2-2. 押しかけ徒弟(後)
『我、賢者の石を発見せり』
今から約200年前に高らかにうたいあげられた勝ち鬨は、しかし誰のものかは伝わっていない。
古来より数々の錬金術師が手記に記し、貴族や王族への売り込み文句として喧伝した、卑金属を金に変え、不老不死をもたらすという賢者の石。その名を唱えることで、ある者は首尾良く研究費用をかすめ取り、ある者は志半ばで虚偽の罪を問われ縛り首となり、数々の悲喜劇を生み出したものの、その実在は洋として知れない。
しかし、賢者の石そのものとして当初取り上げられ、期待した効果は得られないと判明したその後も研究対象とされた「賢石」はその後の世界を大きく変えた。古来より細々と知られてはいたその鉱物は、不可思議なことに石を一定法則に従って配置することで、虚空から熱や光を引き出すことができたのだ。錬金の秘術はさらに単一の石に文様を刻むことで、同じ効果が得られることを突き止めた。熱に弱くて脆く、すぐに砕けて塵になってしまうという欠点はあったものの、賢石の鉱脈はそこかしこにあり、無尽蔵も同然であった。試行錯誤の結果編み出された最も有用性の高い、熱を引き出すための文様は、大量印刷技術の普及により一気に広がり、結果として賢石は過剰な森林伐採によって枯渇してきた木炭の代替として広く用いられるようになった。
そして現在。家々の台所の燃料として、街灯の明かりとして、蒸気機関の動力源として、賢石は欠かせぬものとなっている。錬金術師の後を継いだ科学者たちの弛まぬ研究により、賢石は燃料そのものではなく、大気に遍在する不可視の何か——エーテルと名付けられた——からエネルギーを取り出す触媒だと判明した。
正に世を一変させた賢石に関する研究は『触媒紋章学』と命名され、今なお盛んに追求されている。研究者たる錬金技師が計算と仮説から論理を組み立てて、エーテルの新しい活用方法を模索しているのだ。結果論としてエーテルから熱や光を取り出すのは、今やそれほど難しくはない。そこに至るまでの工程を分解し、全く違った発現を導出して、用途を拡大できれば、社会の発展にどれほど貢献するだろうか。大学や国家機関で先端の研究は進むが、産業に近しいところでは資本家が抱える商会が専門研究部門を立ち上げ、研究と試用、実用化に向けて熱心に取り組んでいる。とはいえ、高度な領域で活躍できる人材は少なく、教育や育成を経て組織的な成果につなげられるところは、片手で数えられるほどしかない。
研究機関で働く専門技師は、一見してエリートであり、非常に高給である。しかしながら、事故率とひいては死亡率の高さでは貧民街の工場労働者と変わらない。いや、それ以上だ。賢石そのものの取り扱い不備で発生する火災や、偶発的に作り上げた意図せぬ未知の配置で引き起こされる事象——ほぼ爆発であるが——に巻き込まれるなどだ。熟達するにつれて事故率は下がるが、当初一年で三割、三年でさらに二割が死亡や事故の後遺症で職場を去る。
「だとしても、やめないよ」
「やめろと言ってるんじゃない。あんまり夢を見すぎるな、ってところだ」
かいつまんだ業界の成り立ちを聞いたティムの言葉に、苦笑する。
押しかけてきた日は日曜学校でやっていることの聞き取りと、読み書きと計算の理解度を簡単にテストして帰らせた。縫製の請負と洗濯婦をしている母親、6歳になる妹との三人暮らし。ジャガイモ飢饉から逃れるために女神の領地と呼ばれる西の島から渡ってきた父親は、二年前にアルコール中毒で死亡。一家の大黒柱として靴墨工場で働いている間を縫って、土曜の午後と日曜に来ることで話はついている。
今日はその初めての土曜だ。
「先ほども言ったが、賢石は大気に満ちているエーテルからエネルギーを取り出すための触媒、つまりは道具だ。熱や衝撃に弱く、すぐすり減って散っていってしまうから、賢石が熱や光に変わっていると思っている人間も多いがな」
「ふーん。エーテルなんてもの、感じたことないけどね」
「エーテルは不可視で賢石以外のどんな物質にも反応しない」
懐から灰色のレンズがはめられた丸眼鏡を取り出し、ティムにかけさせ、周囲を見るように促す。度は入っていない。
「ちらちら光が目に飛び込んでくる」
「それがエーテルだ。レンズに練り込んだ賢石の粉が作用してエーテルを光に変える。目視で確認する手段は、この眼鏡だけだ。ありとあらゆる物を突き抜けて動き、囲い込むことはできない。軽すぎて重さも検知できない。空気のざっと100億分の1程度と言われている。ただ、いくら使おうともすぐにどこからか供給されて尽きることがない」
「なにそれ?都合良くない?使ってもなくならないなんて」
「なくならないわけじゃない。すぐに補われるんだ。池の水を掬った後に水が流れ込むようにな。そして、少なくともわかる範囲では池の水の量自体も減ったりはしない。都合が良くてもそうだからそう、としか言い様がない。物がなぜ落ちるのか、に理由がないのと同じだ」
「それ知ってる、重力って言うんだろ?日曜学校で習った」
「どうして重力があるかは習わなかっただろう?理由がないからさ」
ティムはいまいち釈然としない表情だったが、思い悩んでも仕方がないと思ったのか、話題を流すことに決めたようだ。
ティムから眼鏡を受け取り、代わりに国語辞典と同じくらいの分厚い書籍を渡す。
「読め。内容はわからなくていい。まずは触媒紋章学がどういう作法・どういう観点・どういう表現で説明されるのか、肌感覚を身につけるんだ。単語がわからなければ、そこの辞書を引け。何事も共通言語がないと話にならない。基礎の前だな。当面はその本と格闘するんだ」
気圧された様子のティムに、しっかりと言い聞かせる。勉強が嫌いじゃないというのは嘘ではなかったらしく、上昇志向もあいまってか貧民街で育ったとは思えないくらい読み書きはしっかりしていた。そのうち踏み込まなくてはいけない算術の土台となる四則計算も、大きな問題はない。
「俺は向こうの部屋で作業をしている。日が陰るまでここで勉強してろ。疑問点はこのメモに書き留めて、最後にまとめて聞きに来い」




