表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/21

第8話 偽善者

# 第8話 偽善者


腐海の濃密な霧が風に揺れる中、崖の上では黒焦げになった痕跡だけが、先ほどまでの激しい戦闘の名残を物語っていた。焼け焦げた岩、溶けたガラス状の地面、そして二つの炭化した跡。全てが、ここで起きた惨劇を物語っている。


溶鉱炉の妖精は静かに浮かび、クッキーの体を得た俺を地面に吐き出した。まるで自分の誕生を確かめるように、ゆっくりと手足を動かしてみる。不思議と違和感はない。むしろ、この小さな体に隠された力を感じる。ヴィクターの記憶が断片的に流れ込み、戦闘技術が体に馴染んでいく。


崖下から岩を砕く音が聞こえた。激しい息遣いと、岩を掴む音。今にも崩れそうな泣き声が混じっている。誰かが必死に崖を登ってくる音だ。


崖の上に現れたのはチココだった。


彼の姿は酷く傷ついていた。腐海のアノマリーたちと戦ったのだろう、鎧は壊れ、緑色の粘液が体のあちこちに付着している。全身から血が滲み出ているが、回復魔法を少しずつ使いながら必死に這い上がってきた様子だ。左腕は不自然な角度に曲がり、顔の半分は火傷で爛れている。


だが、今のチココを苦しめているのは肉体の傷よりも喪失感だろう。獣人族の長い耳でよく聞こえていたはずだ。クッキーは、ヴィクターは死んだ。自爆の轟音は、腐海の底まで届いていただろうから。


「クッキー...クッキー...ヴィクター!」


チココが俺の体を見つけた瞬間、壊れたように叫び始めた。震える手で俺に駆け寄り、小さな体を抱き上げる。


「嘘だ...嘘だ嘘だ嘘だ!」


震える手で俺を抱き上げ、何度も揺さぶる。彼の手は血まみれで、震えが止まらない。


「起きて!クッキー!お願いだから起きて!」


涙が止めどなく流れ、嗚咽が漏れる。普段の冷静な騎士団長の姿はどこにもない。今のチココは、大切な友を失った一人の男に過ぎなかった。


「また...また僕は守れなかった...」


チココは俺を抱きしめながら、子供のように泣き崩れた。その姿は痛々しく、見ていて胸が痛む。だが、これも計画の内だ。


『大丈夫よ。表面の記憶を改ざんするわ。チココには溶鉱炉の妖精に操られて恩師を殺した可哀そうな人間に映る。あのおバカさんは何も気付かない』


妖精の声が内側から響く。俺は意識を失ったままの姿を演じた。体を弛緩させ、死んだように見せかける。


「ヴィクター...ごめん...ごめんなさい...」


チココの声は掠れ、もはや言葉になっていない。彼は俺の額に自分の額を押し当て、嗚咽を漏らし続ける。


「僕が...僕がもっと強ければ...」


必死に回復魔法をかけ続けるが、手が震えて上手く魔力が通らない。青白い光が何度も途切れ、失敗を繰り返す。


「死なないで...もう誰も失いたくない...エリアナさんも...ヴィクターも...みんな僕のせいで...」


チココは自分を責め続けた。その言葉には、積み重なった罪悪感が滲んでいる。


しばらくして、チココは俺を抱えたまま立ち上がった。足取りは重く、何度もよろける。それでも俺を離そうとしない。


「大丈夫...まだ間に合う...マロンなら...マロンなら何とかしてくれる...」


彼は自分に言い聞かせるように呟きながら、研究施設へと向かった。


道中、チココは何度も立ち止まり、俺の様子を確認した。脈を探り、呼吸を確認し、体温を測る。その度に絶望的な表情を浮かべるが、諦めずに歩き続ける。


「クッキー...ヴィクター...もう少しだから...もう少しで...」


気が付くと、俺は拘束具付きのベッドで寝ていた。


白い天井、消毒液の匂い。どこかの医療施設だろう。壁には複雑な魔法陣が描かれ、各種の医療機器が並んでいる。


顔だけで辺りを見渡すと、チココが椅子に座って居眠りをしていた。暗い照明の中でも、彼の表情が疲労と悲しみで歪んでいるのが分かる。目の下には深いクマができ、頬はこけている。


机の上には半分だけ食べられたサンドイッチとボトルコーヒーが大量に転がっている。飲み終わるごとに投げ捨てたのか、机の上がビチャビチャになっている。美食家の称号が泣いているな。普段なら考えられない、荒れた食生活だ。


