1945-2
思い出し得る限りの最新の記憶は、手術直前の景色だった。
少し離れて聞こえるのは良く知った二つの声、晴野が険しい顔を、やはり常と変わらない徳田に対して投げている。何を話しているのかまでは全く聞こえないが、晴野の気が荒れているのは分かる。然し徳田はクルリと身体を反転させ此方に歩く。其れを見届ける事は叶わず、近く、助手の女性が視界を支配する。「天井をぼんやり御覧になって下さい。麻酔を。」言うが数間、感覚はプスリと。間もなく視覚は奪われる。徳田の声と跫が近付いてくるような、そして聴覚も閉ざされた。
其れで私の持つ此の手術に関する記憶は終わりだ。あれからどれくらいの時間が経ったかも分からない。私は徳田に手術方法も何も訊いていなかった。もしかすると晴野は知っているのかもしれない、と思ったが今の私にとっては大して重要性の無いことで、其れよりも目の前の物の存在の方が何倍の驚異の事であった。自分に手足が生えている、などと。
――二
肩に軽く力を込めて腕を持ち上げてみる。其れ以上の事を試すのは何故だか妙に恐ろしく、勇気が出なかった。そうした緊張からだろうか、敷布に降りた指がヒクヒクと上下するのをどうすることも出来なかった。然しどうだろう、傍から見た私は自若として横たわっていた事ではないか。「輪太郎様、」という揺れた声を聞いても特に動ずることはなかった。
「お目覚めで……。」
「うん。」
顔を向けて軽く頷くと、晴野がほっと息を吐いたから思わず眉を顰める。そんなに重大な手術だったのだろうか。其れに気付いたらしい、寝台の横の椅子に腰を掛けて手を顎で組む。ギシリと鳴ったのが耳に附いた。
「否、事前に聞いていた刻を過ぎても全く動じなさらないので、徳田を絞め上げていたところであります。」
右手で空を握る動作で冗談めいているが、実際強く問い質しただろうことを想像して、先程掘り起こした記憶を重ねる。そういえば。
「手術前に、徳田と何を話していたんだ。」
晴野もまた徳田を苦手としている、というよりも嫌悪を抱いているのは知っているし、この二人の口論のようなものは見慣れていた。それ故にそんなに重い気持ちで訊いた訳じゃなかったが、晴野が一瞬目を見開いたのに気付き、咄嗟に「噫、別に答えなくても良い」と加えた。
「御手術についての説明を求めていました、が……何卒理解出来ない部分が多く……声を荒げてしまい、お恥ずかしい事です。」
晴野はそうして深い目瞬きをした。目線が下がる。
「継目が、見えませんね。」
「そうなんだ、どうにも本当の私の腕のように在る。」
言いながら今は無くなった腕の切れ目に触れる。妙は継目だけじゃない、新しく付いた手足は完全に私の其れとして、色も完全に同化し、産毛、毛穴までもが存在している。あの襲撃事件からが夢だったのか、はた、今この時に眠りを続けているのか。どちらにしろ、どちらでもないにしろ、この数刻の間に自然と手足を動かすようになっていた事は、少なくとも自分は生まれたときに手足を持っていたのだと示してくれている。何を信じればいいのか分からず片手を掲げてじっと見詰める。確かにあの日徳田は「義肢ではない」と言っていたが……。当然のように触覚もある。切ってみたなら私の血が出るのだろうか。
「どんな御気分ですか。」
幾分慎重に訊いてくる晴野を少し不思議に感じながらも、「そうだな」と少し考える。
「頗る良い気分、とは言えないな。奇妙さが勝ってしまう。……けれど、」
息を静かに吸い込んだところで扉が開いた。「検診です。」と女性。
晴野が続きを促してくるのを私は何となく受け入れなかった。「これで自分の足で立って自分の手で皆を守ることができる」とは何故か言えなくなったのだ。確かに思っているのだけれども……。
扉に向かう晴野の背を見ながら、私は靄が懸かったまま特異な興奮に揺らされていた。