第10話:初夏にして早朝(Las Summer Elle il'a Morgana)
外から吹き寄せる初夏の風を感じ、少年は目を覚ました。
(ここは……)
ベッドから身を起こすと、少年は周囲を見回してみる。手首まで埋まってしまうほどの柔らかい布団、色褪せたタペストリー、小さな文机の上に乗っている、梟を模した銅の文鎮――いずれも皆、少年にとってはなじみ深いものだった。
ここは、バンドリカの王家が所有する離宮である。“離宮”と言えば大層な言い方であるが、実際には別荘と呼んだ方が良いくらいの、小さな建物である。
この一帯は、バンドリカの王家にとって重要な場所だった。バンドリカの王国が建国される前、“世界の冬”と呼ばれる大戦争により文明が崩壊する前の景観が、この一帯では保存されている。この建物も、“世界の冬”以前に建造されていた建物から、利用可能な部分を持ち出して造り替えられたものだった。
立ち上がると、少年は灰色のカーテンを開けて、窓の向こうを眺める。別荘は、小高い丘の上に、ぽつんと建っている。周囲は開けており、少年は二階から、遠くまで見わたすことができた。丘の下には、砂浜がある。砂の合間で控え目に咲く草花は、潮風に撫でられ、それとなく騒いでいた。海は、それらの向こう側で、海岸線を洗っている。
雲間から漏れ出した陽射しに、少年は顔をしかめる。太陽の位置からして、日が空けて間もないようだった。上空の風は強く、もうじき雲は薙ぎ払われ、青空が広がるようになるだろう、と少年は予感した。
(何か……)
寝間着から着替えながら、少年は心の中で呟いた。少年がこの別荘にいるのは、姉の提案によるものだった。あと半月もしないうちに、少年は帝国に留学することになる。“留学”と言えば聞こえは良いが、早い話、少年は人質に取られるのだ。
留学してしまえば、少年は当面の間、母国に帰ることができなくなる。――そんな少年との別れを惜しんで、少年の姉が、残り時間を別荘で過ごすことを、父王に提案したのだ。
(何か……忘れている気がする)
寝ぐせのついた髪の毛を手櫛で梳かしながら、少年は手すりを伝いつつ、二階から一階へと降りる。小さな食堂までやってきた少年は、卓上にある陶器の一輪挿しに、ひなげしの花が挿されていることに気付いた。姉が、少年より早く起きて、この花を挿したのだろう。ひなげしの花は、母が好きだった花だ。
(母さん……)
少年は、母に思いを馳せる。半年ほど前に、少年の母は病気で亡くなっていた。その死は、長くはかからなかった。母の死は少年にとって悲痛だったが、少年を特に驚かせたのが、少年以上に、姉が傷ついているということだった。弟と二人きりで別荘に留まろうとするなど、いつものしっかり者の姉の様子からは、少年はとうてい考えることができなかった。
少年は、母の死に気持ちの整理がついていない。その一方で、留学の間に、時間が解決してくれるものだと、少年は心のどこかで冷静に考えていた。人間の感傷が長続きするものではないということを、少年は既に理解していたからだ。しかし、姉はどうか? ――そう考えると、少年はますます頭の中の全て、自分のこれからの人生の全てが、無際限に散らかっていってしまうような気分になるのだった。
食卓まで近づいた少年は、一枚の置き手紙が残されていることに気付いた。
――先に行ってるね。 姉より
書き置きをしばらくにらんでいた少年は、ここでようやく全てを思い出した。
「し、しまった!」
昨日の夜、眠りに就く直前に、少年は姉と一つの約束を交わしていた。それは、この夜の雨が、明日の朝になって晴れたら、虹を見るために岬まで行こう……というものだった。
姉の提案に、少年は二つ返事で「約束する」と答えたのだった。起き抜けでぼんやりしていたために、置き手紙を見るまで、少年は姉との約束をすっかり忘れ去っていたのだ。
「起こしてくれたっていいのに……!」
姉に対するうらみ言を呟くと、少年は慌てて別荘を飛び出した。
既に雲は空から退散し、太陽が地上を照り付けていた。今日は暑くなりそうだった。