0. はじまりのおわり
チチチチチチチチ…
制御盤に据え付けられた毎時18,000振動で時を刻む嵌め込み式の時計の秒針が進み、分針を押し送る。時針とは別に設けられた積算針が40時間を指したのを儀式的に確認し、力を込めて手元のレバーを引く。ゴリっという硬い石同士に圧力をかけてこすり合わせたような感触と音を残し、かみ合っていた歯車が外れ、ひゅんと油の差された蝶番の開く音が耳に届く。
ラボというには無骨な鉄骨が縦横に渡されている室内の中央には、一辺2m程度の巨大な鉄の立方体が重々しく置かれていた。外からは見えないが、中は水で満たされている。その鉄の水槽からは太いパイプが生え、天井を突き抜けて上階に消えている。おびただしい数の鋲を打たれた水槽の表面には、たった今遠隔で配置を変えた、付属部品をはめ込むための枠が一見不規則に、その実計算尽くで据え置かれているはずだ。灰色に色づいた眼鏡のレンズ越しに見える立方体と重なった、直径2m弱の青白い光が、陰影が深い器具類の細部を視認する妨げとなっている。
「フェーズⅠクリア。蓄積停止後もエーテル容量は予定通りに平衡を維持」
背後の死角から、冷静に状況を告げる低い音域の女の声。振り向くことなく、黙って頷く。レンズを通して確認できる、鉄箱に重なる光球は先ほどと変化はない。鉄が光っているのでも、無論鉄の水槽を突き抜けて光が漏れているのでもない。黒い立方体に重なって光の球が浮かぶ景色は、視界が二重写しになったかのようである。実際、青白い光を発しているのは眼鏡のレンズ自体の一部なので、水槽と光球の両方にピントをあわせることはできない。
「フェーズⅡ、開始」
乾燥した空気の中、ややかすれた声でそう告げると、制御盤から生えるハンドルを片手でぐるぐると回す。水槽を囲むようにラボの壁を背にして立つ同僚たちから、緊張の気配を感じた。右手の若いメンバーは、顔を紅潮させている。経験の浅い彼にとっては——いや、経験豊富な同僚たちにとっても、滅多とない機会だ。一方で、こちらの気持ちは冷えたままだ。
ハンドルと連動して鉄材が床からせり上がり、人の輪と鉄箱を隔てるかのように空間を分割する。蛸の足のごとく四方八方に渡る鉄の腕は、横断する別の鉄材で接合されている。鉄材の表面には、この日のために計算と実験を重ねて作り上げた立体回路が設置されていた。
と、レンズに映る光球の像がやや滑らかなものに変わる。視覚では確認できないが、上下を軸に反時計回りに高速回転しているはずだ。音もなく浮かぶ光球は意図通りに徐々に半径を小さくしていき、反比例してその光量は増していく。広げた両腕に余るほどだったものが見る間に小さくなっていき、視認するのが難しいほどの小さな点にまでその大きさを縮める。
「フェーズⅡクリア。エーテルの圧縮を確認」
計測機器の数字を確認する背後の女の声は、表面上は淡々としたものだ。だが、ごく近しい人間にだけわかる抑揚の棘がうかがえた。鬱積した苛つきが漏れ出ている。一方、同僚たちからは抑えきれない喜びの気配を感じる。無理もない。前回も前々回もそのまた前も、期待とは裏腹にこの過程で圧縮が成功することはなく、エーテルは大気に散ってしまっていた。
「フェーズⅢ、エーテル外殻の整形を開始」
そう宣言し、操作盤に嵌められた九×九のボタンを決められた手順で押す。こちらは機械式ではないため、手応えは軽い。
光球——もはや光点となったそれには肉眼で確認できる変化は見て取れない。女の声が「フェーズⅢクリア。エーテル外殻の整形パターンを検出」と醒めた声で告げる。
さて、いよいよである。ここからは、公の要素実験時点では安定した結果を残せなかった、未知の領域だ。水面下で取り組んでいた計画継続への政治的な働きかけを止めたことにより、今期が最後と正式に上から通告されていた。それを受け、積み上げが全く足りない現状でも、無理を承知で本実験を決行するというのが、我が部隊の判断だった。それが故に、期待と不安のこもった熱い眼差しが光点に向けられるのがわかる。それらの視線に対し覚えるのは、幾分の罪悪感だ。己の職務に従い、口八丁手八丁で夢物語をみせて上層部と関係者を説得し、同僚たちを理念と実益で持って鼓舞し、技師としての本能を駆り立ててここまで来た。正しい努力を続けた結果、理論は完成し、道程として置いた実験の成功も確信している。が、幕引きである。幕を引くのは、技師としてではなく、ふと立ち止まって未来を考えてしまったただ人である自分だ。
「フェーズⅣ、元素転換とエーテル外殻の光収束を実行」
伏せた目で操作盤のボタン配置を確認し、言葉を発するとともに過たず所定の箇所で指に力を入れる。視界の端で、すぐさま、同僚たちが鉄の水槽に備えられた圧力計を確認したのが覗えた。上がるどよめき。予想に反し、何度となく聞いた失望のそれではなく、歓喜のどよめきだ。
「ばかな…」
自身の目でも圧力計を確認し、目を見開いて思わず声に出し、ばっと左の肩越しに後ろを振り返る。栗色の長い髪を無造作に後ろでまとめ、白衣をはおり、最近癖になった所作で自身の下腹に左手を添えた女が、斜め後ろからこちらを見て微笑む。研究一筋で無表情が常の彼女が時折見せる魅力的な笑顔。ほら、騙された、と無邪気にこちらに言っているようだ。
「あぶっ———」
右の耳が同僚の声を捉え、すぐに強烈な轟音に打ち消された。空気の壁に吹き飛ばされ、意識を失う直前に、鉄片が笑顔を弾き飛ばすのを目にした。声は、上げられなかった。
冶金に不備があり、発生した圧力に耐えきれず実験炉が爆発したと聞いたのは、病院のベッドの上だ。よくある話だが初歩的なミスで、防げたはずのものだ。犠牲になった同僚の数々に笑顔の女の名が挙げられ、全てを無くしたのだと、頭で理解した。
欺きを重ねて犠牲無く、数ある失敗事象の海に葬ろうとした己のずるさが目を曇らせていたのか。後悔とも言えぬ虚無が澱のように心の裡に横たわった。




