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生きて痛い雨。

作者: 久紀 正臣




「いってらっしゃい」


そう、ぼくに微笑んだきみはもういないのだけれど。


世界は酷く残酷だと思う。両親の反対を押し切り、駆け落ちをして、大事なものを全て捨ててまで手に入れた。そんな、きみ以外はもう何も持っていないぼくから、きみまで奪い去っていくんだから。

狭いアパートを二人で借りて、やっとで見付けたバイトに明け暮れて、ここ2ヶ月はずっと「いってらっしゃい」「いってきます」程度の会話しか交わしていなかった。最も、ぼくに至っては「いってきます」すら返していなかった。それでもきみは、ぼくの返事が無いと知りながらも、「いってらっしゃい」と笑ってくれた。

なのに。

狭いアパートの一つしかない部屋の真ん中で、ユラユラと揺れる蛍光灯の紐を見つめる。ぼくはひとり。もう、きみはこの小さな部屋どころかどの世界にも存在しない。

死んでしまったから。

呆気なかった。

ぼくはきみの死に際すら見ていない。見たのは、既に器だけとなったきみだった。

「きみは、ばかだよ」

久々に出した声は、空気と共に掠れて消えた。きみは、ばかだよ。蛍光灯の紐を見据えたままゆっくりと瞼を落とす。そこには、屈託の無い満面の笑顔を浮かべるきみがいた。

――事故死、だった。



電話できみの死を知らされたとき、ぼくは呑気にも家で寝ていた。まどろむぼくの頭では、電話口の人間が喋っている言葉の意味が良く理解出来なかった。

ただ、理解出来たのは、きみが死んだということだけで。ただ、器だけのきみを見て、葬式をして。全てが終わり、きみが骨になったのも、この目でしっかりと見届けたはずなのに。

ぼくは、泣けなかった。泣けなかったんだ。

――あの日。きみが死んだ日。久々の休みで、ぼくは疲れた身体を休めるために寝ていた。だけど、何故かその日のきみはやたら上機嫌でぼくに優しくしてくれる。いつも構ってやれないのに。そんな自分が不甲斐なくてどうしようもなくて、結果きみに当たってしまった。

「出てけよ。きみがいたら苛々するんだ。結婚なんかしなければよかった」

思ってもない言葉を吐いた。きっときみは、泣いて狼狽するだろう。そう思ったのに。

「‥‥役立たずで、ごめんね」

きみは、そう笑ったから。

ぼくは、また新たな暴言をきみに吐いた。

「だいっきらいだ」

きみは何も言わずに出ていった。ぼくは、本当は起き上がって立ち上がってきみを呼び止めて抱きしめて謝りたかったんだ。だけど、頭の中では大丈夫、きみが帰ってきてからでも遅くないと思っていた。だってきみは、いつも笑ってぼくをゆるしてくれたから。

結果、きみは死んだ。



再び目を開ける。目に入ったのは蛍光灯の紐だけ。嗚呼。意味が無いんだ。きみがいないと意味が無いんだ。きみが死んで、沢山の保険金が下りることになった。それこそ、しばらくは働かなくても生きて行けるくらいの。

働かなくて良いんだ。もう朝も昼も夜もバイトをしなくていい、毎日寝て過ごせる、金も腐るほどある。でも。

きみだけが、いない。

いつも笑って、我が儘を聞いてくれて、何も出来ない何もしてやれないぼくに生きる意味を与えてくれたきみがいない。

ぼくは、自由と金を引き換えに、生きる意味を失った。ああ―――きみが死んだのに、何故ぼくは生きている?


「出てけよ」

嘘なんだ。

「きみがいたら苛々するんだ」

嘘なんだ。

「結婚なんかしなければよかった」

嘘なんだ。


「だいっきらいだ」

―――嘘なんだ!


