第12話:白衣の傭兵団(Kalihax Bersa Bessaus)
初めにオリヴィエが知覚したのは、静寂だった。
(今のは……?!)
身じろぎをせずに、オリヴィエは周辺の様子に神経を張り巡らせる。額からこぼれ落ちた汗が、オリヴィエの右手に当たって、皮膚に染みていく。
オリヴィエは、次第に今の状況を思い出していく。より正確に言えば、オリヴィエは自らを現在に位置付け直した、と言った方が良いのかもしれない。白昼夢を見た後のオリヴィエは、いつもこの調子だった。夢から覚めてすぐの間、オリヴィエはこれまでの状況を見失ってしまうだけでなく、ともすれば、自分が誰なのかさえ分からなくなるときがあった。
(夢だったんだ)
顔を上げ、周辺を見回しながら、オリヴィエは自分に言い聞かせる。オリヴィエは今、半壊した民家の中で、寝そべった状態にいる。外からの陽射しが、ひしゃげた窓枠の金属に反射して、室内にまだら模様を作り出していた。
ここは、別荘ではない。バンドリカの王国でもない。何より、今のオリヴィエは――
(そうだ……うっ?!)
“現在”にまでオリヴィエの思考が追い付こうとした矢先、オリヴィエの身体の下で、何かがうごめいた。その正体を確かめる間もなく、オリヴィエの唇が、うごめいていた何者かによって塞がれる。
相手は、自分の唇を使って、オリヴィエの唇を塞いでいた。桃色の髪を二房に束ねた少女が、オリヴィエの身体の下で目を閉じ、オリヴィエの唇を吸っている。シロットだ。
「シロット、」
頭をのけ反らせると、オリヴィエはシロットの接吻を回避する。オリヴィエの頭の中で、これまでの記憶が鮮明になってくる。
“ガラスの森”を“国を追われた王女”であるオリヴィエと、“破門された僧兵”であるシロットが抜け出してから、一か月が経とうとしていた。入手した二輪車を操りながら、二人は大陸の東にある、“死せる神の塔”を目指していた。伝説の賢者・マースに会うためである。
その中継地点として、オリヴィエとシロットは、大陸の中西部にある自由都市・ブルガーを目指していた……はずだった。
しかし、予定していた旅程をこなしても、ブルガーの街は、二人の前に姿を現さなかった。仕方なく二人はバイクを停め、今後の旅程を練り直していたところなのだ。
「シロット、ちょっと……うぶっ」
「オリヴィエちゃん、」
オリヴィエの頬を両手で挟むと、シロットはふくれっ面をしてみせる。シロットが身をよじるたびに、シロットの鼓動と体温とが、オリヴィエの身体に近付いたり、遠ざかったりする。
二人の身に着けていたものは、建物の壁際にたくだまっている。一糸まとわぬ姿で、二人は“睦み合い”を交わしている最中だった。
「今、別のこと考えてたでしょ?」
「私は――」
「ダメよ。真剣にやんなきゃ。いい? あたしだけを見て、オリヴィエちゃん――」
そう言うと、シロットはオリヴィエの頭を両腕で抱え込み、再びオリヴィエの唇を奪った。
オリヴィエは仕方なく、シロットの背中に腕を回す。シロットの背中に彫られている刺青を、オリヴィエは指でなぞる。果物から果汁が滴るさまを連想しながら、オリヴィエはシロットの身体を強く抱きしめる。喉の奥から、シロットの喘ぐ声が聞こえてきた。普段の様子からは想像もつかないほど、“睦み合い”の時のシロットはおとなしい。
目を閉じ、オリヴィエはシロットの汗の匂いを嗅ぐ。その時、オリヴィエの耳に、石が弾ける音と、土埃の舞い上がる音が飛び込んできた。
(この音は――)
身を起こすと、オリヴィエは音のした方角を見やる。廃墟の壁の向こう側には、木立が広がっている。景色に変化はなかったが、何かがこちらへ向かってきていることを、オリヴィエは直感した。
「ほら!」
シロットが声を上げた。
「またヨソ見してるんだから……!」
「シロット、誰か来る――」
オリヴィエが言い終わらないうちに、シロットは腕を伸ばすと、オリヴィエの乳房を扱こうとする。身をよじってそれをかわすと、オリヴィエはシロットから離れようとした。
「シロット、聞いてる?」
「誰か来るんでしょ? 知ってるわよ」
ぶっきらぼうなシロットの言い方に、オリヴィエは拍子抜けしそうになる。
「だったら早く――」
「いいじゃん。せっかちだなァ」
シロットの眉間に、しわが寄った。
「なんなら、見せつけてやれば……あっ?!」
「あなた、それで失敗したんでしょう、シロット」
シロットから身体を離すと、オリヴィエは自分の服に手を伸ばす。
「もう、オリヴィエちゃんったら……」
鼻を鳴らしつつ、シロットも支度に取り掛かる。
「誰だか知らないけど、あたしとオリヴィエちゃんの仲を引き裂こうってんなら、容赦しないわ」
