第9話 宴会
# 第9話 宴会
夜が更けた頃、俺は旅館の廊下を歩いていた。
灰色に変色したクッキーの体は予想以上に小さく、トイレに行くのも一苦労だった。便器に届くために踏み台が必要で、その屈辱的な状況に歯噛みしながら用を足した。この体になってから数日が経つが、まだ慣れない。手を洗うのも、洗面台に手が届かずに苦労する。
廊下は薄暗く、古い木造の床が軋む音だけが響いている。旅館の古い建物は、夜になると独特の雰囲気を醸し出す。他の宿泊客は既に就寝しているのだろう。静かな夜だった。
用を足して部屋に戻ろうとした瞬間、後ろから誰かに抱き上げられた。
「クッキー!こんなところで何してるの!宴会始まってるよ!」
酔った声と共に、俺の体は宙を舞った。強い酒の匂いが鼻を突く。高級な日本酒の香りに混じって、ビールの匂いもする。
「待て!俺は——」
「ほらほら、照れちゃって!今日は無礼講だから!」
抱き上げたのはパールヴァティだった。すでに顔を赤くして、上機嫌な様子だ。彼女は俺をクッキーと勘違いしているらしい。俺の灰色の体に気づいていないのか、それとも酔いのせいで判別がつかないのか。
有無を言わさず隣の部屋に連れ込まれた。廊下を移動する間、俺の抗議は完全に無視される。パールヴァティの腕力は、酔っていても健在だった。
扉が開くと、賑やかな笑い声と酒の匂いが溢れ出してきた。煙草の煙も混じり、むせ返るような空気だ。
部屋の中には本物のクッキーと数人の騎士団員がいて、テーブルの上には豪華な海鮮料理が並んでいる。新鮮な刺身、焼き魚、貝の酒蒸し、そして地元の珍味。普段は缶詰でしか魚を食べられない俺たちにとって、これは贅沢の極みだった。
「あれ?クッキーが二人?」
パールヴァティが俺と本物のクッキーを交互に見る。酔った目を細めて、首を傾げている。
「わー!僕の仲間だ!」
本物のクッキーが嬉しそうに飛び跳ねた。彼は既にかなり酔っているようで、ふらふらと飛行している。顔も赤く、いつもより子供っぽさが増していた。目がとろんとして、舌も少し回っていない。
パールヴァティは俺をまじまじと見つめた。上から下まで、じろじろと観察する。酔った目でも、違いに気づいたらしい。俺の灰色の体を指でつつきながら、ようやく理解が追いついたようだ。
「灰色...?あー、もしかして隣の陰湿なクルーシブ?」
彼女はケラケラと笑い始めた。酒が入ると、いつも以上に無遠慮になるらしい。
「なんかのアノマリーにやられてそんな体になったのか?それにしてもクッキーとかぶるなんて珍しいな」
「勝手に連れてきたのはお前だろう」
俺は不機嫌に言った。この状況から早く抜け出したかった。
「灰色のクッキーだから...そうだ!チョコクッキーって呼んでやろう!」
パールヴァティは自分の思いつきに大喜びして、グラスを掲げた。酒が少しこぼれて、テーブルを濡らす。
「クッキー!とチョコのクッキー!ダブルクッキー!」
本物のクッキーも無邪気に喜んでいる。俺に向かって手を振りながら、にこにこと笑っている。
「ほら、せっかくだから飲め飲め!」
パールヴァティは俺を膝の上に乗せようとする。俺は必死に抵抗したが、酔った彼女の力には敵わない。
「ロイヤルパラディンのお姉さんが可愛がってやる」
「やめろ、俺は——」
「私はロイヤルパラディン様だぞぉ。上司の酒が飲めないのか?」
その時、ドアが開き、チココが料理を持って入ってきた。手には追加の刺身盛り合わせ。
「追加の——」
俺を見た瞬間、チココの顔が凍りついた。手に持っていた皿が、微かに震える。
昼間の出来事——人体錬成、奴隷譲渡の取引を思い出したのだろう。あの精神的に追い詰められた姿から、まだ数時間しか経っていない。
「チココ~♪ チョコクッキーも来てくれたぞ」
パールヴァティが楽しそうに報告する。俺の頭を撫でながら、得意げな表情だ。
「こいつ、トイレの前でウロウロしてたから連れてきた!」
チココは深いため息をついた。疲労が色濃く顔に現れている。
「...なんで来たんだよ」
