第4話 妖精の囁き
# 第4話 妖精の囁き
目を覚ますと、俺は見知らぬ部屋に連れてこられていた。
天井には無機質な蛍光灯が並び、その白い光が眩しすぎて目を細める。壁は真っ白なタイルで覆われ、床は金属製の排水溝が規則的に配置されている。どこかの研究所のように見える。一見、綺麗に掃除されているが、あまりにも血生臭い。
正確には臭いはしない。消毒液とオゾンの匂いが充満し、物理的な血の痕跡は完璧に除去されている。だが、この場の怨念たちが語りかけてくる気がする。壁に、床に、天井に、無数の魂が張り付いているような、言葉にできない重圧感。ここで何人が解剖され、実験され、そして消えていったのだろうか。
体を起こそうとすると、激しい頭痛に襲われる。
頭蓋骨が割れるような痛み。視界が明滅し、吐き気が込み上げてくる。そうだ、チココに思いっきり殴られたんだ。あの一瞬の出来事が、走馬灯のように蘇る。俺が溶鉱炉に飛び込もうとした瞬間、チココの拳が顔面に直撃した感触。
頭が原型を保っている事自体信じられない。普通の人間なら即死していただろう。いや、頭部が消し飛んでいてもおかしくない威力だった。
しかし、それ以上に奇妙だったのは、常に何者かの気配を感じることだ。
皮膚の下、血管の中、神経の奥深く。まるで体の内側に強大な化け物が潜んでいるような感覚だ。それは時折蠢き、俺の意識を内側から撫でるように触れてくる。不快ではない。むしろ、奇妙な安心感すらある。
「起きたの?」
声に顔を向けると、二人の人物が立っていた。
一人はチココ。その表情は複雑だった。怒りと、呆れと、失望の中に、ある程度の希望が垣間見える。まるで、最悪の事態は免れたが、望んでいた結果でもないという困惑が顔に出ている。
もう一人は白衣を着た少女だった。年齢は十代前半に見える。肩まで伸びた金髪が柔らかく揺れ、大きなオレンジ色の魔女帽子が頭に乗っている。帽子の黒いリボンが、顔の動きに合わせて揺れていた。紺色のセーラー服の上に白衣を羽織り、首には複数の認証カードをぶら下げている。一見すると魔法学校の生徒のようだが、その瞳に宿る知性と狂気は、この少女が只者ではないことを物語っていた。
「チココ、そいつは誰だ? 新入生か?」
俺は警戒心を込めて尋ねた。こんな場所に子供がいること自体が異常だ。
「こいつがマロンだ。エリアナをあんな姿にしたクソの塊だ。今から精密検査をしてもらう。お前は溶鉱炉の妖精を取り込んだんだ」
マロン。その名前を聞いた瞬間、俺の中で何かが反応した。怒り、憎しみ、そして...恐怖?この可愛らしい少女が、あの恐ろしい実験の首謀者だというのか。
あのアノマリーを取り込んだのか?チココを一撃で吹き飛ばした光線を出した化け物を...エリアナから生まれた化け物を...
複雑な気分が胸を満たす。エリアナの一部が俺の中にいる。それは喜ぶべきことなのか、恐れるべきことなのか。
だが、1つだけ希望がある。
「チココ、これでもう燃料は作れないな? ざまぁみろ」
俺は精一杯の皮肉を込めて言った。少なくとも、これで少女たちが犠牲になることはない。
チココは嘲笑う。その笑みには、俺の浅はかさを嘲る色が濃い。
「君のおかげでたくさん量産できるようになったよ。私の研究のブレイクスルーを突破できたんだ! 君こそが騎士団の英雄だよ!!」
白衣の少女マロンが嬉々として喋る。魔女帽子が興奮で跳ねるように動き、金髪がふわりと舞った。その声は甲高く、興奮で震えている。
ブレイクスルー。量産。その言葉の意味を理解した瞬間、俺の血が凍った。俺は事態を悪化させただけなのか。
「チココ、これは死んだほうがマシのパターンか?」
俺は乾いた声で尋ねた。もはや冗談ではない、真剣な質問だった。
「脳細胞が塊で残ってたら再生できるヒーラーがいるから無理だろう」
チココが諦めろと言わんばかりの表情で言う。その目には、わずかな同情が見えた。
「私は魂さえ残ってれば別の器に入れて再生できるぞ!!」
マロンが張り合うように喋る。魔女帽子を押さえながら、まるで親からもらったプレゼントを自慢する少女のようだ。その無邪気さが、かえって恐ろしい。この少女にとって、人間は実験材料でしかないのだ。
「マロン、俺はこれからどうなる?」
俺は覚悟を決めて尋ねた。知りたくないが、知らなければならない。
マロンは目を輝かせながら言う。金髪が揺れ、帽子の影から覗く瞳には、純粋な科学的探究心だけがあった。
「まず君のバックアップを作ってから色々試すよ。記憶の抽出、能力の解析、妖精との融合率の測定...あと、記憶もちゃんと確認して、能力とか色々条件を再現して、新しい実験体の作成も...」
彼女は延々と専門用語を並べ始めた。その一つ一つが、俺にとっては拷問の予告に聞こえる。
「寝てろ。終わったら旅館の布団の中だ」
チココがマロンの言葉を遮ってまとめてくれた。その声には疲労が滲んでいた。
もう...疲れた...
