ふたりぶんの昼休み
昼休みのチャイムが鳴ると、俺は教室を抜け出して、校舎の端の空き教室へ向かった。
ここは元視聴覚室らしいけど、今は誰も使っていない。
窓からは校庭が見渡せて、昼休みのざわめきも少し遠のく。
咲良先輩が、「落ち着く」って言ってくれた場所。
そっと扉を開けると、咲良先輩が来ていた。
いつものように、窓際の席に腰かけて、じっと空を見上げている。
春の光がカーテン越しにやわらかく差し込んで、咲良先輩の髪を静かに照らしていた。
今見ている映像が、一枚の絵や写真みたいで、少しの間、見惚れてしまう。
机の上には、小さな手提げと水筒、
それから、丁寧に包まれたお弁当がひとつだけ。
「……こんにちは」
俺が声をかけると、咲良先輩はゆっくりとこちらを振り向いた。
「うん。来てくれて……よかった」
その声は、ほんのり息が混じっていて、いつもより少しだけやわらかかった。
言葉の終わりに、わずかな余韻があって――それが耳に残る。
口元がほんのすこし緩んでいる。
それだけで、心臓が跳ねるのが分かった。
以前なら見落としていたかもしれない、そんな微笑み。
でも今は、自然と目が引き寄せられる。
俺は隣の席に座って、鞄からコンビニのおにぎりを取り出す。
「……先輩、今日も手作りですか?」
「うん……ちょっとだけ、頑張った」
そう言うとき、咲良先輩は一瞬だけ目を伏せて、手元の包みをほどきながら、そっと髪を耳にかけた。
声は少し小さめで、言い終わる直前にほんのわずかに上ずる。
その照れくさそうな仕草に、自然と頬が緩む。
それから、包みの端を持ったまま、咲良先輩は少しだけためらって、ぽつりと言った。
「……誰かに作るの、こういうの……初めてで」
先輩は包みを解いて、静かに俺のほうへ差し出してくれた。
ふたを開けると、小ぶりなおにぎりがふたつと、卵焼き、きんぴら、ウインナー。
どれも形が整っていて、色合いもきれいで――
その丁寧な詰め方から、咲良先輩の性格がにじみ出ている気がした。
「……これ、もしかして……俺の分?」
「うん。ひとつは、春川くんに。って、思って」
名前を呼ぶとき、咲良先輩はいつもほんの少しだけ間を置く。
その“間”が、どこかくすぐったい。
だけど、それがたまらなく嬉しい。
それに――「作ってきた」じゃなくて、「思って」っていう言い方。
……もう、頭の中で「かわいい」が何回もリピートする。
つまり、俺のことを考えながら作ってくれてたってことだよね。
しかも、手料理。
「じゃあ、いただきます」
手を合わせると、咲良先輩も、少しだけ遅れて小さく真似をする。
その動きが、どこかぎこちなくて――でも、ちゃんと隣に並んでいて。
箸をとって、ひと口めを頬張る。
美味しい。
柔らかくて、あったかくて、どこか優しい味がする。
……ふと気づくと、咲良先輩がこちらをちらりと見て、すぐに視線を逸らした。
ひと口食べるたびに、先輩がほんのすこしだけ俺の顔を見て、それからまたすぐ視線を逸らす。
……反応を気にしてる、その様子がなんともいじらしい。
ふたり並んで食べる静かな昼休み。
特別な会話があるわけじゃない。
でも、たまに視線が合うと、どちらからともなく、ふっと笑ってしまう。
そんな時間が、たまらなく愛しい。
「……卵焼き、甘いですね」
「うん。そっちの方が、好きかなって……思って」
そう答えながら、咲良先輩は箸の先でおにぎりの海苔をそっと直した。
声も、いつもよりわずかに高くて、ふわっと抜けるようなやわらかさがあった。
「俺、甘いの好きです。だから、すごく嬉しい」
そう伝えると、咲良先輩は一瞬だけ目線を落とし、
それから頬をほんのりと紅く染めた。
言葉はなくても、伝わってくる――その感情の温度が。
“氷の女王”なんて呼ばれてたけど、本当は――感情を出すのが、少しだけ苦手なだけ。
いや、たぶん俺だから、こうして頑張ってくれているんだと思う。
今だって、不器用なぶんだけ、真っ直ぐで、丁寧に気持ちを伝えようとしてくれている。
だからこそ、俺は咲良先輩のひとつひとつの仕草から、目が離せない。
たとえば、口元についたご飯粒を指で取ろうとして、一瞬、ためらうように動きが止まるところ。
それに気づかれたくなくて視線を逸らすのに、結果的に、ちらっとこっちを見てしまうところ――
そんな、ほんの一瞬さえも。
いちいち、愛しくて仕方がない。
「……春川くんって、よく見てるね」
咲良先輩がぽつりとつぶやいた。
思わず、箸を止めて咲良先輩のほうを見る。
「……見てた、かもしれません」
「うん。さっきから、視線を感じてた」
「す、すみません……なんか、癖みたいで」
「ううん。嬉しい、よ」
そう言って、咲良先輩は俺の目をまっすぐに見つめて、それから、ゆっくりと小さく笑った。
その微笑みは、どこか恥ずかしそうで、でもちゃんと伝えようとしていて――
他の誰にも見せない、俺だけが知っている顔だった。
こんなふうに、ただ一緒に過ごして、少しずつ距離を縮めていく。
やがてふたりの箸が止まり、そのまま自然と会話も落ち着いて、静寂が教室を包みこんだ。
咲良先輩が弁当箱を手提げに戻す頃、俺はもう一度、ふと口を開いた。
「……本当に、美味しかったです。ありがとうございました」
その言葉に、咲良先輩は一瞬だけ目を見開いて、それから、ゆっくりと、だけど確かに微笑んだ。
