第18話:もう一人のオリヴィエ(Las Tepos du La Origina)
「ちょっと待て」
背後から呼びかけられたその時、シロットの心の中を、二つの感情が稲妻のように駆け巡った。
第一の感情は、「逃げられない」という焦りである。これまでの経験から、シロットは、背後に迫った男性の実力が自分と同程度か、又はそれ以上であることをすぐに理解した。
第二の感情は、焦りよりも繊細な感情で、シロットにとっても名状し難い感情だった。無理して言おうとすれば、それは「懐かしい」という感情だった。
もちろんシロットにとっては、初めて聞く男の声である。だからこそシロットは、自分の心の中に芽生えた「懐かしい」という感情に、自分自身で戸惑っていた。
シロットは、ゆっくりと背後に振り向いた。男は背が高く、小柄なシロットからすれば、顔を覗き込むために、ほとんど見上げなければならないくらいだった。肩幅はがっしりとしていて、肌は日に焼けて浅黒くなっている。ただし、体格に圧倒されて分かりにくいが、男の年齢はシロットよりも下だろう。どちらかと言えば、”青年”の部類だ。
「あ……」
青年を目の前にして、シロットは言葉を呑んだ。
青年は首に、スリングショットを引っかけている。パチンコ弾でシロットを援護していたのは、この青年なのだ。
見逃してはならない点が、もう一つある。青年は、透き通った青い瞳を――オリヴィエと同じ瞳の色を――持っていた。
「あなた……もしかして……」
「――オレの名前は、“オリヴィエ”」
腰に手を当てた状態で、青年はそう名乗った。それは、シロットにとって予想通りの答えだった。
――実はその子、男の子だったんじゃないかしら――
過去に披露した自らの推理を、シロットはもう一度、記憶の中で反芻する。
シロットの予感は、当たっていた。――では、廃墟の奥で眠っている”オリヴィエちゃん”は、いったい誰なのだろう?
「気になるよな、やっぱり」
青年は言った。
「話すと長くなる。――ところで、名前は?」
「シロット」
シロットは、青年から目を反らした。
(どうしよう!)
シロットにとってショックだったのは、青年の為人は、シロットの好みだということだった。シロットは、名乗ることに恥じらいを覚えたし、恥じらいを覚えている自分が、更に恥ずかしかった。
(早く目ェ覚ましてくださいよ、オリヴィエさん――)
「そうか」
それだけ言うと、青年は窓枠まで近づき、外の様子を眺める。シロットもつられて、廃墟の外に目を向けた。
虹色の怪物が無力化されたためか、青年が攻撃を止めたためか、カリハの下級傭兵たちが、塹壕を通り抜けながら、こちらに接近していた。
「減らないな」
首に提げていたスリングショットを、青年は再び手に取る。
「何、戦うつもり?」
「逃げられない。彼女が――」
青年は、“オリヴィエ”のことを”彼女”と呼んだ。ただ、青年の呼び方は、どことなくぎこちなかった。
「彼女が目覚めない限りは。まだ時間がかかる」
「あっそ。ねえ、あなた銃使わないの?」
「オレは”選ばれなかった”」
「はーん……?」
気のない返事をしたが、シロットは、何が「選ばれなかった」のか、青年の言っていることの意味が分からなかった。
「話すと長くなる」
青年は再び言った。
「いいわよ、別に。オリヴィエちゃんが目ェ覚ましたら聞いてみるから」
「その方がいい――あなたが心を込めて話せば、彼女だって教えてくれるかもしれない」
「あはん。それはダイジョウブ」
髪の毛のひと房を、シロットは自分の指に巻いた。
「あと、『シロット』でいい」
「シロット、手伝ってくれないか? 彼女を――」
そう言うと、青年は床に横たわっている“オリヴィエ”を見やった。青年は、意図的にオリヴィエのことを“彼女”と呼ぶことによって、自分自身が覚えている違和感を拭い去りたいようだった。
「彼女を動かすことは、今はできない」
「当ったり前でしょ。何しにここへ来たと思ってるのよ――」
