第1話 左遷
# 第1話 左遷
夜闇に紛れて、俺は標的の背後に迫った。
「クルーシブ・レイン、任務完了」
淡々と通信機に報告しながら、俺は銀灰色の髪を風になびかせ、鋭い眼光で周囲を確認する。夜のように闇に染まった外套を翻し、足音も立てずに影の中へと消えていく。
赤黒い血が石畳を伝って流れていく光景を、俺は無表情で眺めていた。標的の頸動脈から滴る血。もう敵はいない。俺の仕事は常にこうだった。確実に、無駄なく、そして何も残さない。
シュトロイゼル騎士団暗殺部隊の精鋭として、俺は数々の任務を完璧にこなしてきた。狙撃と援護射撃に特化した暗殺者として、同僚たちからも一目置かれる存在だった。任務成功率は99%を超えていた。
だが、それから12時間後——俺の世界は激変した。
「配置転換だと?」
俺は怒りを抑えきれず、机を叩いた。配属通知書には「隔離難民区・聖ロザリオ少女騎士学園の補佐教員」という役職が記されている。学園と書かれているが、実際は強制的にレベルを上げる薬を投与して騎士団員を作るための施設だと聞いている。
これは事実上の左遷だった。暗殺部隊の精鋭から、遠隔地の施設の管理職へ。どう考えても降格処分だ。
「何かの間違いだろう。昨夜の任務も完璧に遂行した。報告書も既に提出している」
「申し訳ありません、レイン殿。これはパールヴァティ様の署名と、ノーブレット卿の推薦による正式な辞令です」
事務官は平謝りしながらも、厳然たる事実を述べるだけだった。俺は歯を食いしばった。パールヴァティ・ラーメンジーとボリス・ノーブレット。この二人の名前を聞いただけで、血が煮えたぎる。
パールヴァティは同じ暗殺職でありながら忍者に派生した戦闘特化型で、今やロイヤルパラディンの地位にある。そしてボリス——あの無能な三男坊が、なぜ俺を陥れる必要があるのか。
「誰か詳しいことを知らないか?」
俺は同僚の暗殺部隊員に尋ねた。
「ついにチココ様にも嫌われたんだろ? コネだけの豚のボリスの薄っぺらい報告なんて誰も信じないと思ってたのに」
「パールヴァティ隊長の報告書なんて、自分がどれだけすごいか、自分以外はどれだけ無能なのか書いてあるだけだから、チココ様は読まずに捨ててるはずなのにな」
同僚たちはゲラゲラ笑い出した。そうだ、俺は同僚からも嫌われていた。こいつらはバカだから騎士団の訓練通りにしか行動できない。俺がすべてを終わらせる頃にようやく現場に到着するような連中だ。
ここにいたら無能共の笑い声で頭がおかしくなる。俺は騎士団長のチココに直談判するべく騎士団長室に向かった。
階段を上りきったところで、不意に声が聞こえてきた。
「本当に素晴らしい働きぶりだったよ、パールヴァティ君。例のレストランでお食事でどうかね」
その声の主はボリス・ノーブレットだった。俺は壁に身を寄せ、息を殺した。
「え、あのレストランの予約が取れたんですか!?」
キャバ嬢と化しているパールヴァティ隊長もいるようだ。
「あそこは一年先まで予約でいっぱいと聞きますが」
「心配するな。私の名前を出したらすぐなんとかしてくれたよ。チココ様にも認めていただいたことだし、祝杯を上げなければ」
「それと、レストランの日は私の誕生日で、このブランドバッグの発売日なんです」
「あはは、領民共から絞り上げた分があるからな。すぐに全色用意させよう」
またしても、ボリスがパールヴァティ隊長にカモられている。かわいそうに。パールヴァティは何人もの男を食い物にした魔性の女だ。あいつの誕生日は、ブランド物や高級車が発売されるたびに来るらしい。
しかし、次に聞こえた言葉で、俺の血は氷のように冷たくなった。
「これでクルーシブを始末できて一件落着だろう。あの方からは事故に見せかけてほしいと言われたからな。まさか、部下を置いて逃げ出したところが監視カメラに映ってるなんて思わんかった」
「え、あんな場所に監視カメラを設置してたんですか? そんな経費を使うぐらいなら給料増やしてほしいです」
「全くだよ。あの方の言いなりになってしまった。バレたら私の首が物理的に飛ぶだけではすまんからな。クルーシブが自分の妻のことを調べだしたら、すぐ私にまでたどり着くではないか。クルーシブの妻エリアナの部隊の避難路を確保しておくのが私の役目だったのだから」
その言葉に、俺の頭に血が上った。
決して聞いてはならない言葉、触れてはならない傷を、ボリスは容赦なく暴いた。研究所事件——妻エリアナを失った日。そしてボリスが逃げ出し、彼女を見捨てた日。
一ヶ月前の悲劇が脳裏に蘇る。アノマリー討伐任務に向かったエリアナの部隊。帰らぬ人となった愛する妻。爆発事故で遺体も見つからず、遺灰だけが俺の元に帰ってきた。
しかし、今聞いた話は全く違う。ボリスが避難路を確保する役目だった? 部下を置いて逃げ出した? 監視カメラ?
