第17話 死闘の果てに
# 第17話 死闘の果てに
クッキーと少女たちが去ってから、約五分が経過した。
廊下の奥から聞こえていた泣き声も、今は完全に消えている。十分な距離を取ったことを確認したのか、パールヴァティが動いた。
「じゃあ、始めようか」
彼女は鉄球を構えた。黒い球体の表面に刻まれた紋様が、淡く光り始める。
「これの威力、身をもって体験してもらうよ」
鉄球が俺に向かって投げられた。
ただの投擲ではない。魔力を纏い、弾丸のような速度で飛来する。空気を切り裂く音が、甲高く響いた。
俺は横に跳んで回避した。
鉄球は壁に激突し、爆発した。
轟音と共に、白い光が部屋を満たす。
まるで小さな太陽が生まれたかのような、圧倒的な輝き。
その光に触れた瞬間、俺の体が焼けるような痛みに襲われた。
「ぐあああ!」
思わず叫び声が漏れる。
皮膚が焼け爛れ、触手が蒸発していく。黒い煙が立ち上り、焦げ臭い匂いが充満する。
触手が光に触れた部分から溶け始めている。
まるで強酸に触れたかのように、ジュウジュウと音を立てて消滅していく。
これが、対アノマリー特効の力か。
チココの聖なる魔力が、俺の妖精の力を根本から否定している。
「どう?効いてるでしょ?」
パールヴァティは新たな鉄球を取り出した。
彼女の表情は冷酷そのものだ。
「まだまだあるよ」
二発目が飛んでくる。
今度は触手で防御しようとしたが、触れた瞬間に触手が消滅した。
まるで存在そのものを否定されたかのように、跡形もなく消える。
爆発の余波が俺を襲い、体のあちこちが焼け爛れる。
服が焼け、皮膚が炭化していく。
「はあ...はあ...」
膝をついた俺を見下ろし、パールヴァティは冷たく言った。
「どうした?もう終わりか?」
彼女の声には、一切の同情がない。
先ほどまでの怒りすら消え、ただ冷徹な殺意だけがある。
俺は立ち上がろうとするが、体が言うことを聞かない。
ダメージが予想以上に大きい。妖精の再生能力でも、聖なる力によるダメージは回復が遅い。
『クルーシブ、あの力を使って』
エリアナが囁く。彼女の声にも焦りが混じっている。
『クッキーから奪った、チココの魔力を』
そうだ。
クッキーの魂を取引した時、一緒に奪い取ったチココの魔力。
回復魔法が使えるはずだ。
俺は意識を集中させた。
体の奥底に眠る、もう一つの力を呼び覚ます。
淡い光が俺の体を包み、傷が癒されていく。
焼け爛れた皮膚が再生し、千切れた触手が生え直す。聖なる力同士が反発し合い、激しい痛みを伴いながらも回復していく。
「なっ...!」
パールヴァティが目を見開いた。
彼女の顔に、初めて動揺の色が浮かぶ。
「回復魔法だと!?暗殺職のお前が何で!?」
彼女の驚愕は当然だ。暗殺職が聖職者の魔法を使うなど、通常ではあり得ない。
俺はゆっくりと立ち上がった。
まだ完全ではないが、戦闘を続けるには十分だ。
「さあ、続きをやろうか」
パールヴァティの顔が険しくなった。
彼女の計算が狂ったのだろう。
「チッ...面倒なことになったな」
彼女は残りの鉄球を確認する。
まだ10個以上はあるようだ。黒い球体が、不吉に彼女の手の中で転がる。
「でも、回復にも限界があるだろ?」
パールヴァティは不敵に笑った。
その笑みには、確信が宿っている。
「消耗戦なら、私の方が有利だ」
彼女の言う通りだった。
回復魔法は多大な魔力を消費する。俺の魔力も無限ではない。
無限に使えるわけではない。
だが、俺にも考えがあった。
「試してみるか?」
俺は挑発的に言った。
虚勢かもしれないが、弱みは見せられない。
パールヴァティは答える代わりに、三発同時に鉄球を投げた。
三方向からの同時攻撃。左右と正面から、白い光を纏った死の球体が迫る。