「軽口叩いてる場合じゃ……ちょっと、それ私のパンツ!」
自分の下着を穿こうとしていたシロットから、オリヴィエは下着を奪い取った。
音は着実に、二人のところまで近づいてくる。今はその音が、誰かが息を切らせながら、こちらへ走ってくる音だということが、二人にも分かった。
◇◇◇
「ハァ、ハァ……」
荷物をまとめ、茂みに身を潜めたオリヴィエとシロットの前に、男が三人、姿を現した。男は皆、鎚矛と銃とをベルトにぶら下げており、白い、染める手間を惜しんだような、野暮ったい外套を身にまとっていた。
男の一人は、二人に対して背を向けている。白い外套には、盾の紋章が描かれていた。
「あの外套……」
「カリハ大盾白衣――」
シロットの言葉を受け、オリヴィエが言った。
カリハ大盾白衣――大陸に生きる者で、その名を知らない者はいないだろう。大陸にある三大傭兵ギルドの一画であり、大陸の盟主を名乗る、ジルファネラス帝国お抱えの傭兵団である。カリハの団長は、慣例として帝国の皇位継承者が務めることとなっており、事実上の帝国の軍隊として、各国に影響を及ぼすほどの力を有している。
「どうしてこんなところに……」
「ブルガーは、カリハと傭兵契約を締結しているわ」
シロットの隣で、オリヴィエが咳をしながら答えた。
「ここに傭兵がいるってことは、やっぱりブルガーの街もこの辺りにあるのよ」
「なるほどね……」
オリヴィエの話を聞きながら、シロットは男たちに目を凝らした。男たちの外套のあちこちには、赤黒いシミが付いている。シミの付き方からして、固まった血のりに違いない。
「どうなってんだよ?!」
口元を腕で拭いながら、坊主頭の男が、ほかの二人に向かって叫んだ。
「『ちょろい仕事』のはずだったんじゃないのかよ?! 何だ、あのバケモノは……」
「分かんねえ。分かんねえが、異常事態なのは確かだ」
もう一人、赤髪の男が、そう言った。
「で、これからどうする? 上官に報告するか?」
「また戻るってのか?」
赤髪の男に、坊主頭の男が目をむいた。
「死にに行くようなもんだぞ? 第一、ほかの奴らが生きてるとも思えない」
「脱走するってか? 捕まったら死刑だぞ?!」
「バケモノに殺されるよりはマシだ――」
「おい、ちょっと待て」
もう一人の大男が、不意に声を上げた。シロットは、その声が自分たちに向けられたものであることを、すぐに察知した。
「どうした?」
「そこに、誰かいるな?」
「何だって?!」
「クソっ――」
坊主頭の男が、すかさず鎚矛を握り締める。
「おい、やるぞ。俺たちには後がねえんだ」
「さあて、どうしますか……」
にじり寄って来る男たちを眺めながら、シロットはオリヴィエに尋ねた。
とは言うものの、シロットの心は既に決まっていた。相手は三人で、こちらは二人。人数では不利だが、男たちは三人とも、そこまで強そうには見えない。
鉄鎚を取り出すと、シロットはオリヴィエを見る。
「……オリヴィエちゃん?」
ここに来てシロットは、オリヴィエの様子がおかしいことに気付いた。オリヴィエは口元に手を当てたまま、眉間にしわを寄せ、地面の一点をじっと見つめている。
「あらー、孕んじゃいましたか、オリヴィエさん。 “つわり”ってヤツですね。ハハハ――」
オリヴィエは気が散っていて、自分の声に気付かなかったのだ。――そう思って軽口を叩いたシロットだったが、オリヴィエの額から流れ出た脂汗が、地面に吸い込まれていく合間に、そうした気持ちは全て吹き飛んでしまった。
オリヴィエは、シロットの声を聞き逃したのではない。聞いていて、しかし動けないのだ。
「どうしたの……?!」
ぎこちなく肩で息をするオリヴィエを見て、シロットは焦った。オリヴィエの身体に触れようとし、シロットは慌てて手を引っ込める。――空気から伝わってくるほどに、オリヴィエの身体は熱を発していた。
これまで、どんな時にでも飄然としていたオリヴィエが、今は全く動けないでいる。
「ガマンしてて……」
「そうだ、やっぱりだ!」
シロットの言葉をかき消すようにして、坊主頭の男が叫んだ。
「茂みに何かいるぞ! いいか、三人がかりだ!」
(ヤバいな……!)
オリヴィエを寝そべらせると、シロットは再度、ドミニを逆手に構える。多少の危険はあるが、男たちが飛び込んでくるよりも前に、シロットは出るつもりだった。さもなければ、男たちはオリヴィエを標的にしてしまいかねない。
神経を張りつめさせ、シロットは茂みの外に注意を向ける。男たちは、互いに目配せをしているようだった。三人の男の呼吸が噛み合う直前、それがシロットのねらい目――。
その時だった。男たちの背後で、木立が盛り上がった。
(……はい?)
