絶対零度!?
放課後の教室。
今日はたまたま、委員の手伝いで残っていた。
書類の仕分けを終えたところで、
同じクラスの明るい女子――小田さんが声をかけてきた。
「春川くん、プリントありがと~。助かったよ!」
「いや、全然」
「それにしても、字きれいだよね。男子にしては珍しいタイプっていうかさ」
「え、そうかな?」
「うん、ギャップ萌え~って感じ」
冗談っぽく言う小田さんに、俺は苦笑いで返した。
……そのとき、教室の後ろのドアがすっと開いた。
「春川くん、まだ?」
静かな声。
でも、耳に心地よく響くその声は、聞き慣れていた。
咲良先輩が、俺を迎えに来ていた。
俺がそっと近づくと、咲良先輩は無表情のまま、軽くカバンの紐をいじっていた。
「ごめん、もう行けます」
「……うん」
それだけ言って、咲良先輩はくるりと背を向けた。
……あれ? なんか、少しだけ歩くスピードが速いような。
追いかけるように並んで歩き出すと、先輩の耳がほんのり赤くなっているのが見えた。
「先輩、どうかしました?」
「……別に」
そっけない。
でも俺にはわかる。
咲良先輩、何かモヤモヤしてる。
ちょっと不機嫌っていうか……
廊下にはもう人の気配はなくて、俺たちの足音だけが静かに響いていた。
咲良先輩の歩幅は、普段よりわずかに速い。
でも、かといって完全に突き放すわけでもなく、
すれすれの距離で、俺の存在を意識しているような背中だった。
(……もしかして、怒ってる?)
(いや、怒ってるっていうより……呆れてるとか?)
(どうしよう、なんて言えばいいんだ、こういうとき)
頭の中で、言葉を探してぐるぐると回っていく。
でもどれも、口に出した瞬間に空気を壊しそうで、出せなかった。
先輩の背中は、まるで“無音”そのものだった。
カーディガンの背に、歩くたび小さな影が揺れて、近いようで遠い。
ちらっと視線を横に向ける。
咲良先輩の横顔は変わらずきれいで、でも――
その睫毛の影が、いつもより少しだけ濃く見えた。
昇降口に着く。
靴箱の扉を開ける音が、金属のきしむような音に変わる。
咲良先輩は、すでに履き替えを終えて入り口に立っていた。
背中はこっちを向いているのに、肩がわずかに揺れていた。
俺が近づくと黙って歩き出す。
校舎を出ると、夕方の空気がふわりと頬に触れた。
まだ桜の香りがわずかに残っている。
すれ違う風に髪がふわりと揺れて、そのとき見えた咲良先輩の頬は、ほんのり赤くなっていた。
そして――
制服の袖口を指でつまむ、その仕草。
指先が、かすかに震えているように見えた。
校門を出て、歩道の陰影が伸びるころ。
やっと、咲良先輩が口を開いた。
「……さっきの子、同じクラスの?」
ボソッ。
まるで凍った空気に小石を落としたみたいな、小さな音だった──
「うん、小田さん。委員会が一緒で、書類のまとめしてたんです」
「……ふーん」
平坦で、抑揚もなくて、ほんのわずかに息が混じった声。
それきり、また無言になった。
咲良先輩はずっと前を向いたまま。
ひとつ、ふたつと歩を進めて――
ためらうような、空白のあと。
「……“ギャップ萌え”って、何?」
語尾に棘がある、そんな声音。
その言葉に、思わず俺は吹き出しそうになった。
「き、聞こえてたんですか?」
「……別に。教室に入っただけ」
でも、声が少しだけムキになってる。
「気にしてたんですか?」
「してない。ただ……」
「ただ?」
「……君は、そういうの、他の子に言われ慣れてるのかと思って」
そのときの咲良先輩の顔は、正面を向いたままで――
けど、明らかに頬が赤かった。
そしてその直後。
咲良先輩は、髪をかき上げるふりをして、そっと耳たぶに触れた。
その動きはごく自然だったけど、初めて見る仕草だった。
「そんなこと、ないですよ。言われたって、嬉しいのは……」
言いかけたけど、なんだか恥ずかしくなって、言葉を飲み込んだ。
咲良先輩は少しだけ足を止めて、俺の顔をちらっと見たあと、小さく言った。
「……私にも、たまには言ってよ。そういうの」
声は小さいけど、ちゃんと聞き取れるくらいのトーン。
「かわいい、とか……きれい、とか……べつに、言われ慣れてないし」
咲良先輩は、ぽつりとそう言って、視線を落とした。
目線の先では、靴のつま先が内側に寄っていて、まるでそこでじっと立ちすくんでいるようだった。
制服の袖口をそっと引っぱるように指先でつまんでいる。
「……いや、いい。やっぱ言わないで」
「えっ……」
「なんか……言われたら変な感じするから。……でも、言われたくないわけじゃない、っていうか……」
ますます言葉がぐちゃぐちゃになって、最後は顔を背ける。
「……先輩、今日もめっちゃ可愛いです。……ちょっと怒ってる顔とかも」
一瞬、反応が遅れたように沈黙が落ちた。
咲良先輩は、ごくわずかに肩を揺らし、そして――
びくっと、小さく肩をすくめた。
「……だから、そういうの急に言わないでって……」
それでも、耳まで赤くなっていて。
顔はそっぽを向いてるのに、カーディガンの袖を指でつまんでる仕草が、どこかくすぐったそうだった。
「でも、ほんとに。今日の先輩、すごく綺麗です。……なんか、言いたくなったんですよ」
咲良先輩は、ほんの一瞬だけ息を呑んだ。
「別に怒ってないから……」
「でも、嫉妬……」
「してない」
「……うそ」
「……うるさい」
咲良先輩はまた少し早歩きになった。
でも、俺の袖を指でちょっとだけつまんでいて――
それが何よりも「もっとこっち見て」のサインだってこと、俺はちゃんとわかってる。
──きっと先輩は、誰よりも不器用で、真っ直ぐに好きでいてくれる。
そんな咲良先輩が、俺はたまらなく好きだ。
そして、さっきの“耳たぶを触れる仕草”が、ふと心に残った。
その日、咲良先輩の“ちょっとだけの嫉妬”は、俺の中で宝物になった。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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