逢瀬
「あそこが、俺達の領地であるマルティネだ」
指し示された眼下に広がる風景を、流―――リュウは見つめた。
今は早春らしい。淡い若葉の緑と天空の霞みがかった蒼い空、それに、大地を潤している水が陽を受けて仄かに煌めく景色。
土草と水の香りが、風に乗って鼻腔を擽った。
同時に、リュウの見事な銀髪がさらさらと揺れる。
容姿も声音も中性的で、凛と整った顔立ちのリュウは、下手な男より余程美丈夫に見える。性別を教えたり昨夜のような恰好をしていなければ、どこぞの美少年だと思わせる姿だ。
つむじまで伸ばしたストレートな髪は、生粋の日本人というだけあって元々は瞳と同じく滑らかな黒髪であった。それが、異世界にトリップした副作用かなんなのか、銀髪に変わってしまったのである。
といっても、元々外見に頓着しないリュウにとってはさして大きな問題ではないが。
「疲れたか?だが、ここまでくればもうすぐだ」
「いや、疲れてないから気にするな」
クリストフの問いかけに、リュウは顔を眼下に向けたまま抑揚のあまりない口調でそう答えた。昨夜まで一応丁寧語で喋っていたのだが、堅苦しい!とカイトを中心に散々言われてタメ口になっていた。
確かに、慣れない土地で慣れない馬乗りというのは些か疲れたが、殊更口に出す程の疲労感でもない。それに、身体能力はそれなりに自負している。
今朝早くから、リュウを連れた一行は昨夜の町を出て、彼らの領地を目指して馬を走らせてきた。リュウはクリストフの馬に便乗している。
服装は昨日のままじゃ流石に無理があるといって、いつの間にか調達してきてくれた古着を着ていた。裾が長めのTシャツのような上着に、膝丈まであるルーズな半ズボンで、腰に細いベルトを巻き付けている。
「帰ったらアンヌの作った飯が待ってるからさっ、めちゃくちゃ美味ぇーから楽しみにしてろよ!」
「カールはさっきからそればっかりだねぇ。もっと他に言うこととかないの?」
ちなみに、アンヌというのは現領主の奥さん。クリストフの母親だという。
この四人の関係であるが、細かい事情云々をさておくとして、要するに昔馴染みとか幼馴染みということのようだ。
まずはクリストフ。領主の嫡子でつまりは次期領主となる立場。現在24歳と、四人の中では最年長。外見も中身も常に冷静という印象の、あまり感情の起伏が激しくない青年。口うるさく口出しするわけではないが、三人のまとめ役という感じである。
続けてカールはというと、なんとクリストフの義弟。訳ありで養子になっているという。リュウは一つ二つ年下かと思っていたが、これでも19歳と同年代だったりする。ただやはり、面立ちが年齢よりも幼く見えるのは否めず、くりっと大きな瞳が印象的な少年風情。
カイトはクリストフの従弟。21歳だというが、仕草やノリとしては腕白坊主をそのまま大人にしたような雰囲気がする。とはいえ、餓鬼っぽいかといえばそうでもなく、軽いノリに見えて実は道理を弁えている、気風の良い青年だ。笑い方が豪快。
アルトゥールは遠縁の親戚らしい。世渡りの上手そうな人懐っこい微笑を常に浮かべている、20歳の青年。とりあえず、カールの言動にツッコミを入れるのは彼の役目のようだ。若干、掴みどころのない雰囲気を纏っている気がしないでもない。
いずれにしても、要は結構な位の貴族(それも多分伯爵)ということになる。
とはいえ…
(あんまり、貴族っていう風情ではないよな…)
あくまでイメージしていた貴族のそれとは違う、という意味でだが。
とりあえず、それが彼らに対するリュウの印象であった。
「おーい、リュウ?緊張してんの?」
屋敷の前で固まっているリュウにカールが呼びかける。クリストフは屋敷の人間に事の次第を先に説明しておくと言って姿は見えないが、カイトもアルトゥールも立ち竦んでいるリュウを振りかえった。
流石は領主の屋敷、といったところか。規模がでかい。でかすぎる。まさか彼のベルサイユ宮殿とか、そこまでではないにしても、とりあえずでかい。
といっても、鼻の高い貴族然とした豪華絢爛で華美な外見ではなく、むしろアンティーク調の落ち着いた風情を醸し出す屋敷だった。思いの外、正門はそこまで重厚なものでもなかったが、玄関までの道のりが長い。
上空からみないことにはなんともいえないが、屋敷の建物の敷地より庭のほうが面積が大きいのではないだろうか。
ただ、三人は勘違いしているが、リュウは立ち竦んでいる理由は緊張のためでも、規模の大きさに驚いているからでもない。もっと、別の理由があった。
(………)
「大丈夫だからさ。領主もアンヌも気前良いし、そんなに緊張すんなって」
いつの間にか直ぐ目の前に来ていたカールが、何気なくひょいとリュウの手を握って中へ促す。
ところが、リュウはそれに反射的に手を僅かに硬直させた。
「あ…わり、触んの嫌だったか……?」
