諸刃の剣(もろはのつるぎ)
* * *
他の誰もが聞き取れなかった微かな声を聞きとったアルトゥールが、森の奥からキハルと共に意識のないリュウを連れ帰った後、村は一時の間騒然としていた。
アルトゥールの背におぶわれたリュウの怪我は深く、あろうことか脇腹を腹側から背中側にかけて貫通しており、既にかなりの量の血が流れ出た後で。
動かすのは危険と判断し、村の長の家に寝かせてからは、やれ薬だの手当てだの医者だのと小さな子供から年寄りまでもが休むことなく動いていた。
ドーラン子爵の身柄はクリストフとカイトが確保し、二人はその事後処理などに専念。なので、アルトゥールとカールが現場へと駆けつけた次第である。
なぜ四人がこうして動けたかと言うと、まずリュウが使わしたパオロによって何か事が起こったことを察したカイトが素早く動き、加えて村人何人かが這這の体で詳細を伝えに走ってきてくれたから。
ドーラン子爵というその名と、リュウが割って入っているという、その二つの情報だけで大体の事情を察せられるのは流石と言ったところだろう。
リュウは怪我のせいで高熱が出るばかりか、逆に身体は冷たく震えていて脈も不安定な状態が長く続いた。
助けを呼ぶキハルの元に辿りついたアルトゥールも、運ばれてきたリュウを見たカールも、そして後から駆けつけてきたクリストフとカイトも
リュウの状態を見た瞬間は、らしからぬ苦悶の表情を浮かべていたものだった。
村の中でも特に老年で、尚且つ怪我や病気の処置に長けているキハルの「婆ちゃん」曰く、怪我だけではなく精神的な何かも原因じゃないか…ということだった。
リュウはそのまま、言葉通りに三日三晩、昏々と眠り続けた―――
* * *
うっすらと目を開けたリュウは、しかし、暫くの間は指一本まともに動かせなかった。時間の感覚などとうに無いほど眠り続けていたのだから、当たり前である。
時間をかけて指先から解すことから始め、首と腕は緩慢ながらもようやく動かせるようになったリュウは、枕元のベッドサイドへと手を伸ばした。
「…………」
手にした真剣は、重く感じられた。それは、リュウが元いた世界からの唯一の所持品であり、長年使い続けてきた殺人剣。
鞘から少しだけ刀身を抜く。
自分の顔がはっきり映るくらい曇りのない刃だが、けれど、ここには大勢の人間の血が沁みついていることをリュウは知っている。
薄暗い中、刀身に映る自分と見つめ合っていたリュウは、腕が限界なのもあって鞘ごと真剣を元の場所へ戻した。
―――ここの家族になると決めた日から一度も触ってこなかったのは、無意識下の意識。
「―――――……また……」
また、元の自分に戻ってしまった―――
脱力して布団に沈みながら、リュウはぽつりと小さく呟いていた。
まさか、それに応える声が直ぐ傍から聞こえてくるとは露知らず。
「なぁにがだ、リュウ?」
「………カイト、か」
「おぅ」
ゆっくりと首を巡らせれば、本当に直ぐ近くにカイトはいた。さっきの一連も、見ていたのだろう。
いつも通りの、不敵な笑みを向けてカイトはリュウの髪を撫でる。
ドーラン子爵は、カイト達が然るべき処置をして然るべき場所へと送り届けたらしい。もちろんリュウは知らなかったが、ドーラン子爵は常日頃からの振る舞いが宜しくなかったらしく、庶民から貴族に至るまで様々な苦情が出ていたのだという。
子爵がマルティネに寄ったのは何やら物見遊山がてらと言ったところで、降り立ってみたのが偶々キハル達の村だったとか。
そして、どういう経緯であんな事態になったかというと、それはそれは下らない理由。
腹が減ったから食いものを寄こせと礼儀も弁えない態度でキハル達の家々に土足で踏み込み、なんとか村人達が対応しようとしているのに、やれ貧乏くさいだのなんだのと罵詈雑言の数々を吐き、挙句、勝手に傍若無人やった結果として服に少し土がついたのをキハル達のせいにした。
子爵は他の場所でも道理の弁えない素行をしてきて、権力や金にモノを言わせてとにかく自分のやりたい放題に振る舞ってきた。今回の件はその中の一つに過ぎない。
