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月の雫“ルイシャ”と四燿星の男達  作者: 蒼水無月
第一章【第二部】
8/24

マルティネ家の“四燿星”と銀の娘 4

 コンコン、とノックをして名を言うと、中から短く返事が返ってきた。


 書斎に入ると、真正面の奥にはこの屋敷の主にしてマルティネ現領主、且つリュウの義父であるハッサンが椅子に座って書き物をしている。


 静かに入って無言のまま近づいたリュウは、脇にある小さなテーブルにコトリと盆を置きながら、一言。


「ひと休み」


 だが、ハッサンは顔を上げない。頷くことも何か返事をすることもなく、書類と睨めっこしている。


 なので、リュウはアンヌやあの四人に教えられたことを実行した。


「パパ」


 そうすれば


 ようやく、ハッサンは動かしていた手を止めリュウへとその視線を移してくる。


「ここまで、賑やかな声が聞こえてきていた。リュウが、作ったんだね?」


 皿に乗っているひと切れのパイを見遣りながら、ハッサンは小さくそう言った。それに、こくんと頷く。








 ティータイムが終わって少し時間が経った現在。「もうそろそろ大丈夫じゃないかしら」とアンヌに言われ、リュウはハッサンとクリフトフにパイとお茶を運んできていた。


 書斎には本棚という本棚が所狭しと並んでおり、大テーブルの上にはそれこそ書類やら書物やらが積み上げられている。外を飛び回るあの四人とは違い、ハッサンは一日の大半をここで過ごしていた。


 ハッサンはもの静かな男性であった。無駄口を叩くことはない。クリストフの性格は、間違いなくハッサン譲りのものだろう。


 だが、では堅苦しいのかといえばそうでもなかったりする。そういえば、「伯爵は面白ぇ人だぞ」といつかカイトが言っていた。


 外見は威厳がある。それは中身も同じだった。けれど、彼の内面はそれだけではない。


 リュウが彼に話しかける場合、先ほどのように「パパ」と言わなければ反応しないのが良い例だ。その理由はリュウ以外の全員が気付いている。


 ただ、リュウとしては突然できた家族に対し、やはり父母兄といった感覚は掴めないでいる。それでも、あの四人やアンヌにはこれでも大分懐いているほうだ。


 だが、ハッサンに対してはどこか緊張する節がある。それは、ハッサンの見た目云々というよりも、“父親”という存在に対する困惑が強いから。


 リュウの過去を訊いたハッサンは、そういう彼女の内心は理解している。けれどやはり、自分を前に緊張されるのは、些か――というより、かなり残念であり悔しい気持ちがあったりしていて。


 要するに、義娘バカなのだ。


 それこそリュウ並に判りにくいが、彼もリュウのことは気に入っているのである。今も、こうして手作りの菓子を持ってきてくれたという些細な事だけで、疲れが吹き飛ぶほど嬉しい。


「クリストフにも、持っていくのだろう?その後で良いから、またここに来なさい。渡すものがある」


 渡すもの?と首を傾げながら、リュウは一旦、カートを押して書斎を出て行った。













「これを」


 戻ってきたリュウが手渡されたのは、一冊の書物であった。パラパラとめくってみて、これがどういう類のものか思い至る。


「日記帳、か…?」


「そうだ」


茶色い背表紙に、縁どる様にして銀色の柄が描かれたシンプルなもの。


「何でも良い。好きなように使いなさい」


 この世界に来て彼らと出逢ってから、リュウはこの国の文字を教えて貰っていた。なにもしなくても喋ることはできたのに…と思いながら、それでも少しずつ教えて貰って基本的な文字はマスターしている。


 ハッサンがどういうつもりでこれを渡してきたのか判らなかったが、リュウは黙って受け取った。



 ふわっと窓から風が入ってきて、カーテンが揺れる。



 その時、リュウは日記帳を片手に抱えつつ、ふとある物が目に留まった。


 自然、足がその方向へ向く。


(・・・・・・・)


 写真だった。それも、一枚や二枚ではない。


 色々な写真立てや額縁に飾られた、沢山の写真達。


 そこには、マルティネ家の者達が映っていた。それこそ、幼少期から少年の頃、現在に近いものまで様々だ。8割以上は、あの四人のものであるらしい。


 窓辺の下、低い棚の上に、丁寧に大切に飾られていた。


 無意識のうちに、リュウはその内の一つを手にとって眺める。


 10歳前後の時期のものだろうか。頭や顔に泥や草をくっつけて、じゃれて遊んでいる四人がドアップに映っている。この頃から、今の関係は続いているようだと一目でわかった。


