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え!?

放課後の廊下は、部活動のざわめきが少し遠くに聞こえるくらいには静かで、俺の足音がカツン、カツンと響いていた。

美術室の前に立ち、ガラス越しに中を覗く。

そこに――咲良先輩の姿があった。

イーゼルの前で、筆を動かしている。

背筋はまっすぐに伸びていて、足元は揃えられたまま静かに立っている。

姿勢は一切崩れていないのに、どこかやわらかさがあって。

全身が、音を立てずにそこに“ある”感じだった。

集中している時の咲良先輩は、まるでその空間すべてが彼女のものになっているみたいで、独特の空気をまとっている。静かで、でも触れたら消えてしまいそうな、そんな雰囲気。

そして、その日――

咲良先輩は、髪をアップにしていた。

背中までまっすぐ伸びるストレートのロングヘア。

いつもならさらりと流れるその髪が、今日はゆるくまとめられて、後ろでひとつに束ねられていた。

うなじが、すっと見えている。

普段なら髪に隠れてしまう首筋のラインが、光の角度に沿って淡く浮かび上がっていて――まるで、絵の中の一部みたいに綺麗だった。

思わず、息をのんだ。

なんだろう、すごく、大人っぽく見える。

ほんの少し、知らない顔を見た気がした。

咲良先輩は、俺の存在にはまだ気づいていない。

片手でパレットを持ち、もう片方の手に細い筆を取り、静かに手首を動かしている。

筆先はぶれず、運びには迷いがない。

描くべき場所と、そこに必要な色を、最初から決めていたかのような手つき。

一つひとつの動きが丁寧で、そして確信に満ちていた。

その横顔は真剣で、でもどこかやわらかくて――まるで、その絵の中に咲良先輩自身が溶け込んでいるようだった。

描いているのは、夕方の光に照らされた窓辺の一角。

風でレースのカーテンがふわりと揺れて、その奥に、誰かが立っているような構図だった。

差し込む光と影の描き分けが丁寧で、見ているだけで、空気の温度まで伝わってくる。

部屋の匂いや、風の音すら感じられそうな静けさだった。

やがて、筆の動きが止まる。

咲良先輩が、ふっと小さく息を吐いた。

すっと背筋を伸ばしたまま、ほんのわずかに肩が落ちる。

――たぶん、一区切りついたんだろう。

その静かな呼吸までが、どこか美しく感じて、俺はドアに手をかけるタイミングを、一瞬、ためらった。

「先輩、こんにちは」

声をかけると、咲良先輩がゆっくりとこちらを振り返る。

その瞳に浮かんだのは、ほんの一瞬の驚き――

でもすぐに、咲良先輩らしい、ふわりとした空気に戻る。

「……春川くん」

名前を呼ぶ声は、どこか深く安らいだような響きで、

静かな午後の教室に、すっと溶けていった。

俺はイーゼルの横に歩み寄って、咲良先輩の描いていた絵に目をやる。

「まだ途中……ですよね」

「うん、まだ。完成には……遠いけど」

そう言いながらも、咲良先輩は筆先から絵へと、まだ気持ちを残しているような目をしていた。

まるで、途中で話しかけた俺に対してではなく、絵そのものに謝っているみたいだった。

「でも、すごく綺麗です。窓の向こうに、誰かいるみたいで」

「え!」

咲良先輩がぱちくりとまばたきをして、俺をまっすぐに見た。

目線が合った瞬間、その奥に浮かぶのは、驚きと少しの揺らぎ。

まるで、「見られたくなかった何か」を、見透かされたような――そんな戸惑い。

「……なんで、わかったの?」

声は、すこしだけ息を飲んだあとで、低く、柔らかく響いた。

「え?」

「窓の外……そこに“誰かいる”って。まだ描きかけで、形にしてないのに」

咲良先輩の瞳が、わずかに揺れていた。

でもそれは、不安ではなく――自分の中の想いが、誰かに届いたことへの、小さな衝撃だったのかもしれない。

「……なんとなく、です。光の入り方とか、空気が……“待ってる”感じだったから」

しばらく、咲良先輩は俺を見つめていた。

そして――目元がすこし緩んで、やわらかな笑みが浮かぶ。

「……すごいね、春川くん。……ちょっと、びっくりした」

その声は、さっきの驚きがやさしい余韻に変わったあとのものだった。

言葉の端に、少しだけ恥ずかしさが混ざっていて――でもそれも、嬉しそうだった。

「先輩の絵、いつも“空気”が伝わってくるんです。言葉じゃないけど、ちゃんと何かがある」

俺のその言葉に、咲良先輩の視線がふっと落ち着く。

それからまた、ゆっくりと絵に視線を戻して、静かにうなずいた。

「……ありがとう。そう言ってもらえるの、うれしい」

その声音は、筆を持っていたときよりもずっと穏やかで――

たぶん、絵の中に閉じ込めていた何かが、ほんの少しこぼれ落ちた瞬間だった。

そのあと、咲良先輩が道具を片づけ始めるのを、俺はただ静かに眺めていた。

アップにした髪が、うなじの上でふわっと揺れるたびに、目がそこへ吸い寄せられる。

――まずい。こんなに見てたら、絶対、変に思われる。

イーゼルにカバーをかけて、筆を洗い、画材をロッカーに戻していくその動き。

すべてが無駄なく、静かで、整っていて――まるで一つの所作のようだった。

そして最後に、首元に手を添え、ヘアゴムを外す。

すっと髪がほどけて、まるで水が流れるように咲良先輩の背中に落ちていった。

その光景に、また心臓が跳ねる。

「じゃあ……終わり。帰ろうか?」

「はい」

教室を出ると、廊下には夕方の光がうっすら差し込んでいて、

ストレートに戻った咲良先輩の髪が、その光にさらさらと揺れていた。

ふたりで並んで歩く、何でもない放課後の廊下。

でも、さっきまでの静かな時間が、心にじんわり残っている。

「先輩」

「ん?」

「さっきの髪……すごく、似合ってました」

咲良先輩は、少し驚いたように目を見開いて――

すぐに、すっと目線をそらした。

その頬に、ふわっとほんのり赤みが差す。

「……そっか」

ほんのわずかにかすれた声。

「いつもと違って……ちょっとドキッとしました」

咲良先輩は、何かを考えるようにして前を向く。

しなやかな指先が袖口をキュッと摘まむ。

「……たまに、変えてもいいかな。そう言ってもらえたなら」

「ぜひ、お願いします」

返ってきたのは、言葉じゃなくて――

咲良先輩の唇が、すこしだけ上がるその微笑だった。

それだけで、もう十分だった。

――今日の咲良先輩も、ほんとうに綺麗だった。


お読み頂きありがとうございます_(._.)_。

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