5−1. 牧師、三たび
小雨がぱらついていた。六月に入り、早朝でも10℃と少しというほどよい気温で、少し前までの肌寒さは記憶に遠い。とはいえ、燃焼石の滓が舞い散る雨下の王都は爽やかとは言い難い。雨上がりには灰状のぬかるみが靴にまとわりつく。
傘も差さず、レインコートを羽織って濡れるに任せる。紳士たるもの傘くらい持つべき、という風潮があるようだが、まさにそれは中流階級以上の紳士のたしなみで、庶民としてはすぐやむ雨の為に高価な傘を持ち歩く気にはなれない。
乗客を満載した馬車が後ろから追い越していく。荷物置き場には大きな旅行鞄が山積みである。鉄道駅に向かうのだろう。このところ、バカンスに出かける人々を多く目にする。資本家とは言わず、銀行家や事務員、弁護士などの間でも長い休みを楽しむのが流行っているようだ。以前は週末に赴く場所だった郊外が、長期滞在に使われるようになっている様子である。かのアッシュフィールドも、忙しい身にもかかわらず六月の後半は休みを取る由、伝え聞いている。
心なしか、労働者階級も旅装に身を包んでいる光景をよく目にするようになった。こちらはバカンスというわけではないだろうから、北部で新しい鉱山でも開発されたのだろうか。
ティムと子供たちを駆り出して調査を進め、試作機と覚しい装置をいくつか見つけた後は、大きな出来事は起こっていない。世間では列車脱線事故があったとか、新大陸の大都市まで通信線を引くための蒸気船が出発間近だとか、時事には事欠かないが、それらは数百万が住む王都の日常に過ぎない。
日々のほとんどは住居兼仕事場で作業をして過ごしているが、時間を作って意識的に外を出歩いている。以前は夕方のそぞろ歩きだったが、午前や午後など今は出る時間帯はばらばらだ。時には馬車も使いながら、地図を片手に広い王都の今まで訪問したことのない地区を回るようにしている。念のため、エーテルグラスをかけているが、何かを見つけることはできていない。もっとも、それは期待のできないおまじないに近しい。
遠出の目当ては教会である。それも、ここ数十年で新設されたものを見て回っている。教会は王都全体で千を超える数があると言われ、ここ数十年でできた新しいものでも数百は超える。人口の増加と軌を一にしており、王都の発展の代理指標のひとつでもある。気の遠くなるような作業だが、全てを見て回るのが目的ではない。
当座の目的とした小さな教会につく。教会の中には入らず、建物の細部に目をやりつつ、敷地をじっくりと回る。人気はあまりなく、見とがめられることもない。ここは当たりか、という予感が頭をよぎる。
基礎の横に、探していたものをみつけた。石に刻み込まれた印章だ。三位一体を表す三角形の中心に、縦方向に押してたわませた円形とさらにその中に横方向にたわませた小さな円形が組み合わされて刻まれている。目、といった感じだろうか。ティムと探し出した装置が置かれていた場所のいずれにも、掲げられていたものだ。神の教え由来なら、神の家にあるだろうし、とはいえ主流派として敷衍しているとも考えづらいと思い、新設の教会を当たってみるとあにはからんや出会うことができた。
懐から地図を取り出し、○印をつける。他には×印が多くつけられている。○ひとつに対し、×が十ほどの割合か。
雨はもう、止んでいた。
教会の敷地を出、次に向かうべく、ゆっくりと歩みを進める。
「ウィリアム」
唐突にかけられた声にも、戸惑いは覚えない。
「ご機嫌よう、ウィリアム。変わりないようだ」
背が高く痩せぎすで、黒い牧師服を着た薄い金の髪の男がそこにいた。雨よけにつば広の帽子を被っている。三ヶ月ぶりに見る姿は、過去たった二度しか目にする機会がなかったのにも関わらず、記憶と一致している。
「チャールズ。そちらも元気そうだ」
挨拶を返し、今回はこちらから歩み寄る。
「見た目によらず——失礼——、信心深い」
チャールズがくすりと笑う。
「ここのところ、教会巡りにはまっててな——スタンプを集めると、お導きが貰えそうな予感がする」
どちらともなく、歩き出す。
「自由にはなれそうかい?」