「リュウ」


 しばらく黙って様子を見ていたハッサンが、静かに呼びかける。


「なぜ、泣いているのかね」


「…?」


 ぽかん、と不思議そうに見返されて、ハッサンは内心で苦笑した。同時に、言いようのない哀しみも浮かび上がる。


 言われて気付いたリュウは、またしても、なぜ涙が出てくるのか全く分からず狼狽した。


「それらを見て、なにを感じなにを思ったのか、言ってみてごらん」


 やんわりと、なにかを促すようにハッサンは今度は別のことを言う。


 ハッサンを見、手元の写真を見、飾られた沢山の写真を見―――リュウは、今しがた寄こされた言葉をゆっくり反芻した。















「――――ここ、に……」


 どれほど時間が経ったか……ハッサンが辛抱強く待っていると、ぽつり、とそんな声が聞こえてきた。


 けれど、そう言ってからハっとしてようにリュウは意識して言葉を飲み込んだ。


 そうしてみて、無意識に紡ごうとしていた言葉の意味と己の気持ちの真髄を自覚する。


 途端、どうしようもない自己嫌悪が湧きあがり、また同時に五臓六腑がぎゅっと締めつけられる感覚を味わう。


 全てを無視して蓋をしようと悶々とするリュウの様子に、ハッサンは先より少し近づいて再び呼びかけた。


「言いなさい。黙っていては、私達はリュウのことを何もわかってやれないじゃないか」


 諭すようにそう言ってみるが、しかしリュウは頷くことも首を振ることもなく、黙っている。無表情の下に、全てを押し込んでいるようだ。


「いいかね、リュウ」


 ほんの僅かに語気を強くした。


「君は君なりの考えがあるということは、少しはわかっているつもりだ。だが、そうやってリュウがなにか我慢してしまうのは、我々にとって辛いことだということを、判って欲しい」


「――…なぜ」


「なぜ?簡単なことだ。私も妻も息子達も、なにより君の本音を知りたいと思っている。思ったこと、感じたこと、言いたいことを素直に言い合って互いの想いを共有したいんだよ」


 我慢、という言葉はこの屋敷には似合わない。


 リュウは眉を潜めた。それは、ハッサンにではなく自分自身に。


「…だが―――傲慢だ」


 自分の、この気持ちは。


「傲慢?結構じゃないか。人とは得てして傲慢なものだ。息子達なんか昔から傲慢の塊だよ」


 ここまで、ハッサンが饒舌に喋っているところをリュウは見たことがなかった。事実、普段はここまで長分を口にすることはない。














「あれ、クリストフ?そんなとこでなにやっ―――むぐぐ…」


「声が大きい、カール」


「(なんなんだよ…)…って、はれ?親父と、リュウ…?」














「―――…ここに、自分も映っていたらと、思った」


 ぼそりと、ごく小さな声でリュウは呟いた。それでも、反響の良い書斎にその声はくまなく響く。


「こんな世界を、自分は知らない。知らなかったから、それで良かった。だが、今は……とてつもなく、羨ましいと思ってしまう」


 喧嘩して泣いているような写真もあれど、全ては自分の人生にはなかった時間の数々。その記録。その証。


「皆は幸福で、自分が不幸だとは思わない。皆も、辛かったり苦しい過去があったと思うから」


 人様の過去をただ羨むのは、それこそ傲慢だとしか言いようがない。


「それでも…羨ましい、と思ってしまう」


 この世界に偶然飛ばされて、知らなかったことを知って、気付いて。


「……あまりにも、自分の今は今までの生き方と違う。だから、怖くなる」


 今の暮らしは、都合の良い夢なのではないかと。


「地獄に落ちる前に、更に絶望的になる様に仕向けられた夢だと言われたら納得できてしまう。それを思うのは、皆に失礼だとわかっている。だが…っ」


 あまりに奇跡的な現実が怖い。


 あまつさえ、自分もずっと昔から一緒に居てこの写真に映っていたらと望んでしまう、そんな自分が一番怖い。


「愚かな望みと判っているのに」


 最初からここに生まれていたかったと、羨むどころか悔しさまで感じてしまうなど、あってはならないのに。


「こんな…馬鹿みたいに薄汚れた気持ち、ドロドロした感情なんか知りたくなかった…っ」


 なにより、それを知られてどう思われるかが怖いのだ。












「「・・・・・・・・」」


「―――ったく、あの馬鹿は。ああいうことはオレ様に言え」


「カイト、いつの間にそんなとこ居たんだよ…」


「うるせぇ」



















「――リュウ。今、私がどんな気持ちかわかるかね」


 人生最大の自己嫌悪に沈んでいたリュウの耳に、変わらぬ静かな声が届いた。


「嬉しいよ。この上なくね。ここに居たかったと思ってくれるのは、私の大事な息子達をリュウが好きになってくれたということだろう?これほど嬉しいことはない」


「―――」


 俯き気味だったリュウの視界に、武骨で大きな、少し皺が目立つ手が入ってきた。


 そしてそれは、写真を無意識にぎゅぅっと抱きしめるように掴んでいた、リュウの手の上にゆっくり置かれる。


「私の息子達はね、金や名声や地位には無頓着だ。だが、大事な人間に対しては貪欲なのだよ。彼らの行動原理は、大事な人間には笑って暮らして欲しい…ただそれ一つ。そして、リュウもその中に入っている」