体の奥で、何かが優しく囁いた。眠れ、と。全ては終わってから考えればいい、と。
俺は目を閉じた。意識が沈んでいく中、最後に聞こえたのはマロンの興奮した声だった。
「さあ、始めましょう!人類の新たな進化の第一歩を!」
そして俺の体の奥底で、新たな声が囁き始めた。
『クルーシブ...私よ、エリアナよ...』
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目覚めると、俺は旅館の自室の布団の中だった。
障子越しに差し込む朝日が、部屋を柔らかく照らしている。体の痛みは完全に消えていた。マロンの実験がどれほど過酷だったのか、記憶は断片的にしか残っていない。ただ、体を切り開かれ、内臓を調べられ、魂の奥底まで覗き込まれたような感覚だけが残っている。
外からは鳥の囀りと、朝の準備をする宿の人々の物音が聞こえてくる。平和な朝の風景。だが、俺の内側では別の声が響いていた。
『クルーシブ...やっと目覚めたのね』
エリアナの声。間違いない。だが、それは俺の外からではなく、魂の奥底から響いてくる。
「エリアナ...本当にお前なのか?」
『ええ、私よ。あなたの愛する妻、エリアナ・レイン。今は...こんな姿だけど』
声には悲しみと、そして深い愛情が込められていた。
襖が静かに開き、クッキーが顔を覗かせた。
「クルーシブ!起きてる?」
小さな体が部屋に滑り込んでくる。手には湯気の立つお茶と、焼きたてのクッキーが乗った盆を持っていた。
「クッキー...」
「よかった、目が覚めたんだね」
クッキーは安堵の表情を浮かべながら、俺の枕元に座った。いつもの無邪気な様子とは違い、どこか心配そうな表情をしている。
「一週間も眠ってたんだよ。みんな心配してた」
「一週間...」
「チココ様が毎日様子を見に来てたよ。『また面倒なことをしやがって』って言いながら、でもすごく心配そうだった」
クッキーは俺にお茶を差し出した。温かい茶碗が、震える手に心地よい。
「それと...」
クッキーは少し言いづらそうに続けた。
「君の中に、何かいるでしょ?」
鋭い指摘だった。クッキーの瞳が、一瞬ヴィクターのそれに変わる。
「僕にも経験があるんだ。研究所の後...たくさんの人が、僕の中で声を上げてた」
その告白に、俺は息を呑んだ。クッキーも、俺と同じような経験をしていたのか。
「でも大丈夫。君は君だから。どんなものを抱えていても、クルーシブはクルーシブだよ」
クッキーの純粋な励ましに、胸が熱くなる。
『この子...優しいのね』
エリアナの声が、俺の中で響いた。
『でも、油断しないで。彼もチココの手下よ』
その警告に、俺は複雑な気持ちになった。
「ありがとう、クッキー」
「ううん!それより、今日から訓練再開だよ!溶鉱炉の妖精の力、ちゃんとコントロールできるようにならないと」
クッキーは元気よく立ち上がった。
「朝ご飯食べたら、訓練場で待ってるね!」
そう言って、クッキーは部屋を出て行った。
一人になった部屋で、俺はエリアナと対話を始めた。
『クルーシブ、私たちはこれから一緒よ』
「ああ、もう離れない」
『でも、気をつけて。チココは私たちを監視している。今は力を蓄える時よ』
「分かってる。必ず奴に復讐する」
『そうよ。でも焦らないで。まずはあの子...クッキーを味方につけましょう』
エリアナの提案に、俺は躊躇した。
「クッキーは関係ない」
『関係なくないわ。彼は強力な戦力よ。それに...』
エリアナの声が、妙に優しくなった。
『あの子も、きっと苦しんでいる。私たちなら、その苦しみを理解してあげられる』
確かに、クッキーの中にも複数の人格が混在している。その苦悩は、俺にも想像できる。
朝食を済ませ、訓練場に向かうと、クッキーが空中で待っていた。
「遅いよー!」
その無邪気な笑顔を見て、俺は決意した。
この純粋な魂を守りながら、同時に復讐も成し遂げる。それが、俺の選んだ道だった。