俺が近くの白衣姿の医者に目で合図を送ると、チココを起こしてくれた。医者は恐る恐るチココの肩を揺する。


「チココ様...患者が目を覚まされました」


チココは飛び起きて、俺に駆け寄った。その動きは素早いが、どこか不安定だ。


「お前は誰だ?クルーシブでいいのか?ヴィクターなのか?クッキーなのか?...溶鉱炉の妖精か?」


チココは俺の頭に手を乗せて、魔力を込めた。相手の思考を覗く魔法だ。複雑な術式が展開され、俺の記憶を読み取ろうとする。


その手は激しく震えていた。答えを知るのが怖いのだろう。


『クルーシブだ。記憶を見たんだろう』


俺は念話で答えた。もちろん、妖精が改ざんした記憶を。


「見たよ...君が...お前が、クッキーを...ヴィクターを殺した...」


チココは今にも壊れそうな声で喋る。顔には何日も眠っていないような疲労の色が濃い。髪は乱れ、普段の整った姿は見る影もない。


「でも...妖精に...操られて...」


チココは混乱しているようだった。改ざんされた記憶の中では、俺は妖精に操られて恩師を殺した哀れな被害者として描かれている。


「だから...だから仕方ない...仕方ないんだ...」


自分に言い聞かせるように繰り返す。だが、その声には説得力がない。彼自身、何を信じていいのか分からないのだろう。


『俺は...何をしたんだ...』


俺は混乱したような演技を続ける。震え声で、怯えたように。


「......泣いてもいいんだぞ」


チココは白衣の男たちを部屋から追い出した。扉が閉まる音が響く。そして、ゆっくりと俺の口の拘束具も外してくれた。


だが、その手つきは乱暴で、まるで何かから逃げるようだった。触れることすら恐れているような、ぎこちない動き。


「クルーシブ...俺は...俺はまた失敗した...」


チココは頭を抱えて呟いた。その声は自己嫌悪に満ちている。


「ヴィクターを守るって約束したのに...また守れなかった...」


「チココ...」


俺が声を出すと、チココは飛び上がるように反応した。まるで亡霊を見たかのような怯えた表情。


「生きてる...よかった...いや、でも、君は...」


支離滅裂な言葉を続ける。彼の精神は限界に近いようだった。


「ヴィクターを...でも妖精が...いや、君のせいじゃない...」


チココは必死に自分を納得させようとしているが、明らかに失敗している。罪悪感と混乱が彼を蝕んでいる。


その時、俺の口が勝手に動いた。


『可哀想なチココ』


エリアナの声が優しく響いた。妖精が直接話し始めたのだ。


『また大切な人を失ってしまったのね』


チココは震えながら俺を見つめた。その目には恐怖と、一縷の希望が混じっている。


「妖精...」


『私はただ、愛する人と一緒にいたかっただけ。でも、みんなが邪魔をするから』


エリアナは同情を誘うように続けた。声音は悲しげで、まるで被害者のように。


『クッキーの魂は私が預かっているわ。でも、あなたが望むなら...』


「返せ!ヴィクターを返せ!」


チココは叫んだ。机を叩き、椅子が倒れる。その勢いは凄まじかったが、すぐに力が抜けたように膝をついた。


『落ち着いて。私は敵じゃない。取引をしましょう?』


妖精の声は巧みにチココの心理を操作していく。


「取引...?」


チココの声は掠れていた。藁にもすがる思いで、妖精の言葉に耳を傾ける。


『あなたの人体錬成の技術を教えて。そうすれば、クッキーの魂を返してあげる』


「それは...国家機密だ...」


チココは弱々しく抵抗した。だが、その声には既に諦めが滲んでいる。


『クッキーとどちらが大切?』


その一言で、チココは崩れ落ちた。床に両手をつき、肩を震わせる。


「分かった...分かったよ...」


涙を流しながら頷く。プライドも、責任も、全てを投げ捨てた瞬間だった。


「ヴィクターを...返してくれるなら...何でもする...」


チココは俺を連れて、ふらふらと地下へ向かった。足取りは覚束なく、壁に手をついて体を支えている。


途中で何度も壁に手をつき、嘔吐しそうになっていた。精神的なストレスが肉体にも影響を与えているのだろう。顔色は土気色で、冷や汗が止まらない。


「ここだ...」


震える手で扉を開ける。重い金属の扉が、軋みながら開いていく。


中には巨大な錬成陣と、無数の機器が並んでいた。天井まで届く巨大な装置、複雑に絡み合った配管、そして床一面に描かれた魔法陣。これが国家最高機密の一つ、人体錬成の装置だ。