それに気付いたカールが眉をへにゃっと下げて見つめてくる。だが、当のリュウはそこで初めて、自分がそんな反応をしていることに気付いた。
「あ、いや、そうじゃなくてな…なんというか、慣れてないからさ」
嫌悪感を抱いたわけではない、と伝えると、カールは安心したような表情になる。
じゃ、行こうぜ!と言われてようやく足を動かし始めたリュウだが、内心では歩を進めることに躊躇があった。それも、決して緊張とか未知への恐れというわけではない。
それを表に出さないように歩いていれば、隣に居たカイトが突然、手を伸ばしてくる。
そしてまた、わしゃわしゃと髪を乱暴に撫でまわしてきた。
「楽にしてろ。悪いようにはしねえから」
そういう意味で躊躇っているのではない―――そう言いそうになって、しかしその言葉は全て飲み込んだ。
そうすると、胸内のモヤモヤが増幅したように感じたが、無視して意識を他に集中させたのであった。
ギギィ…と、扉が開く―――
* * *
客室らしき大きな部屋に通された。執事っぽい男性とクリストフが話しこんでいるのが見える。これも予想外だったが、屋敷の中にはあまり使用人らしき人間が見られない。
リュウは、案内された長椅子にカイトとアルトゥールに挟まれる格好で座っていた。
外見もそうだったが、この屋敷はなんとも慎ましやかな雰囲気を漂わせている。全体の色調も装飾も煌びやか過ぎず、いつまでいても心地良いと感じられるもの。
―――もし、この内心モヤモヤがなければ、素直にそれを感じることができただろうに。
表情を変えず内心でそんなことを思っていれば、初めて見る二人の人間が部屋に入ってきた。
「アンヌー、腹減ったーっ!」
この第一声は言わずもがな、カールである。案の定、後頭部をアルトゥールにはたかれている。
様子を察するに、十中八九、この男女二人がこの屋敷の主にして領主夫妻なのだろう。
やっぱり、この屋敷に風情によく似合う風情の、壮年の夫婦であった。
婦人がにこにこ笑いながら、リュウに目を向けてくる。
「貴方がリュウちゃんね?やだ、可愛いじゃない。逢えて嬉しいわぁ。ほんと、ウチの子たちは目が高いわねぇ」
…なんだか、とてつもなく上機嫌である。リュウは思わずポカンと婦人を見つめた。
そうしている間に、婦人はリュウに近づくなり手を握って立たせた。「ん…?」と思った次の瞬間には―――ぎゅっと抱きしめられていた。
抱きしめられている、ということ理解したのは優に数泊後。そして、自覚した途端にがちっと身体が硬直する。
それに気付いているのかいないのか、婦人はリュウの背中を柔らかくさすってくる。
「遠いところから、ようこそ。月並みな事しか言えないけれど、大変だったわねぇ」
遠いところ―――その一言で、婦人がリュウの異世界トリップのことを承知していることを知る。おそらく、クリストフが話しておいたのだろう。
婦人の肩越しに、領主にしてクリストフの父親が見えた。髭をたくわえ、一見すると厳つい威圧的な雰囲気の男性。こちらは婦人とは裏腹に、ただ黙ってじっとリュウを見つめていた。
それでも。歓迎しているかはさておき、少なからず彼が自分を邪険にしているわけではないことはわかった。
マルティネの領地を治めている領主。彼はハッサン=ホセ=マルティネと言い、これは予想通り、貴族の中でも伯爵の位を授かっている。その彼の奥さんである彼女は、アンヌ=ホセ=マルティネ。
クリストフが的確にわかりやすく状況説明をしておいてくれたお陰か、昨夜と繰り返す様な会話はなくスムーズに話が進んだ。やはり、異世界という概念自体はあるようだ。
少し昼を過ぎているが、カールが期待していた通りにアンヌがたんまり料理を作って置いたらしく、食堂に移動して五人は食事をすることになった。
既に食べ終わっているらしいハッサンとアンヌは、茶を飲みながらやはりその場に加わっている。
「作法なんて無視しちゃっていいから、沢山食べてね?お口に合うかわからないけれど」
テーブルに所狭しと並んでいる温かな料理の数々。既にがっついているカールやカイトの横で、リュウもそぅっと手を伸ばし、焼き立てのパンをちぎって一口、口に入れて咀嚼する。
まだ付き合いは二十四時間も経っていないが、リュウが生来的に表情がクールなのだと察している面々。
さり気なくそんなリュウの様子を盗み見てみれば―――ひと口、またひと口とゆっくり噛みしめるごとに、その表情がホワっと微かに笑むのがわかった。
そんな自分の表情の変化も、皆が自分を気にしていることも、リュウは知る由もない。
食後の茶の後、アンヌが「屋敷の中を案内してあげて」と四人に言付け、領主夫妻は奥へ引っ込んでいった。昨夜、屋敷に帰らねば結論づけられないことがある、とクリストフは言っていた。それはつまるところ、ハッサンとアンヌの意見次第、という意味だったのだろう。