俺は床を蹴り、真上に跳躍する。
天井近くまで跳び上がり、攻撃を回避する。
しかし、それは読まれていた。
「そこだ!」
パールヴァティが上空に向けて更に鉄球を投擲。
俺の着地点を正確に予測した一撃。
空中では回避が困難だ。
体を捻ろうとするが、重力には逆らえない。
俺は触手を盾にするが、やはり一瞬で消滅する。
聖なる光が、俺の防御を無効化していく。
爆発に巻き込まれ、俺は床に叩きつけられた。
背中から落下し、肺から空気が押し出される。
全身が焼け爛れ、意識が遠のきそうになる。
視界が明滅し、耳鳴りが響く。
だが、俺は諦めない。
歯を食いしばり、意識を繋ぎ止める。
再び回復魔法を使い、立ち上がる。
光が体を包み、傷が少しずつ塞がっていく。
「しつこいな」
パールヴァティが舌打ちする。
彼女の苛立ちが、表情に表れ始めていた。
こうして、壮絶な消耗戦が始まった。
パールヴァティは鉄球を投げ続け、俺はそれを回避しつつ反撃を試みる。
避けきれない攻撃は回復魔法で耐える。
部屋は既に原型を留めていない。
壁は崩れ、床は穴だらけ。天井も半分が崩落している。
時間が経つにつれ、両者の疲労が色濃くなっていく。
パールヴァティの動きが、わずかに鈍り始めた。
投擲の精度が落ち、呼吸が荒くなっている。
鉄球の残数も少なくなってきている。
彼女の手元には、もう数個しか残っていない。
一方、俺の魔力も底を尽きかけていた。
回復魔法の効果も薄れてきている。傷の治りが遅くなり、疲労が蓄積していく。
「はあ...はあ...」
「ぜえ...ぜえ...」
俺たちは距離を取って、互いを睨み合った。
どちらも満身創痍。あと一撃で、勝負が決まるかもしれない。
「タフな奴だ」
パールヴァティが汗を拭いながら言った。
彼女の額には、大粒の汗が浮かんでいる。
「正直、ここまでやるとは思わなかった」
「お前もな」
俺は返した。声が掠れている。
「さすがはロイヤルパラディン」
パールヴァティは苦笑した。
その笑みには、僅かな敬意すら含まれているように見えた。
「褒められても嬉しくないね」
彼女は最後の鉄球を取り出した。
震える手で、黒い球体を掲げる。
「これで最後だ。決着をつけよう」
俺も覚悟を決めた。
残された魔力を全て、次の一撃に賭ける。
『頑張って、クルーシブ』
エリアナが応援する。彼女の声も、疲労の色が濃い。
『もう少しよ』
パールヴァティが構えを取った。
腰を落とし、全身のバネを使って投擲の準備をする。
俺も妖精の力を限界まで引き出す。
体中の触手が蠢き、暗赤色のオーラが立ち上る。
一瞬の静寂。
風が止まり、時間が凍りついたような錯覚。
そして、両者が同時に動いた。
パールヴァティの鉄球が、回転しながら飛来する。
今までで最速、最強の一撃。
俺は正面から、全ての力を込めた光線を放った。
ありったけの魔力を注ぎ込んだ、必殺の一撃。
鉄球と光線が空中でぶつかり合う。
凄まじい衝撃波が発生し、部屋全体が振動する。
窓ガラスが全て砕け散り、壁に新たな亀裂が走る。
「うおおおお!」
「はああああ!」
互いの叫び声が重なる。
力と力の真正面からのぶつかり合い。
光と闇が激突し、空間が歪む。
どちらが勝つか、一瞬の均衡が続く。
均衡は長く続かなかった。
鉄球に込められた聖なる力が、徐々に光線を押し返し始める。
白い光が、暗赤色の光線を侵食していく。
「くっ...!」
このままでは押し負ける。
俺の額に、冷や汗が流れる。
その時、俺は賭けに出た。
光線を維持したまま、隠していた触手を床下から伸ばす。
部屋の瓦礫の下を通り、パールヴァティの死角から忍び寄る黒い触手。
パールヴァティは力の押し合いに集中していて、足元への注意が疎かになっていた。