 この子はまだ、差し伸べられた手を取ることに怯えている―――ハッサンは、そう思いながら言い聞かせるように言葉を紡ぐ。


「望みなさい。残念ながら過去を変えることはできないが、君自身が傲慢だと言った想いを息子達は丸ごと受け止めるだろう。いやむしろ、君が何かを望むことを待っているくらいだ」


 家族の一員になると決めるのは、どれほどの勇気がいったことだろう。


 あそこで一つ頷くだけに、普通では考えられないほどに時間を要し、またリュウ自身にとっては精神を消耗することであったのだろうと思う。


「焦ることはない。悩むのも良いだろう。だが、できればいつまでも一人でいないで、私達にぶつけてきてくれると尚嬉しいよ」


 リュウは、ただじっとハッサンの言葉を訊いているだけだった。



* * *



 自分のためにしつらえられた自室に、リュウは戻ってきた。


 その手には、「もし見ていて辛くないのなら、持っていれば良い」と言われたさっきの写真がある。


 コトリ、と棚の上において、暫し眺める。


 もう、さっきのような渦巻く感情の波は薄れ、凪いだ気持ちで見ることができた。


 羨望の念が消え失せるわけではないが、今はただ、無邪気に笑っている幼き四人の姿が気持ちを落ち着かせてくれる。


「失態、だな」


 自嘲気味にそう呟いて、ずっと涙が流れていたせいで少々腫れぼったくなった目元に無意識に手をやる。


 それを冷ますかのように吹きこんできた風が、ひどく心地よかった。


 風に誘われるように、リュウは窓際へ寄るとテラスへ続く扉を開ける。


 欄干に足を掛け、誰もいない庭へと軽くスタっと飛び降りた。


 そのまま屋敷の敷地内を抜け、リュウはなんとなく気の向いた方角へと駆けて行った。



* * *



 夕焼けの赤い欠片の最後の一粒が山の彼方へ消えた。代わりに、少しずつ星々が瞬き始める中、リュウは急いで来た道を走っていた。


 なんとなく足が向いた先は一番近い小川の畔で、そこで顔を冷やした後にボーっとしていたら眠気が襲い、そのまま寝入ってしまったのである。


 ちょっと行って帰ってくるつもりだったから、目を覚まして辺りが暗くなっているのに気付いた時は、反射的に「ヤバい」と思った。


 ただ、なぜ「ヤバい」のか、その自覚はちょっと曖昧だった。








 ものの数分で屋敷の前に帰りつくが、いくつかの人影が門付近に見えた。


 それが自分が不在なためとリュウが思い至る前に、リュウをいち早く見つけた人物が物凄い勢いで怒鳴る。


「んの―――ド阿呆っ!!心配させんじゃねえ!!」


 カイトだった。いつかの夜、殴ってきた時と同じ形相。


「リュウ~良かったぁ~」


「どこへ行っていた」


「またアンヌのお小言だねぇ」


 カール、クリストフ、アルトゥールも傍に寄ってくる。


 リュウは、まさかこの四人が書斎でのやりとりを知っているとは露ほども思ってはいない。


 なんとなく近くの小川に行きたかったのだ、とだけ短く伝えると、何か言いたそうな表情をされたが最終的に追及はされなかった。


 はぁー、と溜息をついてガシガシと頭を掻くと、カイトは怒気は収めたものの、これだけは言わせてもらうと言わんばかりに一息に言い放つ。


「居ると思っている場所にリュウがいなかったら死ぬほど心配する人間がいることをいい加減自覚しろっ!」


 暗闇でも判る紺藍の双眸を、リュウは黙って見つめた。カイトの言葉を静かに胸中で反芻する。


 そうしていれば、ふと視界が更に暗くなった。


 そしてそう思った次の瞬間には、肩と頭に重みが加わる。


「勘弁しろよ。オレ様はまたてっきりお前ぇが―――」


 カイトの腕が真正面から肩に回され、ついでに頭には顎が乗っかっている。


 最後の言葉はよく聞こえなかった。


 この場合、自分はなにをどう言えば良いのだろうか…とリュウは悩んだ。


 そして結局、なにも言わずに時間が過ぎてタイミングを逃す。促されるままに、屋敷の中へと戻った。カイト達はカイト達で、リュウがなにも言わないことを気にしなかった。











 気づく、というのは思いの外難しい。


 気づいてしまえば、拍子抜けするほど容易いことだったと振り返られるが、しかしそれができない者にしてみれば簡単なことではなく。


 リュウも、まだ気付いていない―――否、気づくことを、過去の経験が邪魔をする。


 自分が、居たかったと望んだ同じ風景の中に、もう既にその身を置いているという、確かな現実に。


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