夜にでも沙汰が来るか……頭の片隅でぼんやりそう思いながら、今、リュウは四人と一緒に広い庭に出ていた。
庭は本当に広い。どこかの宮殿のように噴水があったりするわけではないが、それこそ多種多様な草花や樹木が品良く植えられていた。
「アンヌの趣味でさー。観賞用だけじゃなくてなんか食べられるようなモンも沢山植えてあるんだぜ?」
「ああ、そういえばカールはよくあの木に登っては落ちてこっぴどく叱られてたっけねぇ」
「うわっ、んなこと言ったらアルトゥールだって滅茶苦茶に花摘みまくってアンヌに泣かれたことあるじゃん!」
とりあえず、この二人の掛け合いは四六時中収まることはないらしい。決して寡黙ではないが、クリストフやカイトがもの静かに見えてしまうほど、カールとアルトゥールは賑やかだ。
ただの庭園というより、菜園も兼ねた庭のようだ。野草の類も生えている。地球の植物と何がどういう風に異なるのか知らないが、少し見ただけでも様々な用途で楽しめるよう工夫されているのがなんとなく感じられた。
この屋敷だけでなく全体的に中性のヨーロッパという感じで、現代世界にあるようなコンクリートやらなんやらは一切見当たらない。
きょろきょろと、興味深そうに庭を眺めるリュウ。自分の表情がいつらしからぬほどに豊かなことにも、やはり気付いてはいなかった。
ふいに、目の前に陰が差す。
そうして目を瞬いて見れば、何かが自分に差し出されていた。
「……カイ、ト?」
「お、やぁっと名前呼んだな」
「?」
「ま、これくらいならアンヌも怒らねえだろう」
不思議な色合いの小さな花が一輪、いつの間にか手に握らされていた。
ただの青い花ではない。繊細な花弁のそれは、透き通るような―――そう、ちょうど青空が水面に映しだされたような色合いをしていて、光の当たり具合によってグラデーションにも見えた。
「お前ぇに似合う色だと思ってな」
言葉だけ訊けば、どこぞのナンパかと思しき口説き文句のように聞こえる。だが、カイトとしては微塵もそんなつもりはなく、言葉以上でも以下でもない。
そしてまた、リュウはリュウでそういうことに思い至るような人生を送ってこなかったので、ただ突然差し出されて疑問符ばかりという感じだ。
しつこいようだが、甘い雰囲気などこれっぽっちもない。
そして確かに、その花はリュウの髪色によく似合っていた。
(…こういう時、なんて応えればいいんだ……?)
それは至極簡単なことのようで、リュウには難しいことだった。一見すれば、リュウのクールなその表情はなんの感慨も浮かんでいない、酷く素っ気ない冷たい態度だと思われる様なもの。
だが、カイトは別に何か特別反応が欲しかったわけでもない。自分と花とを交互に見ながら、差し出した花をリュウが受け取ったという事実だけで満足したらしく。
また、笑いながらわしゃわしゃと頭を撫で回すのだった。
そのうち、カールと掛け合いをしていたアルトゥールが寄ってきて、どういう意味があるのか知れないが、のっしりと背中側からリュウにもたれ掛かりつつ、話しかけてきたり。
それにカールが過剰に反応してやはりまたぎゃんぎゃん突っかかり始め、リュウの手を引っ張り別の場所に案内しようとしたり。
クリストフは基本的に五月蠅く言わない性質らしいが、あまりに五月蠅くなると容赦なく件の二人に鉄拳を下したり。
リュウは自らあまり喋らない。だが、この男四人組はそんなことは全く気にしていないようだった。反応が薄くても表情が乏しくてもお構いなしで、とりあえずリュウを引っ張り回す。
この時、どんな気分だと訊かれたらリュウは答えられない。だが、少なくとも、嫌な感情は抱いていないのは確かで。
けれどやはり、戸惑いの方がなによりも大きかった。
そんな五人の様子を、ハッサンとアンヌは部屋の窓から静かに眺めていたらしい。
「いいわよね、ハッサン。さっき言った通りで」
「…そうだな」
沙汰が下されたのは、思いの外早かった。
夕暮れ時、再び客室に一同は集まる。
実は、今日ここに来るまでの半日の間で奴隷売買の内部情報は既にクリストフ達に伝えてあるので、第一のやるべき事は終わっている。
この世界のことについて、リュウはまだ知らないことが多すぎる。そのこともあって、奴隷売買の場に居たのは実は何かしらの情報を得るために敢えて捕まっていたのだった。
普通であれば、そんな危険なことをするなど馬鹿もいいところかもしれない。だが、リュウにとってそれは“普通”のことだった。
というわけで、今なにか言おうにも身の振り方など自分で決められるわけでもない。だから、リュウは静かに領主夫妻の言葉を待った。昨夜の「剣や闘いの腕を買った」「一緒に暮らして欲しい」というアルトゥールの言葉の真相も気になる。
ところが
アンヌが予想外すぎることを提案してきた。
「ねぇリュウちゃん。貴方、私達の家族にならない?」