目を開けると部屋が薄暗くなっていた。ぼくはいつの間にか寝ていたらしい。

まだはっきりとはしない頭で部屋中に視線を張り巡らす。何も変化の無い部屋を一瞥して、急に尿意をもたらしたぼくは手で身体を支えながら起き上がった。立ちくらみが激しい。視界がぐにゃりと歪みバランスが取れない身体を、壁に手をついて支えた。しばらく経ち、立ちくらみも収まったかと判断したらそのままトイレへと向かった。

用を足し再び部屋に戻ろうとする中、ぼくはここ一週間ほど水以外何も口にしていないことに気付いた。立ちくらみもそのせいだろう。身体が衰弱しきっている。ふと、頭の中ではこのまま何も食べなければきみの元へ行けるだろうか、などと考えてみるも一端気付いてしまっては空腹が痛いほどに身に沁みた。

そのまま目の前にある冷蔵庫を開く。そこには、見たことが無い白い箱があった。見た限り、近所のケーキ屋のマークがあったのでそれだろうと思った。賞味期限が切れている。多分、きみが買ったものだろうか。いつまでも賞味期限が切れたものを冷蔵庫に入れておくわけにもいかないので、それを出し一端扉を閉める。多分もう食べれはしないだろう。少し惜しい気持ちでぼくは、その箱を開けた。



「―――――」


咄嗟に身体が動いていた。部屋にある、きみが毎日一枚ずつちぎっていた日めくりカレンダー。きみが死んだ日からそれはそのまま。真っ白になった頭の中、そのカレンダーの元にいき日付を見つめる。その日付は、ぼくの誕生日だった。


全ての謎が解けたような気がした。きみがやけに上機嫌だったわけも、優しかったわけも。そして、同時にぼくがその日家にいた理由も。

きみと約束したんだ。

ぼくの誕生日には、ご馳走を作って二人でゆっくりとしようって。なのに、ぼくは。きみに。


一気に込み上げてくる感情に、息が上手く出来なくなった。今までどうやって息をしていたんだろう。吐くのか吸うのか、ぼくはいまどちらをしているのかすらわからない。


外は、土砂降りの雨だった。



ぼくは、ふらつく身体を壁に手をつきながら支え、よろめく足で地面をふみしめながらアパートの屋上へ出た。土砂降りの雨が、あっという間にぼくの全てを濡らしていく。そのままぼくは膝から崩れ落ちた。

空を見上げる形で地面へと倒れ込む。激しい雨が痛いほどにぼくを打ち付けた。目を閉じれば、やはり浮かび上がるきみの姿。ふと、駆け落ちをする前のきみとの何気ない会話を思い出した。


「きみは、生まれ変わったら何になりたい?」

ぼくのそんな問いに、きみは少し考えたあと笑った。

「私は、雨かな」

「なんで?」

雨。どうしてそんなものだろうか。問うぼくにきみは続ける。

「だってほら。もう一度人間に生まれ変わったら、またあなたと恋が出来るかもしれないけど、生物には必ず死があるし別れがある。なら私は、あなたが生まれ変わって人間になったり植物になったり動物になっても大丈夫なように雨になりたいの。雨なら、あなたがなんに生まれ変わってもあなたに触れられるから」

「そっかあ‥。きみは相変わらず、深いところまで考えてるんだね」

「ありがとう。あなたは何になりたいの?」

「ぼくは―――」


「「わからない」」



うっすらと目を開ける。雨は相変わらず止む様子が無く、ただ降り続けていた。ああ。どんどんと何も考えられなくなる。衰弱した身体で体温を奪われれば、当たり前か。少しだけ自重めいた笑みを浮かべる。少しずつ遠退いていく。ぼくは、ゆっくりと重い腕を天へと掲げた。雨の雫がぼくの腕を伝う。この雨のどれかがきみなのだろうか。若しくは、全てがきみなのだろうか。そう思えば、この身体にまとまりつく雨が愛おしく思えた。


限界を感じた腕がぱたりと落ちる。もう何処も動かない。目を閉じた。

何も怖くないんだ。これでもしぼくが死んでも、死ななくても構わない。全てを決めるのは、雨であるきみなのだから。

瞼の裏に焼き付いたきみに言う。ぼくが生まれ変わったら何になりたいか。ぼくは、きみと雨になって一緒に循環したい。雨になって、降り注いで、蒸発して、雲になって、また雨になって。それがきっと、本当の永遠だと思うんだ。






雨のように共に消えてしまえば良かった。



久紀 正臣。

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