1−4. 変わり者の牧師(後)
下流階級でも、領主の目にとまったりすれば、援助を受けて高等教育を受ける機会も稀にはある。そうした知識を踏まえた問いかけだろう。
「いや、実地で学んだ、一技術者ですよ」
にべもなく答えたこちらに対し、なるほど、と頷きチャールズは懐から紙束と万年筆を取り出す。と、さらさらと何やら書き込みはじめる。日頃こういった行為をよくするのだろうか、歩みに乱れはない。
「これをどう読むかね?」
少年のような期待のこもった目で、こちらに紙を渡してくる。
紙には文字が複雑に入れ込まれた代数式が何段にもわたって記載されていた。賢石の触媒効果を使ったエーテルのエネルギー反応式だ。一般にはエーテルからどういう種類のどういうエネルギーをどう効率的に取り出すか、が工夫どころだが、この式は反応を循環させてエーテル同士をぶつけることで、エーテルをその場に留められるかを試したものだ。エーテルは触媒としての賢石には反応するものの、物質としては賢石含むあらゆる物を透過するため、いかなる器をもってしても蓄積することは叶わない。その器をエーテルそのもので作ろうという代物だが…。
10年程前までに大いに研究され、結局日の目を見ることなく下火になってしまった。実際、示された式も解が発散してしまい、使い物にはならない。
「さぁ…複雑すぎて、ちょっとわかりかねますね」
式そのものではなく、想起される記憶から意識を引き剥がすように、懐かしい式から伏した目を上げて答える。
「大手の商会ではこの手の研究が連綿と続けられていると真しやかに囁かれているので、ひょっとしたら、とね。この式は私の大学時代の研究テーマで、神学を学ぶ傍ら、大いにのめりこんだものだ。進歩があるなら常々誰かに教えてもらいたいと思っていたが」
全く残念さを感じさせない口調で、チャールズがのたまう。
「のめり込んだ理由は、触媒紋章学は自由への鍵ではないかと考えたからだよ」
「はぁ…まあ金になる技術ではありますけどね。金融屋や資本家、地主のように資産をてこにする訳じゃないので、一個人の範疇ですが」
金があれば大抵のことは自由になる。ただ栄枯盛衰はあるとは言え、大きく生活に困ることはないであろう階層にいた相手に対し、気の抜けた返事になってしまった。
「丁寧語は不要だよ、肩が凝って仕方がない——一個人の、というより、社会にとっての自由の鍵という意味だ。単純に金になる、ということではなく、自然の恵みをほぼ無尽蔵に取り出せる、というところに希望があるのでは、とね。その恵みが、多くを持つ者の命令に従わず、場所も心も何者からの縛りなく移動し振る舞うことのできる自由を裏打ちしてくれるのではないかと思ったのだよ」
「そもそもエーテルを使って直接できることは多くないとは思いますが、牧師様の——」
「チャールズ」
「……チャールズの言う、どこにでも行けて何でもやっていい自由が実現したとして、そこにどんな意味が?この国の99%の人間は今日のパンと安心できる暖かい寝床、明日への希望があれば、それで満足だぜ。それらが得られないから、宿痾としての不平等を槍玉に挙げた活動も盛り上がっているんだろ?」
ちらりと路塀にある『都市の成年男子に選挙権を!』という文言と拳を振り上げた男の絵が印刷されたポスターに目をやりつつ、要望通りの普段の口調で感想を述べる。とりとめのない世間話とは言え、持って生まれた者のずれた意見への呆れが出てしまっただろうか。
「不平等は、悲しいことだが決して解消はしない。そこでの論点は常に社会が許容できる範囲に不平等をどう抑えるか、でしかない。持ち物の量に目を向けてしまった時点で、敗北は必然なのだよ。持ち物の量を均すことが解決すべき問題ではない。持つ者が持ち物によって持たざる者を使役する、社会規範こそが真に向き合うべき課題だ」
「……それこそ敗北の道にしか聞こえないな。つまりは、物や金でつって他人をこき使うんじゃない、物や金目当てで他人の言うことをきくもんじゃない、っていうことだろ?それじゃ、どうやって生活するんだ?生きていくには物も金もいるぞ」
「持つ者は持たざる者に分け与えればいい」
「牧師らしい考えだが、そりゃ無理筋だ。働かなくても貰えるなら、働いても手元に残らないなら、誰が一生懸命働くものか。誰かが働かなきゃ、何も生まれないぜ?それに物があったとして、そもそも物が流通しなくなる。金に意味がなくなるなら物々交換しかないだろうが、欲しい物をお互いに、手の届く範囲で上手く交換し合えるとは到底思えないね。利便性を求めて貨幣を造れば、それ自体が価値を持って振り出しに戻る——牧師の説教としては結構なもんだが、思考実験としてはお粗末じゃないかい?」
淡々と口にし、ああ話題がずれたなと言葉を続ける。
「ま、自由がどうとかよりも、喫緊目の前に迫った他の関心事で庶民は手一杯ということさ」
もっともだ、という風にチャールズは頷く。チャールズ自身の出自はともかく、黒い牧師服には所々ほつれてすり切れた部分を補修した跡が見て取れ、靴も辛うじて底が残っているといえるような古靴だ。末端の教区では信徒の貧しさにも日々向き合っているはずで、庶民の状況など身に染みて知っているだろう。交わした非現実的な言葉遊びは、彼なりの憂さ晴らしなのかもしれない。
そこからは、延伸する地下鉄工事の進捗や都外に移された家畜市場の跡地に建設中の中央市場についての話題、年々深刻になる燃焼石の滓による煙霧、近場にあるうまいパン屋など、とりとめのない世間話をつらつらとしているうちに日が暮れ、互いに一礼をして別れた。
別れ際に投げられた、「お互い自身の持ち場で精励しようではないか」という言葉がやけに耳に残った。




