七夕
放課後、駅の反対側にあるファミレスの窓際席で、咲良と向かい合っていた。
外はまだ明るくて、日差しがレースのカーテン越しにやわらかく差し込んでいる。冷房の効いた空間の中、アイスコーヒーをちびちび飲みながら、俺たちはなんとなくぼんやりと会話をしていた。
「今日ってさ、七夕だよね」
咲良がぽつりと呟いた。
「うん、7日」
「……駅前に、笹の木、立ってた。今日、見つけた」
「へぇ、そんなのがあるんだ」
何度か来たことのあるこのファミレスも、今は七夕の飾りが入り口に吊るされていて、ちょうど入ってきたとき、咲良が少しだけそれを見上げていたのを思い出した。
「……ねぇ、悠真くん」
「うん?」
「……最初に、私のこと、気になったのって、いつ?」
突然すぎる問いに、ストローを吸っていた口が止まる。
咲良は、スプーンでパフェの底をすくいながら、顔を上げようとしない。
表情は読めないけど、耳がほんの少しだけ赤い気がした。
「それ……聞く?」
「……だめ?」
「いや、だめじゃないけど……」
俺はテーブルの縁に視線を落として、あの瞬間を思い出す。
「最初は……本当に、ただの憧れっていうか」
「絵も上手いし、綺麗だし、“氷の女王”って呼ばれてても、まぁ……そう見えるよなって……でも、ある時」
あの日は、雲が多くて、まばらに青空が顔をのぞかせている。そんな空模様だった。
「朝、校門のとこで咲良が誰かに呼ばれて、ちょっとだけ困った顔してて……」
「その後、いつもの顔に戻して歩いてくの見たとき……あ、無理してるのかなって……」
その時のスッとすました顔をした、氷の女王の姿を思い出した。
「それが、なんか……気になって」
「“本当の顔”って、もっと違うんじゃないかって、もっと見たくなって……気づいたら、目で追ってました」
「それから、廊下で偶然会ったとき、スケッチブックを落としたよね。俺が拾って渡したら、すっごく慌ててて。……『ありがとう』って、顔を真っ赤にして言ってくれたの、覚えてる?」
「…………」
咲良は視線をそらしたまま、そっとうなずいた。
「そのギャップが、なんか……すごく、可愛くて」
「……ばか」
ようやく顔を上げた咲良は、俺を睨むでもなく、でも真っ直ぐにも見れないといったふうに、グラスのふちを指でなぞっていた。
「じゃあ、咲良は?」
「……わたし?」
声が裏返って。カランとグラスの中の氷が音を立てた。
「うん。俺のこと、最初に意識したの、いつ?」
しばらく沈黙が流れる。
カトラリーがコップに当たる小さな音と、店内のBGMがゆっくり流れる中で、咲良は小さく息を吐いた。
「……去年の秋くらい。図書室の近くで、誰かが転んで本をぶちまけてて……」
「周りは誰も動かなかったのに、悠真くんだけ、何も言わずに拾いに行ってて」
「……なんていうか、そういうのって、普通にできないと思うのに……」
「悠真くんは、何でもないみたいにしてて……」
咲良はストローに口をつけた。
「そういうところ、すごいなって、思ったの。……ずっと覚えてた」
そう言って、咲良は袖口をギュッと握った。たぶん、照れてる。
「なんか、ずっと……その表情が、忘れられなかった」
そのあと、会話は少しだけ途切れた。
気まずいわけじゃなくて、なんとなく、言葉が出なくなるような沈黙。
でも、そんな時間も悪くなかった。
向かい合ってドリンクバーのグラスを傾けながら、ふと、咲良がぽつりと口を開いた。
「私ね、ずっと……“誰にも見られてない”って思ってたの」
「……見られてない?」
咲良は、グラスの縁をそっとなぞる。
「話しかけられなくても平気、むしろ楽だし。感情を上手に出せないから。それでいいって、そう思ってたけど……本当は、誰かにちゃんと見てほしかったのかもしれない」