全ての意識が、正面の攻防に向けられている。
触手が彼女の足首を掴む。
細い足首に、黒い触手が巻き付いた。
「しまっ...!」
一瞬の隙が生まれた。
集中が途切れ、魔力の流れが乱れる。
俺はその隙を逃さず、全魔力を解放した。
最後の力を振り絞り、限界を超えて魔力を注ぎ込む。
光線が一気に膨れ上がり、鉄球を押し返す。
暗赤色の奔流が、白い光を飲み込んでいく。
そして、パールヴァティに直撃した。
「ぐあああああ!」
彼女の絶叫が響く。
全身が光線に包まれ、凄まじい衝撃で吹き飛ばされる。
光線に呑まれ、パールヴァティは壁まで吹き飛ばされた。
いや、壁を突き破って、更に奥の部屋まで飛ばされていく。
壁に大きな亀裂が入り、瓦礫が降り注ぐ。
コンクリートの破片が、雨のように降ってきた。
煙が晴れると、そこには血まみれのパールヴァティが倒れていた。
壁にもたれかかるように座り込み、ピクリとも動かない。
服はボロボロに焼け、体中から血が流れている。
呼吸も、していないように見える。
「はあ...はあ...やった...か?」
俺は膝をつきながら呟いた。
全魔力を使い果たし、立っているのがやっとだ。
しかし、次の瞬間、パールヴァティが咳き込んだ。
血を吐きながら、小さく体を震わせる。
まだ生きている。
「げほっ...げほっ...」
血を吐きながら、彼女はゆっくりと上体を起こした。
震える手で、壁を支えにして。
「まさか...負ける...とはな...」
パールヴァティは自嘲的に笑った。
血で染まった唇が、力なく歪む。
「完敗だ...」
彼女の目に、もはや戦意は残っていない。
ただ、死を受け入れた者の静かな諦観があるだけ。
俺は彼女に近づいた。
重い足を引きずりながら、一歩一歩。
とどめを刺すつもりだった。
これ以上、時間を無駄にはできない。
しかし、パールヴァティは抵抗しなかった。
武器を取ろうともせず、ただ俺を見上げている。
「なあ...クルーシブ...」
彼女の声は掠れていた。
喉が焼けているのか、言葉を紡ぐのも辛そうだ。
「本当に...これでいいのか...?」
「何を今更」
俺は冷たく返した。
「お前は...もう戻れない...」
パールヴァティは悲しそうに言った。
その瞳に、憐れみの色が浮かんでいる。
「でも...まだ...やり直せる...」
「黙れ」
俺は触手を彼女の首に巻きつけた。
黒い触手が、細い首を締め上げていく。
パールヴァティは目を閉じた。
抵抗する気配は、微塵もない。
「そうか...なら...好きにしろ...」
彼女は静かに死を受け入れている。
なぜ、最後まで抵抗しないのか。
俺は触手に力を込めた。
パールヴァティの首が締まり、顔が紅潮していく。
苦しいはずなのに、彼女は暴れようともしない。
「ぐっ...」
苦しそうな声が漏れる。
それでも、彼女は抵抗しない。
だが、彼女は最後まで抵抗しなかった。
ただ、俺を見つめていた。
その瞳には、怒りも憎しみもなかった。
あったのは、憐れみのような感情。
なぜ、俺を憐れむ?
なぜ、最後まで俺を見つめる?
その眼差しに、俺の手が止まった。
「なぜ...抵抗しない...」
俺は問いかけた。
理解できない。なぜ、死を受け入れる?
パールヴァティは苦しそうに、それでも言葉を紡いだ。
掠れた声で、途切れ途切れに。
「お前が...可哀想...だから...」
その言葉に、俺の中で何かが壊れた音がした。
ガラスが砕けるような、乾いた音。
俺を、可哀想だと?
復讐者である俺を、憐れんでいるのか?
『殺しなさい!早く!』
エリアナの声がヒステリックに響く。
彼女の焦りが、直接俺の神経を刺激する。
『何を躊躇ってるの!終わらせなさい!』
俺は震える手で、触手に最後の力を込めた。
そして...