小声で呟きながら、彼は料理をテーブルに置いた。俺と目を合わせないように、慎重に動いている。
「まあまあ、今日は無礼講でしょ?」
パールヴァティは俺の前に刺身の皿を置いた。
「ほら、チョコクッキーも食べな。こんな新鮮な魚、めったに食べられないぞ」
透き通るような刺身が、灯りを反射して輝いている。マグロの赤身、タイの白身、イカの透明な身。どれも都では考えられない新鮮さだ。
俺は仕方なく箸を取った。この状況から逃げ出すより、大人しくしていた方が得策だろう。小さな手で箸を持つのも一苦労だが。
『面白い展開ね』
エリアナの声が楽しそうに響く。
『パールヴァティの油断を誘う良い機会よ。彼女の性格、弱点、全てを観察しなさい』
刺身を口に運ぶと、その美味さに驚いた。
舌の上でとろけるような食感、新鮮な甘み。今まで食べた缶詰とは比べ物にならない。臭みは一切なく、海の恵みそのものの味がする。
「うまいだろ?」
パールヴァティが得意げに言う。酔いも手伝って、いつも以上に饒舌だ。
「騎士団の特権だ!ボリスの領地から直送してもらってるんだ」
宴会は続いた。
騎士団員たちは次々と酒を空け、料理を平らげていく。普段の任務の愚痴、上司への不満、そして下世話な話。酔いが回るにつれて、話題はどんどん低俗になっていく。
チココは終始落ち着かない様子で、俺から目を逸らし続けている。時折、料理を運んできては、すぐに席を外す。明らかに俺を避けているが、宴会の主催者として完全に逃げることもできないようだ。
クッキーは相変わらず無邪気に、俺に料理を勧めてくる。
「チョコクッキー!これも美味しいよ!」
小さな手で、焼き魚を俺の皿に乗せる。人体錬成の影響か、記憶が曖昧なのか、俺に対して警戒心は一切ない。
恩師を殺した相手に、純粋な好意を向けるクッキー。
その姿に、胸が痛む。
『感傷は不要よ』
エリアナが冷たく言う。
『全ては復讐のため。今は情報収集に専念しなさい』
「そういえば」
パールヴァティが思い出したように言った。グラスを片手に、俺の方を指差す。
「明日からチョコクッキーの監視役になったから。チココ団長の命令でね」
「監視?」
俺は眉をひそめた。予想はしていたが、やはり自由には動けないらしい。
「お前、最近おかしいらしいじゃん。奴隷の少女たちを連れて変なことしないように見張れって」
パールヴァティは俺の頭を乱暴に撫でながら続ける。
「まあ、こんな可愛い姿じゃ大したことできないだろうけどな!」
彼女は大笑いしながら、また酒を煽る。既に顔は真っ赤で、ろれつも怪しくなってきている。
「チョコクッキーは悪い子じゃないよ!」
クッキーが俺を庇うように言った。
「ただ、ちょっと...えーと...灰色なだけ!」
その純粋な擁護に、場が和やかな笑いに包まれる。
宴会が深夜に及ぶ頃、参加者たちは次々と酔い潰れていった。
ある者はテーブルに突っ伏し、ある者は床に転がっている。いびきと寝言が部屋に響く。
パールヴァティも完全に酔い潰れていた。テーブルに顔を埋めて、大きないびきをかいている。時折「ボリス...金...」と寝言を呟いているのが、彼女らしい。
チココは疲れ切った顔で、酔い潰れた騎士団員たちに毛布をかけて回っていた。優しい性格は変わらないらしい。
最後に俺に向かって言った。
「...もう関わるな」
その言葉には、怒りと諦めが混じっていた。これ以上、互いを傷つけたくないという思いが滲んでいる。
俺は部屋を出て、自室に戻った。
廊下は相変わらず静かで、俺の小さな足音だけが響く。
チョコクッキー——予想外の呼び名だが、悪くない偽装になるだろう。愛らしい名前は、人々の警戒心を解く。誰が、この可愛らしい姿の中に復讐者が潜んでいると思うだろうか。
明日から、パールヴァティの監視の下で行動することになる。
だが、それも計画の内だ。彼女を油断させ、弱点を探り、いずれは利用する。
『上手くいったわね』
エリアナが満足げに言う。
『あの女を油断させ続けなさい。そして、機が熟したら...』
復讐の道は、まだ始まったばかりだ。。