言いながら、シロットはふと、サーミのことを思い出した。薄情な話、“オリヴィエ”との出会いに全意識が向けられてしまい、シロットはサーミのことを忘れ去っていた。
「ねえ、オリヴィエ……」
青年をどう呼ぶかで、シロットは一瞬だけ迷った。それから“オリヴィエ”と呼んでみたが、走っている途中で足場を喪ったかのような、奇妙な感覚をシロットは味わった。
青年が“オリヴィエちゃん”のことを“彼女”と呼ぶときにも、今シロットが感じたのと同種の感覚を味わっているのだろう。
「何だ?」
「もしさ、毛玉……じゃなくて、獣人の傭兵がいたらさ、ソイツだけは――」
「塹壕で……隣にいた奴か?」
「そう。サーミって言うんだけどさ、ソイツだけは、見逃してやってほしいのよ。いろいろあったんだけどさ、あたし、アイツに筋通さなきゃなんないのよね」
「途中で逃げたのか?」
「そうよ。ホント勘弁してほしいわ――」
「そうだな、」
青年は、スリングショットの紐を握り締める。
「それは……勘弁してほしいな」
カリハ傭兵団の陣営から発射された砲弾が、シロットたちの頭上を越え、建物の上部に当たった。建物全体が震え、頭上からは土埃が降り注ぎ、建物全体が傾く。
「やってくれるじゃん……!」
コンクリートの塊を右手で掴むと、シロットはそれを振りかぶって投げる。シロットの投擲した瓦礫は、放物線を描きながらカリハの陣地まで飛んでいき、地面を跳ね返って、一基の迫撃砲の砲身に当たった。砲身はひしゃげ、台座から外れ、周囲から煙が上がったことが、シロットの位置からでも分かる。
「やるな!」
青年が、シロットに向かって口笛を吹いた。
「でしょ? もっと褒めてくれてもいいのよ?」
「今度はオレの番だ」
パチンコ弾を取り出し、シロットの目の前で引き絞ると、青年はそれを放った。弾を放つ瞬間に、青年はスリングショットの柄を握る右手の手首を、大きくスナップさせた。発射されたパチンコ弾は、まっすぐに塹壕の上を飛び、塹壕から頭を覗かせていた傭兵の目玉をもぎ取る。
「やるじゃん!」
「シロット、また来るぞ――」
フロア内を移動しながら、シロットと青年は、向かってくるカリハの傭兵たちを迎撃した。カリハの陣営から飛んでくる迫撃砲の命中精度は悪く、最初の一発が建物を震わせた以外は、建物の上を通り過ぎるか、手前に着弾し、塹壕に潜んでいた下級傭兵たちを粉砕するかだった。シロットは、手ごろな瓦礫を拾ってきては、カリハの本陣に向かって投げ込んだ。シロットが瓦礫を投げ込むたびに、カリハの陣営からは、悲鳴と、火薬の爆ぜる音が聞こえてきた。
青年も、塹壕づたいに向かってくる傭兵たちを、パチンコ弾でなぎ倒していた。青年の弾の撃ち方は独特で、ステップを踏むように歩きながら、すかさずスリングショットを引き絞ると、パチンコ弾を放った。青年の動きは無造作で、しかし迷いがなかった。
「さぁ……!」
五基目の迫撃砲が台座からもげるのを見届けると、シロットは肩で息をしながら、横たわるオリヴィエの方を見た。
「そろそろ、死んだフリ止めてもいいんじゃないっスかね?」
しかし、オリヴィエが目を覚ますそぶりはなかった。シロット自身も、そのことはうっすらと理解していた。――目の前に、青年がいるからだ。シロットは直観的に、青年と“オリヴィエ”とは同時に存立し得ないと感じ取っていた。
「シロット! 悪い知らせと、もっと悪い知らせがある」
外の様子を警戒しつつ、青年が言った。
「何よ?」
「まず、オレのパチンコ弾がもうない」
シロットは肩をすくめた。
「ハハハ、最高っスね」
「それから……あれを見ろ」
青年が指さす方向に、シロットも目を向ける。――プロペラの低くうなる音とともに、カリハの本陣の奥から、四台の戦闘機が、方陣を組んで中空に現れた。戦闘機は、共通の物体をロープでぶら下げている。
「――マジ?」