パールヴァティの体から、力が抜けた。
彼女の瞳から光が消え、体が崩れ落ちる。
首を絞められていた体が、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
ロイヤルパラディン、パールヴァティ・ラーメンジー。
享年24歳。
シュトロイゼル騎士団が誇る天才忍者は、こうして息を引き取った。
俺は呆然と、彼女の亡骸を見下ろしていた。
勝った。
確かに勝った。
強敵を倒し、復讐への道を一歩進めた。
だが、なぜか虚しさだけが胸に広がっていく。
まるで、大切な何かを失ったような空虚感。
『よくやったわ、クルーシブ』
エリアナの声が響く。
彼女の喜びが、俺の虚無感と対照的だ。
『これでチココへの道が開けた』
そうだ。
これは通過点に過ぎない。
本当の敵は、チココなのだから。
全ては、エリアナのため。
愛する妻の復讐のため。
俺は重い足取りで、研究所を後にしようとした。
だが、その時——
大地が震えた。
いや、震えたのは大地だけではない。
空気が、魔力が、世界そのものが震撼している。
そして、途方もない咆哮が響いてきた。
「グオオオオオオオ!!」
それは怒りと悲しみが入り混じった、獣のような叫びだった。
理性を失った、純粋な感情の爆発。
同時に、信じられないほど巨大な魔力が爆発的に膨れ上がるのを感じた。
まるで、山が動き出したかのような、圧倒的な存在感。
「これは...」
俺は息を呑んだ。
この魔力、この怒り。間違いない。
『チココよ』
エリアナの声にも緊張が走っていた。
彼女の恐怖が、俺の背筋を凍らせる。
『パールヴァティの死を感じ取ったのね。怒り狂っているわ』
大地が震え、建物の壁に亀裂が走り始めた。
ただの魔力の余波だけで、これほどの破壊力。
天井から瓦礫が降り注ぎ、床が波打つ。
「まずいな...」
俺は立ち上がろうとしたが、体が言うことを聞かない。
先ほどの戦闘で、魔力も体力も使い果たしていた。
もはや、立つことすら困難だ。
『早く逃げましょう!』
エリアナが焦ったように言う。
彼女の恐怖が、ひしひしと伝わってくる。
『このままじゃ、チココに追いつかれる!』
巨大な魔力の塊が、恐ろしい速度でこちらに向かってくるのが分かった。
怒り狂ったチココが、全速力で突進してきているのだ。
まるで、隕石が落下してくるような圧迫感。
「だが、この体じゃ...」
俺はクッキーの小さな体を見下ろした。
飛行能力はあるが、チココの速度には到底及ばない。
疲労困憊の今、逃げ切れる可能性は限りなく低い。
『パールヴァティの体は諦めて!早く!』
エリアナが必死に促す。
彼女の声は、もはや悲鳴に近い。
だが、その時、俺にある考えが浮かんだ。
最後の賭け。生き延びるための、唯一の方法。
「いや、待て」
俺はパールヴァティの亡骸に目を向けた。
血まみれで横たわる、かつての強敵。
「彼女の体を使えばいい」
『え?』
エリアナが困惑の声を上げる。
「パールヴァティの短剣ワープ技術だ。あれなら、一瞬で遠くまで逃げられる」
彼女の能力。短剣を投げた場所に瞬間移動する、忍者の奥義。
エリアナが理解したようだった。
『なるほど...でも、体を乗り換えるには時間が...』
「やるしかない」
俺は決断した。
もはや、他に選択肢はない。
妖精の力を使い、黒い触手をパールヴァティの体に侵入させる。
死んだばかりの体は、まだ温かい。血の匂いが、鼻をつく。
魂は既に去っているが、肉体の機能はまだ生きている。
細胞は、まだ完全には死んでいない。
触手が神経系統に接続し、筋肉を掌握していく。
血管に入り込み、臓器を支配していく。
「ぐっ...」
激痛が走った。
他人の体を乗っ取るのは、想像以上に苦痛を伴う作業だった。
拒絶反応が起き、全身が痙攣する。
だが、止めるわけにはいかない。
しかし、時間はない。
チココの魔力が、どんどん近づいてくる。
地鳴りが大きくなり、建物全体が崩壊し始める。
『急いで!』
エリアナの声が悲鳴に近くなっていた。
彼女の恐怖が、俺を急き立てる。
俺は歯を食いしばり、最後の力を振り絞った。
意識を集中し、パールヴァティの体と同調していく。
そして...
パールヴァティの体が、ゆっくりと起き上がった。
「成功...したか」
声も彼女のものだった。
高い、女性の声。自分の声ではない違和感。
違和感はあるが、体は完全に制御下にある。
筋肉も、反射神経も、全てが俺のものとなった。
俺は素早くパールヴァティのアイテムボックスから短剣を取り出した。
絶対に命中する槍にくくりつけられた、ワープ用の短剣。
黒い刃が、微かに魔力を帯びている。
「行き先は...」
一瞬迷ったが、答えは明白だった。
次の標的の元へ。
「ボリスの館だ」
エリアナを見殺しにした、あの卑怯者の元へ。
俺は短剣を投げた。
短剣は空間を切り裂き、瞬時に消えた。虚空に吸い込まれるように。
次の瞬間、俺の体も空間に吸い込まれるように消失した。
最後に見えたのは、崩壊する研究所と、遠くから迫る巨大な魔力の奔流だった。