“牙狼” 再び……?
“牙狼”と呼ばれていた。
それは、自分を表す二つ名。異名。
あれは、まさしく狼のような集団―――馴れ合うことはせず、群れているのはただ同じ目的のため。そこに、ヒトの情など存在しない。
野生の獣の世界の掟――“殺らなければ殺られる”“弱肉強食”という本質をヒトの身で具現化した…
誰のためでもない、全ては己が生きるために、それを脅かすものを本能のままに排する存在。
悪意も善意もない、ただただ純粋な殺意。
常識ではありえない超一流の剣捌きも、身体能力も―――まさに“牙狼”。
ただの狼にも、ヒトにも成り切れぬ、ひどく中途半端な存在だった。
* * *
「ほんに、熱心に眺めよるなぁ。リュウちゃん、面白いんか?」
「――おもしろい、というのが何なのかわからないが…一本の糸が、こうして絡みあって、一枚の布になっていくのを見ているのは、落ち着く」
「やって!婆ちゃん、冥利に尽きるんちゃう?」
「ほうやなぁ。なんや、さっきからこないな熱ぅ目ぇ向けられて、穴が開きそうやねぇ」
「ふふふ」
「機織りだけじゃない。糸が染まっていくのも、キハル達が染めている姿も、ずっと見ていたい気分になる。川に晒された糸や布は、すごく綺麗だ。あの草から、あの花から、あんな綺麗な色に染まる。それを見ているのは、気持ちが良い」
「いややわぁ。なんや愛の告白受けとるみたいな気分になるで」
「ほんになぁ」
「色は、マルティネの大地とキハル達の汗の結晶。布の感触は、織った人の心。仕立てた服は、このマルティネそのもの―――“マルティネ”というのは、土地のことだけじゃなくて、キハル達自身のことなんだろうな」
「待って待って!リュウちゃん、今の言葉みんなに伝えるねん!紙に書くからもいちど言うてや!」
「?自分は何か言ったか?」
「あぁ~も~~っ!!」
* * *
瑞々しい草木が生い茂る山の頂きに、リュウはカイトの愛犬パオロと共にいた。
リュウがこの土地にやってきて、早くも一ヶ月ほどが経とうとしている。リュウが皆と出逢ったのは春半ば頃だったらしく、今では初夏の風情がマルティネを漂っていた。
リュウは、もう一人で出歩くことが多くなっている。今日の午前中も、屋敷に一番近いキハル達の村へ足を運んできた。
(みんな、今は何をしているんだろうな…)
カイトを筆頭にほぼ四六時中傍にいた四人とリュウが、こうして離れる時間を過ごすようになったのは自然な流れだった。誰がとやかく言ったわけではない。
元々野生的な勘の鋭いリュウは、この広大なマルティネの土地感覚をかなり早い段階で身につけており、一通り案内してもらった後は特に案内して貰わなくても平気なようになっていた。
だから、こうして一人でいることには何の問題もない。
気の向くままに方々に足を向け、そこの人々に顔を合わせ、その仕事ぶりを眺め、不器用ながらも言葉を交わす。そんなリュウを、領民達も自然に受け入れていて、カイト達も黙って見守っている。
そして、そのことをリュウ自身も自覚していた。
同時に、どこか物寂しさも覚えてもいた。
「――…自分は、なにができる…?」
それは、傍らに居るパオロに向けてか、それとも自分自身に向けたものか……その小さな呟きは、山風に乗って霧散してゆく。
そもそも、この自分が「物寂しい」という感情を抱くことすらリュウにとっては未知のことで、自分の抱く気持ちに少なからず困惑している。
それに、なぜそう思うのかの理由もやはり判らない。たとえ、その答えの片鱗をリュウ自身が既に呟いていても、だ。
少なくとも、最初のようにあの四人が傍についていない…ということへの寂しさではなかった。
そも、リュウは自分の傍に彼らがいることを当たり前だと思っているわけではない。
