1945-1
十五年続いたという戦争が終わった。私が十一歳の時のことだ。
実にくだらない争いだ、とずっと思ってはいたが玉音放送を聞いて最初に感じた物は紛れもない「安堵」であったから私は失望した。窓の外、ガラスと布で隔てた先には広漠なる青。吐き気のするその色に苛ついた幼い自分は、口うるさい世話係に聞こえないように小さく舌打ちをした。
――壱
八月十五日。
相も変わらず家の奴らがせわしなく走っていくのをする事のない私はぼうっと横目で見ていたが、それにも飽きた。ごろん、と横になる。この岳塚家は戦時中も何かと忙しかったが、こうして終戦を迎えてもそれは未だ変わらないみたいだ。
(私はどちらにしろ暇だけど。)
欠伸を一つして四肢の途絶えた身体で器用に寝返りを打った。四年も経てば不自由にだって慣れもする。伸ばす手足が無いことにだって違和感は大分は薄れた。
一九四一年は悪変の年だった。
近年からとは言え発展を遂げたこの町は、国の機能を一部担っていたこともあり、比較的平素を保っていた方だったと思う。ただピンと張った糸が常に緊張を孕んでいたのは確かだ。それが切れたのがその年だった、それだけと言えばそれだけなのではあるが。
私が産まれる数年前から人々には予感があったのだ。
「いつ大きなのが起こってもおかしくない」
口にする者こそ少ないが、並んで揺れる真赤な日輪の下で眉を曇らしていたのは多数だった。日米間の交渉が上手くいかないだろうことは民家の主にすら日を見るより明らかだったのだ。国も民も限界に近かった。そして後者の矛先は象徴の破壊へと向けられた。騒乱を起こすまでの気力は最早無く、勇気は元より無かったのだろう。
私の家はいつからか「死の象徴」と呼ばれるようになっていた。
祖父、岳塚稜之介が大学卒業後に友人と行ったドイツ留学で持ち帰った物は、鉄鋼技術だった。祖父には既にその需要が見えていたのだ。現地で出来た金鉱経営者の知り合いの後押しもあり、帰国してすぐに工場を作った。祖父の人柄とその友人の勤勉さからか、大資本家へのツテもあって出来たことだ。本場仕込みのその技術は次第に同業を飲み込んでいった。数年の後、弾頭工場などの中小勢力の吸収合併を繰り返して、今の工場とその区域内にある屋敷が出来た。祖父は、一代で有力な資本家にまで登りつめたのだ。
私の父がそれを引き継いでからは、更に力の領域を広げていった。父は如何にして岳塚家を大きくするか、ということを一番に考えていた。政府の援助を受けるようになり、事実上の国策会社になった頃にはもう随分大きな工場に膨らんでいった。
羨望、というよりかは畏怖のような、そんな視線を受け取っていたという当時は、私の欠片もまだ無かったが、祖父と共に工場を立ち上げた彼の友人、晴野文也の甥にして、今私の世話をしている晴野明夫から話を聞いていた。
父が五十になって出来た初めての子が、私だ。思い返してみても受けた愛情は随分大きく、それは孫のように可愛がられていたものだと思う。
そうして其れから七年経った一九四一年、太平洋戦争の開戦より半年ほど遡った頃、国が熾した火は岳塚家襲撃事件となって私達を襲った。父は全身に酷い火傷を負い、十時間以上呻き苦しんだ後に息を絶えたという。その姿はまるでこの世の全てを引き込んでいくような壮絶なものであった、とは後に明夫から聞いたことだ。そして家の専属医師の徳田が、運ばれてきた父を一見すると一向使用人に任せ、徳田自身は私の治療に専念したらしいということも。その甲斐あってか私はこうして四肢が途絶えながらも、殆どの部位を植皮して綺麗な状態で生きることが可能になっている。その事件で文也とその後継であった息子も死んだ。彼らは最後まで我が父を護ろうとしていた。その翌日、文也の甥であり
養子でもある明夫が「晴野」の名を正式に継ぎ、岳塚家使用人の監督及び当主の近侍を務めることになった。無論、その時点での当主とは私である。明夫はまだ二十歳であった。「弱冠が欠陥を支える」とは言われたもので、戦争と共にこの家も終わるかと思われたが、祖父が一から築いた信頼という土台は私の想像以上に確乎たるものだった。徳田率いる研究室による東西折衷の特殊技術も土台に積み重なっていくことになり、繁栄は亡くなったが勢力は維持できていた。私達は熟と運が良かったのだ。人々の束の間の歓喜と興奮は然し困窮を隠しきることはなく、特に最後の二年間は惨憺其の物であったのだから。
