手のひら、ひとつぶん
放課後、咲良先輩と並んで歩くのが、少しずつ“当たり前”になってきた。
学校を出るとき、先輩は今日も俺を何も言わずに待ってくれていた。
制服のスカートが、春風にふわりと揺れる。
その立ち姿はいつも変わらないのに、不思議と心臓が跳ねる。
慣れそうで、慣れない。
この高鳴りだけは、きっと変わらないんだろうなと思う。
「今日は……風、強いですね」
なんて、間の抜けたことを言ってしまう。
でも先輩は、すこしだけ髪を押さえながら「うん」と短く頷いた。
その指先がそっと耳元に触れる瞬間――細い髪がその動きに追いかけられるように揺れた。
でも、ほんの少しだけ、口元が柔らかくなるのがわかる。
それだけで、俺はなんだか満たされた気持ちになるんだ。
家の方向が偶然同じだったから、途中までは一緒に帰れる。
まるで決まりごとのように、彼女はいつも、俺の隣にすっと立ってくれる。
歩幅も位置も自然で、不思議と“ぴったり”になるのが、なんだか嬉しくて、くすぐったくなる。
けれど今日は、少しだけ違っていた。
信号待ち。
赤信号の光が夕日に照らされ、どこか柔らかく滲んで見えたとき――
咲良先輩の指先が、ふいに俺の制服の袖に、そっと触れた。
本当に、ほんのすこし。
気づかなければそのまま見逃してしまうくらいの、かすかな動き。
だけど俺は、ちゃんと気づいた。
「……あの」
勇気を出して、声をかけると、咲良先輩は静かにこちらを向いた。
顔はいつも通りの無表情。
長い睫毛が風に揺れて、目元の陰影がふと濃くなる。
そのまなざしは、感情の奥を静かに隠しているようでいて、どこか不安げで――それでいて、ほんの少しだけ、期待を抱いているようにも見えた。
「……手、つないでもいいですか」
言葉にしてしまった瞬間、顔に熱が一気に広がるのがわかった。
自分でも驚くくらいストレートな言葉だったけど、もう後戻りはできなかった。
咲良先輩は、ほんの一拍だけ目を伏せて――
それからゆっくりと、手を伸ばしてくれた。
その指が、俺の指にそっと触れる。
でも、握るわけじゃない。
ただ、そこに“置く”だけ。
ためらいがちで、壊れそうな恐る恐るの距離感。
俺はその手をぎゅっと握らず、けれど逃がすことなく、
少しだけ自分の手のひらを重ねた。
風にさらされた咲良先輩の指先は、すこし冷たくて、それでも芯にぬくもりが宿っていて、ちゃんとあたたかい。
その温度が、俺の掌から胸の奥へ、ゆっくりとしみ込んでくる。
「……ふふ」
かすかに、風に混じるような笑い声が聞こえた。
横を向くと、咲良先輩はいつもと同じ無表情のまま――でも、唇の端が、わずかに上がっていた。
それは、たぶん俺にしか気づけない、小さな小さな、微笑みだった。
「……うれしい、です」
その言葉がどこから届いたのか、最初はわからなかった。
でも、それはたしかに、咲良先輩の声だった。
声の輪郭はかすれていて、それでも心の真ん中に、はっきり届いた。
歩きながら、手が何度も揺れる。
つないだ手がちょっと汗ばむたび、少し照れくさくなる。
でも、離すのがもったいなくて――俺たちはそのままでいた。
信号が青に変わっても、咲良先輩はなにも言わずに歩き出した。
だけど、握った手はちゃんと、俺の手をそっと引いてくれる。
ふたりの影が、夕暮れの舗道にやさしく伸びていく。
ほんのひとつぶんの手のひらのぬくもりが、今までになかった感情を呼び起こしてくれていた。
小さくて、細い──この手を、ちゃんと守りたい。
そう思えた、初めての放課後だった。
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