というより、根本的な問題として、何故彼らは自分に好意を向け構ってくるのか…ということに、未だに困惑しているのだから。
だから、そういう理由ではないことは明白。
とはいえ、何か虚無感にも似た気持ちを抱いているのも事実。
それは、まるでパズルのピースがあと一つだけ、なかなか見つからずハマらないかのようなもどかしさをも伴っていて
なにより、物凄く手持無沙汰な、ある種の違和感でもあり。
「――…やっぱり、自分はこの緑と青の世界にとって、異物なんだろうな」
眼下に見える、段々になった土地で陽に煌めく緑が田んぼというものだと教わった。周囲の山々と相まって、まさにマルティネは緑の世界と言える。そして、その間を潤す小川や清水の青のハーモニー。
そんな風景を見つめながら、またしても淡々とリュウは己を評した。
足元にいるパオロは、そんなリュウを見上げてクゥンと啼く。すりすりと、身体を擦り寄せてくるパオロを、リュウはやさしく撫でた。
そう
それこそが、今のリュウの正直な心の内であった。
周囲の人々は自分を受け入れてくれているが、だがそれは、自分自身で掴みとった位置ではない。
大地に足がついていない、そんな覚束無さは、リュウが人生初めて感じるものの一つとなっていたのだった。
* * *
「!」
その時――ぴく、っとリュウは反応した。それは、傍らのパオロも同じだったようだ。
一人と一匹、ほぼ同時に同じ方角へ顔を向ける。
パオロは遠くを見透かすように双眸を細め、鼻を利かせ、耳をピクっと動かして何かを聞きとろうとしていた。
身体の構造は人間であるからパオロのようにできないが、しかし、それをしているのはリュウも同様。
「………」
全神経を、自然、研ぎ澄ませていた。
「キハル……?」
そう呟くなり、リュウは一気に山の斜面を下へと駆け抜けた。
通常であれば優に30分はかかるだろう、ゴツゴツした岩と鬱蒼と茂る草木の間を難なく飛び越え、平地のように全力疾走。その後を、飼い犬とは思えぬほどの身のこなしでパオロがついてくる。
あっという間に麓へ降り立った。
休む間もなく更に加速して走る。
「パオロっ!」
リュウは鋭く言い放つ。
「カイト達の元へ行けっ!!」
リュウのひと声に応えるように、パオロは一つ鋭く啼くと別方向へと姿を消した。
それを視界の端で認めたリュウは、この地形の起伏が激しい中を一直線に駆けてゆく。
自分の内の、何かのスイッチが入る感覚がした。
* * *
「なんやねん、アンタら!!」
娘の声が響き渡る。彼女の背後では、怯えながらも必死に抵抗しようとしている他の娘達や、幼い子供達がいた。
「キ、キハル…」
「…大丈夫や。あたしがなんとかしたるわ」
そう言いながらも、そう言うことしかできない己の無力さに、キハルは内心で唇を噛みしめていた。
(マズイわ…今日は、アル達は忙しいねん。呼びに行くにしても、近くにはおらへんし…村の男衆は町へ行商の日。正直アカンわ……)
本当のところ、キハルもこの状況から逃げ出したくてたまらない。だが、自分がこうしてどうにかなるとも思えなかったが、それでもここで退いてもどうにもならない。
だから、キハルは目の前の男を睨みつける。
「ほぅ…この私にたてつくとは。なかなかそそる目をしてるな」
「触らんといてや、気持ち悪ぅて嫌やわ」
なかなかにお決まりの台詞を吐いてくる相手の手を、キハルは思いっきり振り払う。
「だいたい、なんやねん。元はといえばそっちが悪いんやろ。貴族様は謝ることもできへんの」
「謝る?誰が、一体何に?まさか、この私が薄汚い君達に…というわけではないだろう?私はドーラン。格式高い子爵なのだよ。是非、覚えておいてもらいたいものだね」
「……聞いたこともない名やわ」
皮肉たっぷりにキハルがそう言うも、ニヤニヤと笑う子爵だという男は高飛車な態度を崩さない。