「事故」ではなかったのか?
理性が崩壊する瞬間、誰かに腕を掴まれた。桁違いの力で全く動けない。
「盗み聞きするなんてずいぶん趣味がいいんだね? クルーシブさん」
そこに立っていたのはシュトロイゼル騎士団長、チココ・スターアニス本人だった。人間だと30歳前後に見える青年の姿だが、カーバンクルの獣人族なので実際は330歳らしい。大量のクラッカーとピザを運びながら喋りかけてくる。
部屋の中では、パールヴァティとボリスは凍りついたように動きを止め、数秒間の沈黙が流れた後、後頭部を強打され気絶したボリスを連れて、パールヴァティが出てきた。
「チココ団長!研究所の一件の首謀者を捕まえました。団長も聞かれていたでしょう!こいつが元凶です」
チココはピザを頬張りながら返す。
「あんなAIで作った動画に騙される捨て駒を捕まえてどうするんだよ。こいつは今すぐ火あぶりにしてやりたいけど、こいつの領地がなくなると新鮮な海産資源が食べられなくなるんだよ。もっと絞り上げて、代わりの指導者を育て上げるまでは一族郎党火あぶりにできないよ。それまではバレてないように振る舞って」
パールヴァティは、ピザを奪って頬張りながら答える。
「了解しました。あなたの忠実なる親衛隊のパールヴァティは、いつでもチココ様と騎士団の味方です!」
チココは、俺の方にピザボックスを向けて喋る。
「クルーシブさんも聞いてただろ? ボリスはまだまだ処刑できないの。顔を見たくないだろうから、5~6年ぐらい牧場の経営手伝いをやっておいてくれない? 代わりに、給料は上げておくから。あと、エリアナさんの死を受け止められないのはわかるけど手続きはやっておいてね? とっくに期限が過ぎているよ。遺骨がほしいなら、今週中には取りに行きなよ。業務中に行ってもいいから」
俺はチココの態度に怒りで震えだした。
「エリアナを殺しておいて...なんだその...」
俺は銃を抜いてチココに襲いかかったが、何をされたのかわからないうちに制圧された。関節が破壊されたのか毒でも盛られたのかわからないが、手足が全く動かない。なによりも、山積みにされていたピザとクラッカーすら地面に落としていない。ほんの一瞬だった。
戦闘職と暗殺者のクラスの違いがあるとはいえ、あまりにも次元が違いすぎる。
「確かに僕がエリアナさんを殺した。それだけじゃない、たくさんの鎮圧部隊の騎士団員も殺した。だけど、研究所で何人死んだと思ってるの?君の妻のおかげで、エリアナさんのおかげで何人救われたと思ったの? 君たちはより多くの命を守って死ぬために騎士団入ったんだろう? 頭を冷ましたら騎士団室においで」
その言葉の後、すぐに俺の意識が飛んだ。
目を覚ますと、別の日の朝になっていた。手足が動くようになっている。強打されたと思わしき部分がアザになっているので、中身だけは回復魔法で治してくれたのだろう。まだ手足を動かすと激痛が走るが、暴れないようにという警告だろうな。
業務の都合上、回復魔法のスペシャリストを大量に抱えている騎士団では松葉杖など本来必要ない。それなのに、ベッドの横に置いてある松葉杖は、明らかに騎士団では見かけない代物だった。
「チココのクソ野郎め!!」
俺は歯ぎしりしながら松葉杖を手に取り、騎士団室へ向かった。チココの指示に従わない選択肢はなかった。彼の力は俺の想像を超えていた。それに、研究所事件の真相についても聞く必要がある。
騎士団室に着くと、チココは書類を広げたデスクの前で俺を待っていた。いや、正確には待っていたのではなく、ピザの食べかすが散らばった書類の山を前に、窓際で外を眺めながら何かを口にしていた。
「おはよう、クルーシブさん。よく眠れたかい?」
チココは振り返りながら言った。
「ご親切な『治療』のおかげで、最高の目覚めだ」
俺は皮肉を込めて答えた。激痛を堪えながら彼に向き直る。
「話を聞くには完璧なコンディションだろう? 切り替えて、明日からの任務について説明しよう」
そして、チココは俺に真実を語った。
研究所事件は事故ではなかった。マッドサイエンティストのマロンが強制進化薬と呼ばれるウイルスをばらまき、収容中のアノマリーを開放した実験だった。エリアナの部隊は鎮圧に向かったが、ボリスが脱出路を塞いで真っ先に逃げたため、全員がアノマリー化するか死亡した。
そして最後に——チココ自身が、アノマリー化したエリアナを、苦痛から解放するために殺したのだ。
「あの子は...君の大切な人は、最後まで仲間を守ろうとした。誇りに思っていい」
チココの言葉は優しかったが、俺の心には復讐の炎だけが燃え上がった。
愛する妻を奪ったチココ。部下を見捨てたボリス。彼らの罪を償わせなければ、俺の魂は安らげない。
左遷? 結構だ。
新天地で力を蓄え、必ずや復讐を果たしてやる。エリアナの無念を晴らすために。
俺はその日、復讐者として生まれ変わった。