シロットはうめいた。戦闘機が共同で運ぶ物体は、白い“繭”だった。その“繭”の白さは、このブルガーの街に足を踏み入れてすぐにシロットたちを襲った、あの白い軟体と同じ白さだった。
「何、カリハの兵器なワケ?」
「違う。“エンマハのハルエラ”だ」
「なるほど。……ン?!」
青年の言葉に、シロットは耳を疑った。
「嘘でしょ? あのブヨブヨが?」
「ハルエラは魔獣と融合している。エネルギーが続く限り、自分自身を好きなように複製することができる。エネルギーが無くなったら、有機物を摂取できるまで“繭”の形状になってやり過ごす」
「なーるほど」
シロットも合点がいった。複製の過程で、ハルエラは軟体動物となるように自らを変形させたのだろう。軟体になれば、移動の制限は無くなる上、砲撃のダメージを最小限にし、最速でリカバーすることができる。戦略を遂行するに当たって、軟らかい身体の形状は最適化されたものなのだ。
――”エンマハのハルエラ”を殺せ
アダバダがサーミに下した命令を、シロットは思い返す。なぜアダバダが、いきなり“エンマハのハルエラ”を名指しにしたのか、あの時のシロットはよく分かっていなかった。しかし、アダバダの命令は当然なのだ。“エンマハのハルエラ”は、この戦場にいるのだから。
「まって、待って――」
それでも、幾つかの疑問は残る。ブルガーの街は、もともとは“カリハ大盾白衣傭兵団”と契約を締結している。「他の傭兵団の縄張りは不可侵」が傭兵ギルドの不文律である以上、この場に“廃業傭兵年金機構”のハルエラがいるのはおかしい。
「話は後だ、シロット、」
スリングショットを首にぶら下げると、青年は、シロットと“オリヴィエ”とを交互に見つめた。
「カリハの奴ら、オレたちに“ハルエラ”を仕掛けるつもりらしい」
「でも、どうすんのよ――」
シロットが言い終わる前に、外で変化が起きた。“繭”の一か所に亀裂が走ったかと思えば、白い触手が一直線に伸びて、自らを吊り下げていた戦闘機を一台、呑み込んだのだ。
「あっ?!」
「揮発油だ。」
青年が舌打ちした。
「ハルエラ、揮発油に反応してる。まずいぞ、カリハの陣営に落ちる……!」
ハルエラが無造作に触手を伸ばし、一台の戦闘機を捕食したために、ほかの三台の戦闘機もバランスを崩し、蜘蛛の巣のように絡まり合いながら、螺旋を描いて落下を始めていた。ハルエラの“繭”がカリハの陣営に着地する瞬間、シロットは、“繭”の底が割れて、無数の触手がカリハの本陣になだれ込むのを目撃した。
地鳴りと共に、カリハの本陣のあったところが、土煙に覆われる。土煙は舞い上がり、高波のようになって、シロットたちの立て籠もる廃墟まで殺到した。
(どいつもこいつも……)
心の中で毒づきながら、シロットは土埃をやり過ごすためにかがんで、息を殺した。青年の話が本当ならば、ハルエラは、カリハの本陣にある火薬や傭兵たちを舐め取って、間もなく孵化することだろう。
ただしハルエラは、“繭”になってから孵化するまでの間に、カリハの手によって移動させられていたとは考えないはずだ。たとえハルエラがその事実に気付いたとしても、カリハの思惑が「廃墟に立て籠もる青年とシロットとをあぶり出す」ことにあると気付く可能性は低い。
となれば、この廃墟の中で息を殺し、気配を隠していれば、ハルエラが別のところへ向かう可能性は高い。幸い、カリハの本陣は今の騒動で壊滅している。オリヴィエの目が覚めさえすれば、ここを離れることができる――。
――シロットがそこまで考えた矢先、外から悲鳴が上がった。それは女性の悲鳴であったが、立ち込める土埃をかき混ぜるほどに大きく、けたたましい悲鳴だった。
シロットの全身から、冷や汗が吹き上がる。聞き間違いでなければ、今の悲鳴はカリハの本陣、すなわち、“エンマハのハルエラ”が着陸したところから聞こえてきた。
廃墟の向こう側で、何かが起きている。
(逃げないと――)
「――動くな」
そう思い立った矢先、シロットの首筋に、硬いものがあてがわれた。