さくらいろの日
待ち合わせ場所は、駅前のベンチだった。
春の土曜日。
やわらかな陽差しと、少し気まぐれな風が、空気に新しい季節の匂いを混ぜていた。
カバンの中ではスマホが、もう何度も確認された形跡を残している。
約束の時間までは、まだ十分以上ある。それでも俺は、もうベンチに腰掛けていた。
今日が、咲良先輩とのはじめての――“デート”だから。
朝、鏡の前で服を選ぶのに少しだけ悩んだ。
普段通りにしたほうがいいのか、それとも、少しくらい背伸びしてもいいのか。
結局選んだのは、淡いグレーのパーカーに、白いシャツを重ねたスタイル。下は春っぽい薄色のデニム。
おしゃれってほどじゃないけど、いつもよりほんの少しだけ、きれいめな格好。
「変じゃないといいけど……」
誰にともなくそう呟いた声が、風にさらわれていく。
ポケットの中で手を握ったり開いたりしながら、ベンチの端で少しだけ背筋を伸ばした。
あと数分で、先輩が来る。
それなのに、待っている間じゅうずっと、自分の息が浮いているような感覚だった。
緊張してるのか、楽しみなのか、自分でもよくわからない。ただ、ずっとそわそわしてる。
そして、そのそわそわは、不意に止まった。
「あの……」
一拍、ためらうように空気が揺れてから。
「待たせてない、ですよね?」
ほんの少しだけ震えるような、でも優しく耳に届く咲良先輩の声だった。
緊張してるはずなのに、ちゃんと目を見て言おうとしてくれた。
肩にかけた小さめのショルダーバッグの紐を、片手でぎゅっと握りしめるようにして。
春の柔らかな光に包まれたその姿は、普段の制服姿とはまるで印象が違った。
白に近いクリーム色のブラウス。その上から、淡いベージュの薄手のカーディガン。ボトムスは紺色のロングプリーツスカートで、足元はシンプルな白のスニーカー。
色味は控えめだけど、全体にふわっとした柔らかさがあって、どこか静謐な雰囲気を纏っていた。
咲良先輩らしい。落ち着いていて、派手じゃなくて、でもすごく綺麗だ。
「……すごく似合ってます。今日の服」
咄嗟に出た言葉に、咲良先輩は目を瞬かせて、わずかに口元を動かす。
そして、視線をふっと逸らし、バッグのストラップに添えた指先をそっと撫でるように動かした。
少しだけ頬に赤みが差している。
「……よかった。春川くん、どう思うかなって、ちょっと迷って……」
咲良先輩の声は、どこかためらいがちで、それでもちゃんと届くように絞り出したような小さな声。
視線は俺の目を探るようにたどたどしく揺れ、ときどき不安を隠すように空を見上げたり、足元に落としたりしていた。
「え? 俺のために選んでくれたんですか?」
「べつに……そんな、大げさなことじゃ……」
小さな声だった。どこか言い訳のように、息を含んだ囁きに近い音で――でも、言葉の奥に、ほんの少しの「期待」が隠れている気がした。
咲良先輩はブラウスの襟元にそっと手を上げ、上のボタンを一瞬だけ触れるように指でなぞった。
そして、ふっと息をつくように笑って、今度は少しだけ力を込めて言った。
「でも、春川くんがそう言ってくれて、安心した」
その一言と、照れを含んだ、ほんのわずかに柔らかく崩れた微笑みが、とても可愛かった。
ふたり並んで歩きながら、俺たちは駅から十五分ほどの、川沿いの桜並木へと向かった。
道沿いの桜は、まさに見頃だった。
薄紅色の花が、枝いっぱいに咲き誇り、風に乗ってひらひらと舞う。
陽光に透ける花びらが、まるで光そのものみたいに揺れていた。
「……きれい」
それは、ほんのり息を含んだような、静かで透き通った声だった。
まるで胸の奥でこっそり温めていた感情が、ぽろりとこぼれ落ちたような。
咲良先輩は、桜を見上げながらそうつぶやいたけれど――
横顔のその輪郭は、まるでその景色の一部みたいに、静かに溶け込んでいた。
「先輩も、桜、好きなんですか?」
「……うん。騒がしくなくて、でもちゃんと綺麗で、静かなのにちゃんと、咲いてる。……そんな感じが、好き」
言葉を探しながら、少しずつ丁寧に紡がれたその声は、少し恥ずかしさを滲ませながらも、自分の中のものを、ちゃんと伝えようとしてくれているのが分かった。
それは、まるで咲良先輩自身のことみたいだった。
「咲良先輩って、桜の花みたいですよね」
「……からかってる?」
その声は、少しだけ拗ねたように響いたけれど、本気で怒っているわけじゃなかった。
恥ずかしさを隠すための、柔らかい反応。
「ちがいます! むしろ、真面目に言ったのに……」
先輩はくすっと、笑った。
小さな笑い声だった。でも、ちゃんと声に出して笑ってくれた。
その音が、春の空気にとけて、ふわりと花びらが舞うようだった。
この笑い声が聞けただけでも、今日ここに来てよかったと思えた。
川沿いのベンチに並んで座って、お互いに缶のお茶を飲みながら、何でもない話をした。
学校でのこと。美術部のこと。俺のクラスでのちょっとした騒動。
咲良先輩はあまり多くは語らない。
でも、俺が言葉に詰まると、ちゃんと目を合わせてくれる。
その静かな視線が、言葉よりずっと多くを伝えてくれる。
桜の花びらが、そっと風に乗って、咲良先輩の髪に舞い落ちた。
それを、俺がそっと指でつまんで取ると、咲良先輩は不思議そうに瞬きをして――
「……ありがとう」
その声は、少しだけ揺れていた。
だけど、そのあと、そっと俺の手のひらを見て、小さく囁く。
「春川くんと、こうして歩けてよかった。……桜が、見られてよかった」
それは、心にずっとしまっていた想いが、ようやく言葉になったような響きだった。
恥ずかしさと照れ、そして静かな幸福がまじったような、やさしく掠れる声。
普段よりもほんの少し息が混じっていて、それが逆に真剣さを際立たせていた。
「……俺も、ずっと、今日を楽しみにしてました」
ふたりとも、まっすぐには見つめ合えないくせに、ちゃんと同じ気持ちを伝えたくて、言葉を探している。
沈黙が、少しだけ優しくなる。
それは、気まずさじゃなく、心がゆっくり寄り添っていくための時間だった。
そして、咲良先輩が、そっと制服の袖を引くように、俺のカーディガンの裾をつまんだ。
小さな指が触れるその感触に、俺の鼓動が少しだけ速くなる。
一拍、間があって。
そっと息を吐いた。
「……また、来年も、見に来たいね」
小さく、震えた声だった。
けれど、柔らかい響きで、“こんなふうに思ってもいいかな”と、心の奥で確かめるような声色だった。
「……はい。来年も、再来年も」
桜の下で、手のひらがそっと重なった。
声にならない約束が、そこにあった。
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