「……よかった。そう言ってもらえて、嬉しい」
その声は、少しだけ息を含んでいて、いつもよりもやわらかかった。
言葉の最後が、少しだけ揺れて――それが余計に、胸に響く。
「……また、作ってくれると嬉しいです」
俺がそう言うと、咲良先輩はほんの少し視線を逸らしながら、それでも、手のひらを包みこむように重ねて、静かにうなずいた。
「……うん、また……ね」
少し間を置いて、ぽつりと付け加える。
「べ、別に……毎日ってわけじゃ……ないけど……」
その声はどこかぎこちなくて、でも、確かに照れ隠しだった。
だけどその一言が、俺にはとても愛しく思えた。
……“また”がある。
それだけで、胸がいっぱいになる。
窓の外では、小さな鳥がひと声さえずった。
校庭の隅を吹き抜けた風が、枝の先の葉をさらりと揺らす。
その音が、やわらかな光の中に溶けていくようだった。
教室の中では、ふたりの呼吸と、風の音だけがゆっくりと流れていた。
咲良先輩は、手提げの上に手をそっと重ね、ふと、窓の外に目を向ける。
その横顔は穏やかで、けれどどこか――
夢の続きを見ているみたいに、遠くを見ていた。
俺はその横顔に、言葉を挟むことができずに、ただじっと見つめていた。
あまりに綺麗で、静かで、この時間が壊れてしまいそうな気がしたから。
でも、怖いほど静かなわけじゃない。
むしろ――心が深く、深く、満ちていくような。
咲良先輩は、そんな教室の空気のなかで、ちらりと俺の方を見た。
一瞬だけ――けれど、ちゃんと目が合った。
その視線に、俺はドキッとする。
咲良先輩は、ふと目線を伏せ、それから、何かを思い立ったように、小さく息を吸い込んだ。
「……そんなに、じっと見られると……恥ずかしい、よ」
ぽつりと、それだけをつぶやいた。
でもその声は、いつもよりほんの少しだけ高くて、照れ隠しなのか、息が少しだけ混ざっていた。
俺が思わず顔を赤くすると、咲良先輩は、ゆるく視線を逸らして――けれど、ほんのすこし、口元を緩めた。
それはたぶん、“言えたこと”に自分で驚いているみたいな、そんな表情だった。
……本当に、咲良先輩が好きだと思う。
まだたくさん話せるわけじゃないし、手をつなぐことだって、そう何度もあるわけじゃないけど。
それでも、今日の昼休みの全部が、どんな言葉より、確かだった。
咲良先輩のそばにいると、時間の流れ方が変わる。
音も光も、まるで自分たちだけのものになって、そこに、誰も入ってこられないような気さえする。
ふと、校舎の向こうから、午後の授業を知らせるチャイムが聞こえてきた。
どこか遠くで鳴っているように響いて――それが、夢の終わりの合図のように感じられた。
「……戻らなきゃ、だね」
咲良先輩は、手提げをぎゅっと握りしめながら、ふと俺のほうを見た。
その目には、迷いと――何かを決めた光が混ざっていた。
「……ねえ、春川くん」
「はい」
俺が返事をすると、咲良先輩は、少し唇を結んで、目線を逸らした。
風がカーテンを揺らし、午後の日差しが斜めに差し込む。
「……あの……」
言いかけて、少し止まる。
けれど、意を決したように――ゆっくりと、言葉が続いた。
「明日も……いっしょに、お昼……食べたい、です」
「……それで。お弁当、また……作ってきても、いいかな」
その声は、小さくて、震えていて、だけど真っ直ぐだった。
胸がいっぱいになって、俺は思わず、笑ってしまった。
嬉しくて、どうしようもなくて。
「もちろん。すごく嬉しいです。明日も、楽しみにしてます」
そう言うと、咲良先輩は――
ぱっと顔をあげて、俺を見た。
そして、ほんの一瞬だけ、何かを確認するように見つめて、次の瞬間――
ふわっと、笑った。
それは、今日いちばんの、いいや――
今まで見たなかで、いちばんの笑顔だった。
心からほっとしたような、嬉しさがあふれたような。
まるで、春の光がそのまま形になったみたいな笑顔。
その笑顔を見た瞬間、俺は、ずっと胸の奥で思っていた言葉を、自然とつぶやいていた。
「……本当に、先輩のことが、好きです」
咲良先輩は、目を見開いたまま、息を呑んだように固まった。
頬が、ゆっくりと赤く染まっていく。
それから――視線をそらして、手提げをぎゅっと握りしめたまま、小さく、ぽつり。
「……バカ」
その声は、責めているわけじゃなくて。
むしろ、どうしようもなく嬉しくて、でも恥ずかしすぎて、逃げ場がなくなった時の“精いっぱい”の一言だった。
俺は、その言葉の意味をちゃんとわかっていたから、
笑って、でも、それ以上なにも言わなかった。
咲良先輩は、頬を真っ赤に染めたまま、それでも、もう一度だけ、ちらりと俺の方を見た。
その目は――まっすぐで、あたたかくて。
言葉にしなくても、気持ちはちゃんと届いているって、わかった。
ふたりで立ち上がると、窓のカーテンがそっと揺れて、午後の柔らかな光が、咲良先輩の横顔をそっと掠める。
俺は咲良先輩の肩越しに、もう一度だけ――
その横顔を、目に焼きつけた。
ずっと、この時間を忘れない。
咲良先輩の仕草も、表情も、卵焼きの甘い味も――すべて、ちゃんと覚えている。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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