チャールズに問いかける。前回も前々回も、この男は何にも縛られない自由を口にしていた。規律を重んじる神に仕えるには、そぐわない価値観だ。信徒たる者、聖書を通して神と心を通わせ、生きる指針とすることが推奨される。
「道半ばだが、明けない夜はないと確信しているよ」
唐突な問いにも関わらず、チャールズはくすり、と笑って大仰に答える。
「思うんだが、チャールズ。我らが王国は産業革命の力によって今世紀に入って覇権国家の座を獲得した。新大陸は百年も前に独立してしまったが、いまだ数多くの植民地を持ち、国民としては実に誇らしい」
チャールズが頷く。
「紋章工学を下敷きに蒸気機関が普及し、鉄道が何千キロと敷設され、数え切れないほどの工場が建てられ、安価な工業製品が普及し出した。ちょっと前までは庶民は何十年と同じ服を繕いながら着ていたが、値段が下がって服を入れ替えることができるようになった。流行という言葉が一般にも使われるくらいに。疫病蔓延の反省のもとに上下水道の整備も進んでいる。まだまだ井戸を使っていて出したものは溝と運河に垂れ流しだが、そのうち改善していく。
もちろん、俺たち庶民の生活は変わらず苦しい。肉も野菜も穀物も不足していて、誰しもが腹一杯食べることはかなわない。人が溢れている王都の住環境も劣悪だ。豚小屋のように押し込まれながら生活する。そして、生まれた子供の半分は、大人になれず死ぬ。大人も、病にかかればそう遠くない日に死神が会いに来る。
だが、それもここ十年で変わりつつある。労働者は団結し、搾取される一辺倒を賃金や労働条件の改善を通して変えようとしている。階層は厳然としてあるが、下の階層だとて家畜や獣のごとく扱われてよいという風潮も、教育を通して変化しつつある」
歩く速度をやや落とし、チャールズの目を見る。
「くそったれな世の中だが、それでもちょっとずつ良くなってきているよ、あんたの言う自由とは違う姿ながら。それでもあんたは遠い自由が欲しいのかい?」
チャールズは小首をかしげている。どう答えたものかと考えているようだった。
「欲しいというより、それが自然な姿だと感じるのだよ。君の言う『くそったれな世の中』は、確かに変わろうとしている。ただ、その変化の行き着く先はさして今と変わらないのではないのかね?踏みつけにされる人間はいなくならず、不公正もなくならない」
「ここは天国じゃねぇからな。弱い奴や運の悪い奴は常にいて、踏みつけにされて奪われる。だが、仮にあんたの言う自由が達成されても、それは変わらないはずだ。
狩猟採集の原始時代でも、獲物の取り合いで殺人はおこっていたんだぜ」
「踏みつけにされ、奪われても、逃げる自由があれば、搾取され続けることにはならんよ。仮にそこで生が終わっても、ありのままに自由にある尊厳は守られる。そもそも、不自由と不公正が地層のように積み重なった現在と比較して、そのような事態は極めて小さい割合だっただろう」
「その自由な世界では、科学技術の発展もない。分業できないからな。何者にも縛られないということは、何でも自分たちでやるということだから。病になったら死ぬしかないぞ?天災が起これば逃げるしかないぜ?脅威や危険は人間同士だけじゃなく、自然からも来るんだ」
「それでよいのではないかね?黒死病のような疫病も、今のように集住しているからこそ発生し、蔓延する。天災も、逃れる土地を見つけてそこにいけばよい」
「そうして淡々とただ生きる。積み重ねも、進歩もなく。そんな生に、そんな社会に意味があるのか?」
「個々人が自由に尊厳を持って生き、そして死ぬ。それでよいではないか。そもそも、今の社会にも意味などあるまい。自らが引き起こした問題を殊更に騒ぎ立てて穴埋めしようと奔走する。かと思うと周りを出し抜いて偽りの差異に酔いしれるために、落とし穴を掘って同胞を突き落とす。
積み重ねも進歩もないと言ったね?だが、我々の遠い父祖はそうして何万年、何十万年と生きてきた。そこには現代人が知らない豊かな文化や思想もあったはずだ。自由と引き換えに所有を選んだ時点で、壊れてしまったが」