国としても他の領主としても再三忠告してきたというが、それでもあの有様だ。だから、『マルティネの四燿星』が取り締まったのだという。
…と、リュウはカイトの手を借りて喉を潤しながら、諸々の事情を静かに訊いた。
「……ああいうやり方で、良かったんだろうか」
「…あ?」
キハル達を救った礼を口にしようとした矢先、ふと、そんなことをリュウが言ってくるものだからカイトは若干出鼻をくじかれた。
リュウはといえば、何か考え込むように目を閉じたあと、天井を見つめながら再び口を開く。
「…元に、戻ってしまった。また、刃を握ってしまった」
「それのどこが悪い?アンヌだって、毎日包丁握ってる」
「……キハル達の声が聴こえて、走って、気付いたら小刀を手にしていた。子爵と対峙している時、自分は完全に……以前の感覚を、取り戻していた。今も、そう」
リュウはゆっくりと両手を顔の真上にかざす。
改めて実感した、自分の本性。
19年もの間、何かを傷つけるためだけに刃を振るい続けてきて、今更この身に沁みついた習性を取り去ることなどできないのだと。
久しぶりに刃を握って、その途端、身体の奥が疼くのがわかった。もう、自分は根本的にそういう人間なのだと、それで思い知った。
「自分に何ができるか、ずっと考えていた。だが、結局は、自分は刃を振るうことしか能がない。自分はこの場所で最初から異分子で、これからもずっと、異分子でしかない。皆と一緒には…なれない」
自分で言いながら、リュウは途方もない悔しさと苦しさ、そして悲しさが湧きあがるのを実感する。努めて平静であろうとするも、初めて自覚した感覚に戸惑ってもいた。
けれど
「おい、リュウ。そいつぁ聞き捨てならねぇな」
泥沼の思考にハマりかけたリュウを、カイトの声が止めた。
「だぁれが異分子だって?それはリュウが気づいていないからだ。いや、気づいて気づかねぇようにしてるだけだ」
「…気づく?何に…」
リュウは問い返すが、しかしカイトはまた別の事を言ってくる。
「ずっと気になってたが、お前ぇ、その真剣触ることずっと抑え込んでんだろ」
「……」
「そつは、いけねぇな。自分を無理矢理抑え込んでどうすんだ」
カイトが何を意図してこう言ってくるのか…リュウはただ、次の言葉を待つばかり。
「本当は剣を握りたくて、振りたくて身体がウズくんだろ?ん?」
「―――」
ズバっと核心を突かれる。
知らず知らず苦悶の色を浮かべるが、けれど次のカイトの言葉にリュウは再び首を傾げることになった。
「だったら、そうすりゃいい。遠慮なんぞすんな。んなモン、持ってたって無駄に疲れるだけだぞ?」
「……」
「あのな」
僅かに苦笑を滲ませつつも真顔で、カイトは更に言い募ってゆく。
「お前ぇの19年間のことを思えば、今のリュウが躊躇するのはなんとなくわかるぜ?だがな、言ったろ。オレ様は、リュウのその過去を否定はしない」
リュウは、リュウ自身を怖れている。
そのことを知っているカイトは、今この時、リュウが一体なにを葛藤しているのかなんとなくわかっていた。いや、確信に近いくらいに。
リュウが家族になった日からずっと、携えてきた真剣に触れようとしてこなかったのは、リュウなりに応えようとしてきたからだろう。家族に、と手を差し伸べた自分達に。
「裏切ることになるとでも思ってんのか?それを握ることが?んなこと、このオレ様が誰にも言わせない」
いくら過去を否定せず、その上その過去をも判った上で家族に望んだ…と言っても、リュウ自身はそう簡単に折り合いなどつけられない。それほどに、背負っている過去は重い。
けれど今回、緊急の事態に駆けつけたリュウは、身につけてきた本能を以って再び刃を手にした。
その時蘇った感覚と、この世界で過ごす中で知ってきたこと……その二つを、リュウは上手く処理しきれないのだ。
どちらかを手にするためには、もう一方を手放さなければいけないと、そう思っている。あまりに極端な境遇で育ってきたがために、それ以外の選択が思いつかない。
「あの夜も言ったが、リュウはもう平気だ。無闇に命を奪うことなんてしない。オレ様が断言してやる」
「……違う」
「うん?」
「…自分は、自分のために刃を振った。自分が、キハル達が傷つくのが嫌だったから、そうした」
