覚えてたら、な」
“オリヴィエ”が、地面に膝をつく。次の瞬間、“オリヴィエ”の全身が、光に包まれた。
「うえっ……?!」
「――姉さん、」
眩しさに、思わず顔をしかめていたシロットの耳に、“オリヴィエ”の声が届く。
「待ってて……すぐに助ける……必ず救ってみせる……姉さん自身からも――」
シロットの心の中で、訊きたいこと、尋ねたいことが、泉のようにあふれ返る。
だが、尋ねるべき相手は、もういなかった。先ほどまでの青年・“オリヴィエ”は姿を消し、シロットの目の前に寝そべっているのは、これまでのシロットがよく知るバイクオタのガンスリンガー・“オリヴィエちゃん”だけだった。