アホや、とキハルはさっさとこの男に対する評価を結論づけた。
「やはり、田舎というのは薄汚く野暮でいけないね。気に障る匂いしかしない。香水や宝石の一つもありはしないのだから」
「――そう思うんやったら、さっさと出ていきや。ほな、お帰りはあっちやで」
「そうしたいのは山々なのだがね。だが、私はその前にやらなければならないことがある」
そう言うなり、子爵はスラリと腰の剣を抜いてキハルの目の前に突きつけてきた。
キハルの後ろにいる娘達や子供達が怯える。
「この私を侮辱した罪は重い」
「侮辱やて!?なんの言いがかりや!!」
「お気に入りの服が濡れた。君達の作る粗野なものとは訳が違う最高級品なのだよ?それを汚しただけで十分罪だろう」
「ふざけるのも大概にしいや!!」
まったく、お金持ちの感覚と言うのはわからない。わかりたくもない。到底、相入れないのだ。
はた迷惑な訪問者は子爵一人だけでなく、その部下数名でもあった。部下全員が、子爵と同類の人間。子爵の言動の全てを、正しいと信じて疑わない表情。
キハルが怒りに任せて内心で悪態をついている間に、子爵は剣を振り上げた。
このままでは確実に死ぬと判っていても、キハルは動かなかった。死にたくなどないが、持ち前の意地と責任感が振り立たせる。無謀だと、無意味だと判っていても、それ以外の行動が思いつかない。
(ああ…アル達は、こんなんとちゃうのになぁ…)
キハルに向かって剣が振り降ろされた。
娘達や子供達の泣き叫ぶ声が、痛いほどに響き渡った。
「――――…え……?」
さぁっと、風が一迅、吹き抜けた。
なぜか、辺りがシンと静まり返っているような心地に襲われる。
キハルは、予想した様な痛みや衝撃がこないことに驚きながらも、しかし目はバッチリ開いていたので一応は一連のことが見えていた。
だが――あまりにも予想外のことすぎて、脳が目で見たものを理解するのが大幅に遅れたのだ。
それに…耳元で、ガキィンという金属音が鳴り響いた余韻も残っている。
「……リ…リュ、ウ……ちゃん…?」
自分の目の前でサラサラとなびいている、見事なまでの銀髪をキハルは凝視する。
こんな髪の持ち主を、キハルは一人しか知らない。
「な、なんだ貴様はっ」
子爵の驚愕の声が聞こえた。
おそらく、キハルを一刀両断するつもりで渾身の力を込めて剣を振りおろしたのだろう。
だが、その振り下ろした剣は呆気なく受け止められていた。
その態勢のまま、子爵はいきなり目の前に現れた人物を見ている。その瞳に浮かぶ色は、驚愕だけでなく困惑も含まれていた。何に対する困惑かは、知れないが。
キハルは、目の前の――リュウの肩越しに見た。
リュウが左手で逆手に構えた小刀で、子爵の大剣をあっさり軽く受け止めている、その様を。
「――引け」
鋭く冷酷なひと声が響く。後ろにいるキハルも、村の他の者達も、それがいつも見ているリュウの声だと咄嗟に認識できなかった。
「お前に、キハル達を傷つける道理はどこにもない」
そう言って、リュウはスゥっとその双眸を細めて子爵を射抜いた。
対する子爵は、思わず背筋を凍らせる。目の前の人間を、危険だと脳内で信号が点滅するのを感じた。
まさしく、獰猛な狼のごとき眼光。
「は……っ、小僧も、この田舎の薄汚い人間と同類かい?」
子爵は意識して強気な言葉を投げかけるも、しかし、内心では冷や汗が大量に出ていた。及び腰になるのを懸命に堪えているのは、ひとえにリュウやキハル達を卑下するその心が為している、単なる意地に過ぎない。
子爵としては、一応は挑発したつもりだった。
だが、そんな言葉はこのリュウに通用しない。
「――何を言っているのかわからないが…」
そう言うリュウは、なにも力んでないように見えた。そして実際のところ、子爵の剣を受け止めているリュウは、まるで布切れでも持っているかのように軽い調子だ。
