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第6話 崖上の決意

# 第6話 崖上の決意


朝靄が腐海から立ち上る崖の上で、俺は最後の訓練に臨んでいた。一ヶ月に及ぶ特訓も、今日で終わりを迎える。灰色がかった霧が風に揺れ、遠くで腐敗した海が不気味にうねっている。


「もう一度だ!集中しろ!」


クッキーの声が崖上に響き渡った。小さなぬいぐるみのような姿からは想像できない、鬼教官ヴィクター・ドレッドノットの厳しさが滲み出ている。空中を浮遊しながら、時折鋭い視線で俺の動きを観察していた。


「エリアナのことを考えろ!怒りを力に変えろ!」


その言葉に、俺の胸が締め付けられた。クッキーは俺を鍛えるために、あえてエリアナの名を出している。だが、それは同時に俺の中の憎悪を煽ることでもあった。研究所での惨劇、愛する妻の最期、すべてが脳裏に蘇る。


『その通りよ、クルーシブ。私への愛を力に変えて』


体の奥底で、エリアナを名乗る声が響く。溶鉱炉の妖精の囁きが、俺の怒りを増幅させていく。


俺は深呼吸をして、体内の力を呼び起こした。血管の中で妖精の存在が脈打つのを感じる。最初は野生の馬のように暴れていたこの力も、今では俺の意志に従うようになっていた。皮膚の下で何かが蠢き、指先に熱が集まっていく。


「今だ!放て!」


クッキーの号令と共に、俺は両手を前に突き出した。暗赤色の光線が指先から迸り、空気を切り裂いて腐海の表面に激突する。轟音と共に海面が沸騰し、緑色の有毒な蒸気が立ち上った。腐敗臭が鼻を突き、思わず顔をしかめる。


「まだだ!維持しろ!」


クッキーの容赦ない指示が飛ぶ。俺は歯を食いしばって光線を維持した。筋肉が悲鳴を上げ、視界の端が暗くなり始める。体内の魔力が急速に消耗していくのが分かる。だが、ここで倒れるわけにはいかない。チココへの復讐を果たすには、もっと強くならなければ。


訓練は順調に進んでいった。日を追うごとに、俺の制御力は向上し、威力も増していく。クッキーは厳しくも的確な指導を続け、時には子供のように無邪気に喜んでくれた。


訓練の合間には、相変わらず街に連れ出される。新しいカフェ、タピオカミルクティーの店、フルーツパフェの専門店。クッキーは新しい甘味を見つけるたびに、目を輝かせて俺を誘った。


「ねえ、クルーシブ。最近すごく強くなったよね」


ある日の休憩時間、クッキーがストローを咥えながら言った。


「でも、時々心配になるの。君の目が...怖い時がある」


鋭い指摘だった。さすがは元鬼教官、人の変化を見逃さない。


「疲れているだけだ」


「そっか...でも、無理しないでね。僕たちは仲間だから」


その純粋な言葉に、胸が痛んだ。だが、妖精の声がすぐにその感傷を打ち消す。


『感傷は不要よ。全ては復讐のため』


訓練最終日の朝、空は不気味なほど晴れ渡っていた。腐海から立ち上る霧も薄く、遠くまで見渡せる。絶好の条件だった。


「今日で最後だ」


クッキーが真剣な表情で言った。完全にヴィクターの人格が表に出ている。


「これまでの成果を全て見せてもらう。手は抜くなよ」


俺は深く頷いた。一ヶ月の訓練の集大成を見せる時が来た。


崖の端に立ち、俺は全身の力を解放した。体内の妖精が歓喜の声を上げ、力が奔流のように流れ出す。両手を前に突き出し、今まで練習してきた全てを込めて光線を放った。


暗赤色の光線が腐海を切り裂いた。今までとは比べ物にならない太さと威力。海面に巨大な穴が開き、周囲の岩が熱で溶けてガラス状に変化していく。光線が通った跡には、空気が焼けた臭いが立ち込めた。