こうして訪れた終戦は私に何を感じさせるでもなく、唯々、袖を破った国民服の下、四肢の切れ目がピリリと痛むのだった。これから自分は如何なるのだろうか、如何すればいいのだろうか、悉く見当も付かない。岳塚家が如何なろうが、私は此処の全ての者への責任がある。守る両手が無かろうが頭を使うことが出来る限り考えなければならない。
「輪太郎様。」
開け放した扉から聞き慣れた声がしたので咄嗟に首を曲げる。
「晴野。」
「起きていらっしゃいましたか。」
言いながら私の身体を起こしに掛った晴野は何処となく緊張を含んだ面持で眼を細めた。
「こんな時分に転寝噛ませられる程暢気ではない。」
「それは失礼を。……研究に出ていた徳田が帰って参りました。」
「……見ないと思っていたら、また出ていたのか。」
「稜之介様が生前に行っていた研究を引き継いで、発展させようと試みているとのことです。」
「確か、私が生まれるより前に引き継いだのではなかったか。」
「稜之介様が亡くなって直ぐのことだったと思いますので、相当に前の事だと。私が幼い頃でした。」
「殊に大変な研究なのだな……。」
脳裏に浮かぶは何年経っても変わらない、痩せこけた無機質な笑み。徳田は当主の私よりも岳塚家の人間と言ってもいい程、この家をよく知りよく生かしている。然し彼の素性を詳しく知る者は此処に居ない。その昔、私の父と出先で知り合いその場で拾われた、という話は本人がしていたがそれ以外の事は何も言わず、また私は彼のことが苦手だという事もあってあまり訊ねてもいない為に、確かな事は何一つ知らない。「ドクター」と呼んでいたが外で呼ぶには何かと不便、ということで其れを捩って「徳田」とした、というのは父から聞いた話だ。
「それで。」
「輪太郎様にとっておきの土産話がある、と。」
其れを聞いて、何故だかゾゾと悪寒が走る。何を考えているのか分からないあの表情や口調が如何にも気味悪く、対面すると此方の全てが見透かされているようなそんな感じがする、屹度、其れは或る種の恐怖であった。
正面に膝をつく晴野と目が合うと、何も言わずとも「自分が聞いてきましょうか。」などと言ってくる此人は私に甘いと思う。
「呼んできてくれ。」
息を一つ吐いた瞬間、走る緊張。
「お久しぶりです、坊ちゃん。」
扉の先からゆらりと小さく視界に入るのは徳田に間違いなかった。記憶からは真白い彼しか引っ張りだせなかったが、今目の前では黒い外套を羽織っていて多少違和感を感じた。それ以外の見目は変わっていなかったが、自分が成長して見てみると改めて其の人物の妙が明に分かる。
「遅かったので、勝手に入ってしまいました。」
「ああ……無事か。」
徳田は頭を一度下げ、「坊ちゃんも、お変わりなく。」と薄い笑みを貼る。
「今回の報告を致したく思います。」
聞いた私は小さく眉を顰めた。今迄研究の報告などは受けたことはなく、其れというのも、医学の知識など皆無に等しい私は全てを彼ら研究員に任せているからだ。同じことを考えたのだろう晴野が身動きをするのを感じた。
「……が、その前に……坊ちゃん。」と口角だけで微笑んで、
「一つお訊ねしても宜しいですか。」
語尾の下がった質問に、子供の私は完全に圧されていた。小さく頷く。其れを見た徳田は満足そうに両目を細めて悠悠と口を開いた。
「手足を取り戻したくはありませんか。」
其の言葉に最初に反応したのは隣に立つ晴野だった。
「何を考えている。」と言って足を徳田の元に進めると、「私は坊ちゃんの意思を聞きたいだけですよ。」と徳田はしれりと返す。
否、然し。
「……私は、鉄は、厭だ。」
伏せた眼窩に上がるは岳塚潤一、私の父の姿。彼は鉄に溺れ鉄に焼かれたのだ。其れの御蔭で今をこうして過ごせているとは分かっているが、やはり鉄と生を共にするというのはあまり考えたくなかった。
然しそんな私を意に介さないかのように、徳田は首を横に振った。
「いいえ、義肢などではありません。貴方の四肢を、取り戻すのです。」
息を呑んだのは私も晴野も同時であった。先に反応を返したのは矢張り晴野だ。
「……どういうことだ。」
隣からの震える声にはっとして、漸く真面に徳田の目を見ながら、続けて口を開く。
「出来るのか。」
「西の科学に支那の植物学を学んで参り、此処の医学に取り入れたところ、如何にも可能なのです。」
目を見開いても其処に映る笑みは変わらず、如何するかなんぞは問われた所で。
「徳田。」
「はい。」
「……御前に任せる。」
恭しく下げられた頭の下で、徳田の笑みが歪みを増していたことなど、其の時は知らなかった。