男たちが迫っているにもかかわらず、シロットはその光景に釘付けになる。木立は海のように盛り上がり、ついさっきまで“地面”だったところが、今はせりあがって“岩肌”のように屹立している。それから、両足を巨人に捕まれて、宙に放り出されたかのような震動が、シロットのところまで伝わって来た。
「う……?!」
赤髪の男が叫んだ。おそらく、「嘘だ」と叫びたかったに違いない。叫び声が唐突に止んだのは、“岩肌”を突き破って現れた白い軟体が、一瞬にして男を呑み込んでしまったからだ。
「ちょっ、タンマ、タンマ!」
オリヴィエを肩に担ぐと(オリヴィエの身体を「熱い」と言っている場合ではなかった)、シロットは反対方向へ飛び出した。ほかの二人の男たちの悲鳴も、たちどころに聞こえなくなる。シロットの視界の端を、白くて太い触手が横切ったかと思えば、イチジクの灌木を地面から根こそぎにして、さらっていってしまった。
シロットも、状況が呑み込めてくる。男たちが話していた“バケモノ”とは、この白い軟体のことだろう。
“バケモノ”は、明らかにシロットたち目掛けて触手を伸ばしつつ、地面を地盤ごとかき混ぜながら迫ってきている。シロットが少しでもたたらを踏んだり、進みあぐねたりしようものなら、“バケモノ”は触手を伸ばして、あっという間に二人を呑み込んでしまうだろう。
その時だった。シロットの肩の上で、オリヴィエが身をよじった。
「オリヴィエちゃん――」
「ば、バイク……!」
後でいいでしょ、バイクなんて! ――と、シロットは本当は言いたかった。それが言えないのは、少しでも余計な言葉を口にしたら、シロットはそのまま吐いてしまいそうだったからだ。
シロットの背中は、刺青で埋め尽くされている。この刺青のお蔭で、シロットは瞬発力と怪力を発揮することができる。反面、シロットは皮膚呼吸のできる体表面が少ない。短期の近接戦闘では無類の強さを誇るシロットでも、持久力を求められる運動は大の苦手だった。既にシロットは、自分の体温が高まったまま、熱が外に出ない感覚を味わっていた。熱中症に近い症状が現れるのも、時間の問題だった。
そんなシロットの事情などはお構いなしに、オリヴィエはなおも身をよじる。
「ば、バイク……あっ!」
オリヴィエが声を上げた。振り向くと、シロットはオリヴィエの視線の先を追う。“バケモノ”の触手の一本が、茂みの中を動き回り、バイクをつまみ上げた。次の瞬間、触手の先端が花弁のように開くと、バイクを呑み込んでしまった。
「私のバイク!」
オリヴィエが叫んだ。その叫び声は、これまでにシロットが耳にした、どんなオリヴィエの声よりも大きかった。それからオリヴィエは、あろうことか、シロットの肩の上で立ち上がろうとし始める。
「嘘でしょ? ……うえっ?!」
「私のバイクが――!」
シロットを踏み台にして、オリヴィエはシロットの腕を抜け出した。つい先ほどまで、具合が悪そうだったのが嘘のようである。目の前で非道なことが行われたのを主張するように、オリヴィエは“バケモノ”を指さすと、シロットに目を向ける。だが、体力の限界だったシロットは、地面に手をつくことができただけだった。
迫りくる“バケモノ”が、触手を地面に差し込む。地面に亀裂が走り、大きな塊となって、波のように二人に迫って来る。
「私のバイク……!」
何とかオリヴィエを捕まえようとしたシロットだったが、降り注ぐ土の塊や、大きな岩に遮られる。
とうとう、オリヴィエの姿が見えなくなった。オリヴィエのことを諦め、シロットは地面にできた小さな穴に身を滑らせる。
降り注ぐ瓦礫に気を取られたためか、“バケモノ”は、シロットを見失ったようだった。巨体を大きく震わせながら、バケモノはシロットの真上を通り過ぎる。穴の中で、シロットは目をつぶり、慎重に息を吐きながら耳を澄ませる。震動は少しずつ小さくなっていき、辺り一面は静寂に包まれる。
「ハァ、ハァ……」
穴を半分塞ぎかけていた、一枚の平たい岩を押しのけると、シロットは立ち上がった。周辺は、まるで竜巻になぎ倒されたかのように、瓦礫が散乱していた。
――私のバイク!
息を整えていたシロットの脳裏に、先ほどのオリヴィエの影像がよぎる。
(戦犯っスねえ、オリヴィエさん……)
心の中で軽口を叩きつつも、冷静になるために、シロットは深呼吸を繰り返した。身体の熱が収まって来るにつれ、シロットも今後の見通しが立ってくる。
体調が心配だが、バイクであれほど態度が変わるのであれば、オリヴィエのことは心配いらないだろう。
すると問題は、どのようにして、再びオリヴィエと合流するのか、ということだけだ。白い“バケモノ”から逃げながら、オリヴィエに合流しなくてはならない。
「ようし……」
「――う、動くな」
動き出そうとしたシロットの背後から、声がかけられたのは、そのときだった。