「これが...人体錬成...」


チココは機械的に説明を始めたが、途中で何度も言葉に詰まった。手は震え、視線は定まらない。


「もう...好きに使えよ...」


混乱した様子で術式を展開し始める。指が震えて、何度も描き直す。普段の精密な魔法使いとは思えない、不安定な動作。


『ありがとう、チココ。あなたは優しい人ね』


エリアナの声が慰めるように響く。だが、その裏には冷たい計算が潜んでいる。


チココは涙を流しながら作業を続けた。国家機密を敵に渡している自覚はあるのだろう。それでも、クッキーを取り戻したい一心で手を動かし続ける。


数時間かけて、チココは震える手で錬成陣を完成させた。床一面に精密な魔法陣が描かれ、各種の装置が起動音を上げる。


「これで...いいんだろ...」


声は完全に生気を失っていた。もはや、ただ作業を終えたいだけのような、投げやりな態度。


魔力を注ぎ込むと、眩い光が部屋を包んだ。錬成陣が輝き、空間が震える。凄まじいエネルギーが渦巻き、現実が歪んでいく。


俺の体から何かが分離し、隣にクッキーの体が形成されていく。光の粒子が集まり、徐々に形を成していく。まず骨格が現れ、次に筋肉、そして皮膚。最後に、あの愛らしいぬいぐるみのような外見が完成する。


光が収まると、そこには二つの体があった。


俺はクッキーの体のまま、しかし灰色に変色していた。まるで色素が抜けたような、生気のない色。


そして隣には、元通りのクッキーが横たわっている。ピンク色の体、閉じられた目、安らかな表情。まるで眠っているようだ。


「クッキー!クッキー!」


チココは這うようにしてクッキーに駆け寄った。転びそうになりながらも、必死に手を伸ばす。


「う...チココ様...?」


クッキーがゆっくりと目を開けた。きょとんとした表情で、周囲を見回す。


「僕...何があったの...?」


記憶が混乱しているようだった。人体錬成の副作用だろう。


「よかった...よかった...」


チココは泣きながらクッキーを抱きしめ続けた。小さな体を優しく、しかし離したくないとばかりに強く抱きしめる。クッキーは戸惑いながらも、チココの背中を撫でている。


しばらくして、チココは疲れ切った顔で俺を見た。


その目は虚ろで、もはや何も考えられない様子だった。魂が抜けたような、空っぽの表情。ここまで精神的に追い詰められた人間を見るのは初めてだった。


「お前は...」


言いかけて、チココは黙り込んだ。何を言えばいいのか分からないのだろう。


そして突然、アイテムボックスから書類の束を取り出し、俺に向かって投げつけた。書類が床に散らばり、風に舞う。


「これで満足か!」


突然の激昂に、俺は一瞬たじろいだ。


それは特別クラスの少女たちの奴隷譲渡証明書だった。正式な印鑑が押され、法的に有効な書類。12人の少女たちの運命を左右する紙切れ。


「全部やる!全部持っていけ!」


チココは半狂乱になって叫んだ。声は裏返り、唾を飛ばしながら。


「どうせ僕は何も守れない!エリアナさんも!ヴィクターも!誰も守れなかった!」


書類が床に散らばる。風に舞い、部屋中に広がっていく。


「だから好きにしろ!燃料にでも何でもしろ!」


チココは膝をついて、頭を抱えた。両手で髪をかきむしり、うめき声を上げる。


「もう...疲れた...」


その声は、本当に全てを諦めた人間のものだった。


『あなたは悪くないわ』


エリアナの声が優しく響く。偽りの慰めを与えながら。


『ただ運が悪かっただけ。休んで。私たちは消えるから』


チココは虚ろな目で頷いた。もはや正常な判断力は残っていないようだった。ただ、この場から逃げたい一心で。


俺は散らばった書類を拾い集めた。一枚一枚、丁寧に。これらの書類が意味するもの——12人の少女たちの運命が、俺の手に委ねられた。奴隷として、俺の所有物として。


部屋を出る時、振り返るとチココはクッキーを抱いたまま、壊れた人形のように座り込んでいた。放心状態で、焦点の合わない目で虚空を見つめている。時折、小さく何かを呟いているが、もはや言葉になっていない。


『完璧よ、クルーシブ』


エリアナの声が満足げに響く。


『壊れかけた男を利用するのは簡単だったわ。罪悪感に苛まれた人間ほど、操りやすいものはない』


俺は複雑な気持ちで廊下を歩いた。チココの崩壊した姿が、脳裏から離れない。かつては国を背負い、誰よりも強かった男が、今や抜け殻のようになってしまった。


だが、これも復讐の一環だ。


奴は当然の報いを受けているだけだ。エリアナを殺した報い、多くの人々を犠牲にしてきた報い。


そう自分に言い聞かせながら、俺は新たな計画に向けて動き出した。特別クラスの少女たち、新たな力、そして灰色のクッキーの体。全ては、チココへの最後の一撃のための準備だ。


復讐の道は、また一歩前進した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