咲良の声は淡々としていたけど、どこか、それは心の底から、眠っていた、忘れていた、大切なものを、引き出しているように思えた。
「悠真くん、ね……何でもないところで、私のこと見てたでしょ。廊下とか、部室の前とか、教室の窓からとか」
「えっ……」
思わず息が詰まる。まさか気づかれてたなんて。
「……見られてるって、普通は嫌なんだろうけど。でも、悠真くんは違った。……変な言い方だけど、“見つけてくれた”って感じがした」
咲良はうっすらと微笑む。
その表情は、ほんの少し照れていて、それでいて少し誇らしげで。
「気づいてた。悠真くん、たまにすごく優しい目でこっち見てたの。誰かに気づかれないようにするみたいに、静かに」
「……」
「最初は、たまたまだって思ってた。でも何度も続いて……そして、たまに寂しそうな目をしてた。この人優しいんだろうなって……そしたら、だんだん私の中で、“この人だったら”って思うようになったの」
“この人だったら”――その言葉が、真っすぐに胸に届く。
「私、自分から何か変えるのって苦手。でも、悠真くんだったら……って、ずっと思ってた。だから――」
咲良は、少しだけ視線を落として言った。
「だから、私から言ったの。“好き”って」
俺は、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じていた。
あの時の咲良の表情。あの告白の言葉。あれは全部、咲良なりの、精一杯の勇気。俺は改めてそう思った。
「……咲良」
思わず名前を呼んだ。
咲良は驚いたように顔を上げる。俺は続ける。
「ありがとう。俺のこと、ちゃんと見てくれてて。……俺も、咲良のこと、“見つけた”って思ってるから」
しばらく目を合わせたまま、咲良は何も言わなかった。
けど、ほんの少しだけ、いつもより長く目を合わせてくれた気がした。
店を出る頃には、外は少し暗くなり始めていて、駅へと続く道に涼しい風が吹いていた。
改札の手前のコンコース、咲良が言っていた通り、笹の木が立てられていた。
たくさんの短冊が風に揺れていて、すでに誰かが書いた願い事があちこちで揺れている。
「……書いてく?」
俺が聞くと、咲良は少しだけ迷ったあと、小さくうなずいた。
駅員の脇にあるカゴから短冊とペンを取って、それぞれ別の方向を向いて書き始める。
咲良は何度もペン先を止めては、小さくため息をついていた。
俺は、書くことをあらかじめ決めていた。
『咲良が、毎日ちゃんと笑えますように』
ちょっとだけ、図々しい願いかもしれない。でも、俺の本心だった。
書き終えて振り返ると、咲良もちょうど結び終えたところだった。
「……書いた?」
「うん。咲良も?」
「……うん」
お互いの短冊を見るのは、ちょっと恥ずかしくて、でも同時に気になる。
だから俺たちは、見せ合いっこはしなかったけど、並んで短冊を結び付けた。
整った、少しだけ右上がりの文字。
「ずっと、一緒にいられますように。できれば、笑って。」
笹の下の方に控えめに結ばれた、咲良の短冊を見た瞬間、自然と頬が緩んでいた。
「ずっと一緒に」――たぶん、誰に向けた言葉かなんて、考えるまでもない。
それなのに、最後の「笑って」って言葉が、妙に刺さった。
たぶん、咲良はそれが、何よりも大事なんだ。
自分だけじゃなくて、俺にも。
そう思ったら、どうしようもなく、咲良の手を握りたくなった。
夜風に、短冊がまたふわりと揺れる。
「……お願い、叶うといいね」
「うん。きっと叶うよ」
言葉に、重ねられた咲良の声は、かすかに震えていた。
俺は咲良の手をしっかりと握った。
咲良もしっかり握り返してくる。
そのまま、改札へと向かう足は遅くて、でも、つないだ気持ちは、確かだった。
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