「神が導いた、とは言わないんだな」
「神は、ただ在るだけだよ。選ぶのは人だ」
こちらの皮肉に、破門ものの言葉をチャールズは口にする。
「あんたの自由が正しかろうが単なる戯言だろうが、千八百年もかけて人が生きた証を積み上げた王都はここにあって、未来に向けた開発の手も国中に伸びている。俺たちができるのは、明日は今日よりよいと信じて前に進むことなんじゃないのか?」
「過ちを糺すのも、前に進むことだと理解している。ただそうなっているから、そうするというのは思考停止に等しい」
「どんな犠牲を払おうとも?あんたの言う自由を実現するには、抜本的に社会を変えなきゃならん。社会が不自由さと引き換えに養って支えている、多くの人民と引き換えにな。この国だけじゃない、文明国全てが敵に回る。一体、誰が賛同するんだ?あんたのお仲間はあんたのやろうとしていることを知っているのか?」
リンゴーン、と時計塔から時刻を知らせる鐘の音が聞こえた。竣工して五年ほどの新しい時計塔は、王都の名物として既に定着しつつある。
「もちろん、知っているとも。我が信条は確かに孤高ではあるが、他の何とも相容れないというものでもない」
余裕のある表情が、腹立たしい。
「ウィリアム、君はどうかね?社会の中で役割は見つけられているかね?社会の進歩を肯定するなら、その進歩にいかなる形であれ、貢献するのが筋だろう」
「健全に生きて納税するだけで、義務は十分果たしているさ」
「もっと自分の能力を積極的に活用したらどうかね。錬金技師として活躍しろとは言わない。デモに参加するのも、議員になるのも、慈善活動をするのもよかろう。もっとも、君はそこまで他人には興味はなさそうだが」
「興味はあるさ。怪しい奴がいたら通報したいと思うくらいにはな」
「思うだけだろう。錬金技師はおしなべて合理的だ。無駄な行為はしない」
「俺はそうでもないね。非合理だろうが何だろうが、癪に障ると刃向かいたくなる」
「では、この社会は癪には障らないのかね?なるほど、先ほど君が言ったように犠牲になる人々の数はいずれは減っていくのかもしれない。だが、常に選ばれない人間たちはいる。神の教えすら、それを許容しているのだから。そんな負の連鎖を変えるために、我らとともに尽力するのはどうかね?多くの人民と引き換え、と君はいったが、将来にわたって苦しむだろう数からすれば、ごく僅かなものだ」
「悪いが器の小ささは自覚していてな。思想のために多くの犠牲を払うなんてことには全く共感できないね。身の回りのことで精一杯で、そんな気は回してられないぜ。そもそも、もっと腹に据えかねることはあるしな」
きつい眼差しを向けると、チャールズは軽く肩をすくめた。
「身の回りで精一杯なら、おとなしくしていればよいものを。矛盾している」
「人間は矛盾の塊だよ、チャールズ。一番よくわかってるんじゃないのか?」
さて、どうかな、と言うように帽子の下でチャールズは微笑む。
「あんたをここで突き落とせば、全て終わるかい?」
日の入りは近く、灰色の雲に覆われた空は暗い。歩いているうちに運河沿いに突き当たっていた。
「物事には慣性というものがある。もう止まらぬよ。それに、そうした暴力的なやり方は君の流儀にも悖るのではないかね?」
「流儀云々言われるほど、あんたと親しくはないね」
「それは寂しい。我らは世間とは違う形でお互いをよく知っているではないか」
チャールズは芝居がかった仕草で憂い顔を向けてくる。
「千八百年かけた楼閣も、大地の数億年の歴史に比べれば、夏の夜のうたたねに垣間みた夢まぼろしに過ぎない。夏の夜の夢として、夜明けの向こうに忘れてしまってもよかろう」
「聖書による推計だと、地球の年齢は六千年じゃなかったか?」
「学究の徒として、それには同意しかねるね」
さて、とチャールズは言葉を続けた。
「そろそろ行かねばならない。短い逢瀬に後ろ髪引かれるが、気が向けばまた会うこともあろう——お互い」
帽子をついとあげて、チャールズは日の届かない、暗く沈んだ路地に消えた。用は済んだのだろう。