子爵はそのうち、顔を徐々に引き攣らせてゆく。
なんせ、自分がこれほど力を入れて剣を振り下げようとしているのに小娘がビクともしないばかりか、逆に引いてもう一度振るおうとしたくとも、まるで小刀に吸いつかれているかのように剣が動かないのだから。
のれんに腕倒し……どころか、剣に伝えている力が流されているかのような感覚。拮抗なんかしていない。一方的に加えている力が受け流されている。
「全て、撤回してもらう。キハル達に向けた言葉も、態度も」
あくまで、リュウはいつものように淡々としていた。
けれど、身の内に何かが燻っているような感覚をも味わう。
その感覚のままに、リュウはやはり、冷酷な声音で一気に言い放つ。
「ここの人達が懸命に生きているからこそ森も水も守られている。キハル達みんなが作った物はマルティネの大地が生みだしキハル達の血と汗が沁み込んだ宝物。それをそうやって粗末に扱う資格は―――誰にもない」
ビリビリッ
辺りの空気が震えた。痛いほどに真に迫る様な気配。
それは、そう言い放った刹那に更にすぅっと目を鋭く細め、狼の如く射抜くような瞳を子爵に向けているリュウから発せられていた。
語気は荒げず静かだが、だからこそ空気が凍てつく様に重い。
「…な……な………」
子爵は、完全に逃げ腰になっていた。
大剣と小刀。それだけ見れば圧倒的に大剣が優勢に見えるが、しかし現実は真逆の雰囲気で、まさしく、子爵は蛇に睨まれた蛙状態。
「引け。まだ懲りずにやるというなら容赦はしない。完膚なきまでに叩きのめすが、それでも良いのならかかって来い」
人が変わったようだ―――という言葉があるが
今のリュウは、まさしくその表現が似つかわしいほどに似つかわしい空気を纏っていた。
手にした小刀が、細められた瞳が……リュウの全てが、鋭い牙のようだった。
鋭い刃の切っ先によく似た端整な横顔は、狼の名に相応しい。
「く、くそ……っ」
悔しそうにそう言い捨てた子爵は、なんとか動く首を動かして背後の部下へ目を向けた。
それに心得たとばかりに部下の一人が動く。
だが、その部下が事に及ぶ前にリュウの左手が閃いた。
「ぐわぁ…っ!?」
次の瞬間には、その部下の腕に小刀が深々と突き刺さっていた。それは、今の今までリュウが子爵の大剣を受け止めていたもの。
リュウは、左手で小刀を投げる間際に入れ替えた、右手で大剣を握りしめ動きを封じている。
「リュウちゃんっ!!」
素手で刃を握りこんでいるリュウを見、キハルは思わず叫ぶ。
だが、その余韻が収まらぬうちにリュウの左足が閃いた。
どっと、地面にまた一人の部下が突っ伏する。よほど痛いのか、起き上がる気配がない。カラン、と一本の剣が地面に転がる。
だが…
「いやあっ!!リュウちゃん!!」
キハルが悲鳴を上げた。
リュウの右脇腹に、また一人の部下の剣が突き刺さっている。
してやったり、と子爵もその部下も一瞬ニヤリと口端をあげるが―――次の瞬間、ゾクリと顔を凍らせた。
「挟み撃ちか。少しは、考えたみたいだな」
相変わらず、リュウは淡々とした調子を崩していない。まるで、何事もなかったかのようだ。むしろ、痛みと言うものを感じているかも怪しい。
けれど、キハル達が作ったリュウの服にはジワジワと血が沁みており、脚を伝った血が地面に染みを作っていた。
右手は、今だに子爵の剣を封じたまま。
しかも、リュウは絶句している子爵から片時も目線を外していなかった。
「最後の忠告だ」
もはや怖れに身体を震わせている有様の子爵。言葉にならぬ声をも震わせ、脂汗を滴らせている。
「去れ。後はない。あと少しでも何かするなら―――叩き潰す」
すっと、リュウはここで初めて子爵の剣を解放した。
その途端、とうとう、子爵は青い顔をして尻餅をついてしまったのであった。