「完璧だ!これなら実戦でも通用する!」


クッキーが歓声を上げ、空中で何度も回転した。その喜びようは本物だった。教官として、教え子の成長を心から喜んでいる。


だが、その瞬間、俺の中で何かが決まった。


『今よ、クルーシブ。チココを呼び出しなさい。私の力を見せつけるの』


妖精の囁きが、俺の決意を固める。


「クッキー、チココを呼んでくれ。ここまで来させろ。俺の成果を見せたい」


「え?なんで?」


クッキーは困惑した表情を見せた。


「俺がどれだけ強くなったかを見せてやりたいんだ」


『そうよ。あの男に私たちの力を見せつけてやりましょう』


クッキーは釈然としない様子だったが、最終的には俺の要望を受け入れた。通信魔法でチココに連絡を取る。


しばらくして、空の向こうから人影が飛んでくるのが見えた。チココだ。相変わらず片手にピザボックスを持ち、もう片方にクラッカーの袋を抱えている。


「クルーシブさん、調子はどうだい?成果を見せてくれるって?」


チココは着地すると、いつものように軽い調子で話しかけてきた。手にはいつものようにピザとクラッカーを持っている。


『今よ、クルーシブ。あの男に一撃を』


「これが修行の成果だ!」


俺はチココに向けて溶鉱炉の妖精の力を発動させた。暗赤色の光線がチココに向かって真っ直ぐ飛んでいく。


しかし、チココは慌てることなく軽く手を振った。すると、俺の攻撃の前に何重もの防御魔法陣が展開された。光線は魔法陣に阻まれ、霧散してしまう。


「これが本気の防御だよ。君の攻撃の十倍の威力でも貫通は難しいかな」


チココは余裕の表情で言った。ピザを頬張りながら、まるで子供の遊びを見ているかのような態度だ。


俺の絶望を感じ取ったのか、クッキーが前に出てきた。


「クルーシブ、落ち込むな。君の成長は確実だ。ただ、相手が悪すぎる」


クッキーの口調は完全にヴィクターのものだった。教官として、生徒を励まそうとしている。


チココは防御魔法を解除すると、満足そうに頷いた。


「でも、本当にすごいよ、クルーシブさん。短期間でここまで溶鉱炉の妖精を操れるなんて!君なら騎士団の新たな戦力として期待できそうだ」


チココは崖の端から街の方向を眺めながら続けた。遠くに見える難民区の街並みを指差す。


「もっと訓練を積んで、騎士団のために力を使ってくれ。エリアナさんの意思を継いで、新しい精鋭部隊を率いてもらいたいんだ。彼女が守ろうとしたこの国のためにも」


その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが弾けた。


血が逆流するような怒りが、全身を駆け巡る。


「エリアナの意思を継ぐ?」


俺の声は低く、怒りに震えていた。拳を握りしめ、爪が掌に食い込む。


「お前が殺したエリアナの意思を、お前のために使えというのか?」


『クルーシブ、あの男の偽善に騙されてはダメよ』


エリアナの声が俺の怒りを煽る。


「ふざけるな!」


俺の怒りが限界を超えた。体の奥底から今まで感じたことのない力が湧き上がってくる。溶鉱炉の妖精が暴走し始めたのだ。全身から黒い霧が立ち上り、周囲の空気が震え始める。


「チココォォォ!!」


俺は叫びながら、今まで以上の威力の攻撃を放った。暗赤色の光線は先ほどの倍以上に太くなり、周囲の岩を溶かしながらチココに向かっていく。だが、その軌道は真っ直ぐではなかった。街の方向に歩き始めていたチココを狙い、必然的に光線は街の方向へと向かっていく。


「クルーシブ!やめろ!街に被害が出る!」


クッキーが慌てて俺とチココの間に割って入った。小さな体を精一杯広げて、光線を止めようとする。


だが、俺は攻撃を止めなかった。いや、止められなかった。怒りと憎悪が理性を焼き尽くし、クッキーごと貫くつもりで、そのまま光線を放ち続ける。


「え?!クルーシブ!」


クッキーが驚愕の声を上げた。まさか自分ごと攻撃してくるとは思わなかったのだろう。恩師を殺そうとする教え子の姿に、小さな体が恐怖で震えた。


その瞬間、チココが咄嗟の判断を下した。


「クッキー、危険だ!」


チココは自分に向けるはずだった防御魔法を、瞬時にクッキーに向けて展開した。複雑な術式が一瞬で完成し、本来なら自分を守るはずだった強力な障壁が、クッキーを包み込む。


さらにチココは、街に向かおうとする俺の攻撃を腐海の方向に弾き飛ばすために、偏向魔法まで使った。両手を広げ、全魔力を注いで光線の軌道を変えようとする。


しかし、それは致命的な選択だった。クッキーと街を守ることに全ての魔力を使った結果、チココ自身は完全に無防備になってしまったのだ。


俺の攻撃の余波が、防御のないチココに直撃した。暗赤色の光が彼の体を包み込み、凄まじい衝撃が襲いかかる。


「ぐあっ!」


チココは苦悶の声を上げながら、強烈な衝撃で腐海の方向に向かって吹き飛ばされていった。鎧が砕け、血が舞い、その姿は瞬く間に霧の向こうへ消えていく。


一方、チココの防御魔法に守られたクッキーは、その場に無傷で残っていた。


静寂が、崖上を支配した。


「チココ様!」


クッキーが絶叫する。遠く腐海の方向に消えていくチココの姿を見つめながら、その小さな体が怒りで震え始めた。


俺も我に返った。確かに攻撃は通ったが、それはチココが自分を犠牲にしてクッキーと街を守ったからだった。もしチココが自分だけを守っていれば、俺の攻撃は簡単に防がれていただろう。


『まあ、結果オーライね。あの男は排除できたわ』


エリアナの声が冷たく響く。だが、その声にも一抹の動揺が含まれているように感じた。


俺は振り返ると、クッキーがこれまで見たことのない怒りの表情を浮かべているのが見えた。チココを守れなかった自分への怒りと、俺への憎悪が混ざり合った表情だった。普段の無邪気な姿は完全に消え失せ、そこにいるのは激怒した鬼教官ヴィクター・ドレッドノットだった。


「クルーシブ!なぜチココ様を攻撃したの!?」


クッキーの声は、もはや幼い子供のものではなく、完全にヴィクターの怒りに満ちた声だった。

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