「上等じゃねえか。よく人様のためって言うけどな、結局はみんな自分のために動くんだよ。人間、やること為すことぜぇんぶ、自分のためだ。リュウは間違っちゃいねえ。たとえ間違っても直しゃ良い」
ただな、とカイトは続ける。
「自分のやることが、最終的になんになるのか―――結果的にどういうことに繋げたいのかは、ちゃぁんと考えて自覚して理解してねぇとな。じゃなきゃ、ただの独りよがりな馬鹿になる」
「どういうことに、繋げたいのか…」
「そうだ」
そうしてカイトは、少し昔語りをする。
「リュウは知らねぇだろうが、オレ様達だって剣を振るうんだぜ?んでもって、何人もの人間を傷つけてきた。じゃねぇと、領民が安心して暮らせる土地なんぞ実現できなかったからな。オレ様がマルティネをそういう場所にしたくて、そのために剣を振るったんだよ」
綺麗ごとで生きられるほど、世の中は甘くない。
今でこそマルティネの治安は良いが、数年前までは夜盗や盗賊が頻繁に出没するような土地であった。それらを一掃し、尚且つ現在もそういう輩が出没しないのは、それなりに『マルティネの四燿星』が剣を閃かせ睨みを利かせた過去があるから。
剣を振るい、不逞の輩とはいえ少なからず誰かを傷つけたのは自分の望みのため。自分自身のため。
その結果として繋げたかったのは、マルティネの領民が安心して暮らせる未来。
「オレ様はな、リュウがあの場で刃振って大事な領民を守ってくれたのが、すげぇ嬉しいんだぞ?結果的に、リュウはあいつらを守ったんだ。んで、みんなお前ぇに感謝してる」
その意味がわかるか?とカイトはリュウの顔を覗き込む。
「刃ってのはな、ただ命を奪うだけのモンじゃねえんだ。なにかを、誰かを守るためのモンでもある。リュウは19年間、自分の命を刃を振るうことで守ってきたはずだ。そして今度は、お前ぇはキハル達の村を守った」
刃を振るうのは、何かを守るための力―――そういう風に考えたことのなかったリュウは、僅かに瞠目してカイトを見つめた。
「何ができるのか考えてた、っつったな。その言葉、待ってたぜ」
「…?」
ハテナマークを浮かべるリュウの髪を再びわしゃわしゃ撫でまわしながら、カイトはにやっと口端を上げている。
「リュウ、抑え込むんじゃねえ。お前ぇの19年間を無かったことにすんじゃねえよ。無駄なんかじゃねぇんだ」
今度は拳で軽く頭を小突かれる。
「リュウのその力、今度はオレ様の愛する大事なマルティネを守るために使ってくれると、嬉しいんだけどな?力ってのはな、紙一重なんだよ。過ぎればただの蹂躙、上手く使えば守護になる」
「守護…」
「ああ、考えんな考えんな。そういうモンじゃねえから。ただ、リュウはもう判ってんじゃねえのか?」
なにを、という眼差しでリュウはカイトを見る。
「キハル達の前に立ちはだかった時、特になぁんも考えてなかったろ?その上で、リュウはキハル達を守ったし、まぁ多少ダメージ与えたんだろが誰も殺さなかった。守りたいもの、守るべきものを、リュウはもうちゃんと判ってる。力の使い方もな」
「そう…なのか…?」
「そうそう。ま、お前ぇ自身がわからねぇならオレ様が判ってるし、わかるまでとことん付き合ってやるから安心しろや」
いつもながら軽い調子だが、カイトの言葉は深く深くリュウの心に沁み渡ってゆく。
全て、理解したわけでも納得したわけでもなく、まだリュウは自分をカイトの言うように見ることは出来ていない。
だが、最初に胸中にあった澱は、どうやらカイトによってどこかへ流されたようだ。
「ちぃっと、長話しすぎたな。ちょっくらアンヌ達呼んでくっから、待ってろよ?」
椅子に座っていたカイトは、そう言って立ち上がり扉の方へ足を向けた。
その途中、ふと足を止めて「そういえば」と切り出してくる。
「異分子だなんて言ってくれんなよ?そう思ってんのは、リュウだけだ。つか、んなこと言ってみろ。キハルに泣きながら怒鳴られるぜぇ?」
くくっと喉奥で笑ったカイトは、今度こそ部屋を出てゆく。
リュウは今迄のカイトの言葉を反芻しながら、目覚める前の最後の記憶の中で泣いていたキハルの顔を、ぼんやり思い出していた。