夏といえば
夏が来る。
そう思った瞬間、ふと咲良のことを考えた。
季節はすっかり夏の気配を帯びて、校舎の窓から差し込む陽射しもどこかまぶしすぎる。
そんな、ある日の放課後。
廊下の自販機前で、咲良がぽつりとこぼした。
「……プール行ったことないかも。プライベートで、ちゃんと行くの」
その言葉が頭に残って、気づけばスマホで近場のプールを検索していた。
電車で行ける場所、混雑状況、近くのカフェ、ロッカーの数まで調べて、頭の中でシミュレーションを繰り返した。
「今度、プール行きませんか」
そう誘ったのは、たぶん次の日だったと思う。
咲良は一瞬だけきょとんとした顔をして――それから、ゆっくりとうなずいてくれた。
そして今日。
日曜日、空は白くぼやけて、うっすらと陽が透けている。
待ち合わせは、駅前のショッピングモール。
目的は――水着。
なのに、入り口で咲良は立ち止まったままだった。
「……なんか、場違いかも」
小さくつぶやいた声は、冗談とも本音ともつかなくて、俺は思わず聞き返してしまう。
「え?」
「水着って、こう……もっと騒がしい子たちが買うものっていうか」
その表情は、ちょっと拗ねたような、でもどこか不安そうで。
眉尻がわずかに下がっていて、目が伏せられている。
「いやいや、そんなことないですって」
俺も、実を言うと少しだけ緊張してた。
水着って、なんというか――“普段と違う顔”を見せ合うことになる気がして。
けど咲良は、少し目線を戻して、ふわっと笑ってくれた。
「……ごめん。変なこと言った」
「いえ。じゃあ、ゆっくり見ていきましょう」
店内は、いかにも“夏”を売っている空間だった。
明るい照明に照らされたパステルカラーの水着たちが、視界を埋め尽くす。
ラメのついたピンク、水色、紺、白。きらきらしたフリル。マネキンの肌は眩しく、ポスターのモデルに咲良の姿を重ねている自分がいた。
咲良は、まるでそこに一歩ずつ慣れていくように、静かに歩を進めてラックの前に立つ。
「……こういうの、似合うのかな」
自分の手で白いワンピースタイプの水着をそっと持ち上げながら、誰に問うでもなくつぶやいた。
「似合うと思いますよ」
即答した俺に、咲良は横目でチラリと視線をよこす。
「見てもないのに?」
「咲良なら、何着てもバッチリだと思う」
その言葉が効きすぎたのか、咲良はすぐに目を逸らした。
そして、スカートの裾をぎゅっと握るその指が、小さく震えている。
その小さな震えが、咲良の緊張を、すべて物語っていた。
それでも、数着を手に取って、咲良は試着室へ向かう。
けれど、カーテンの手前でぴたりと足を止めた。
「……やっぱりやめとく。水着、ネットで買う」
ぽつりとつぶやいた小さな声は。
俺はその背中を見つめる。
細い肩が、ごくわずかに上下していた。
――まるで、小さな深呼吸みたいに。
胸元にそっと手を添え、視線を落として立ち尽くす咲良の横顔。
「無理しなくていいですよ」
言葉を選びながら、ゆっくりと伝える。
「……別に、無理してない」
それでも、咲良の視線はカーテンの方を見つめたまま。
でもその横顔は、ほんの少しだけ――ほんのわずかに、耳が赤くなっているようにも見えた。
そして、咲良はそっとカーテンを引いた。
シャー……という音と共に、その姿が見えなくなる。
中の動きでカーテンが僅かに揺れる。
やがて、しん……静かになった。
「あの……」
カーテン越しに聞こえたのは、吐息のように小さな声。
「はい……」
つられて答える俺の声も、少し上ずっていた。
沈黙。
――ん?
「着た感じ、どうですか?」
なるべく自然なトーンを装って尋ねる。けど、返事はすぐには来なかった。
沈黙。
長い。
――あれ?
心配になって一歩だけ近づいたとき、カーテンがそっと揺れて、そこから咲良の顔だけが、ひょこっと覗いた。
真っ赤な頬。
伏し目がちで、だけどときおりこっちを上目づかいに見る。
唇がきゅっと引き結ばれていて、視線が落ち着かない。
その姿が、小動物みたいにかわいくて。
思わず俺の方まで顔が熱くなった。
「み……見せた方が、いいよね……?」
小さな声で、まるで自分に言い聞かせるように。
「無理しなくていいですから」
「……してない」
すぐに返ってきた声は、かすかに震えていたけど、どこか芯が通っていて。
「じゃあ……見てもいいですか?」
俺の問いに、カーテンの向こうで一瞬、時間が止まった。
張りつめた空気の中で、呼吸すらためらわれる。
そして、しばらくしてから、咲良の声が返ってきた。
「……ちょっとだけ、なら」
カーテンが、かすかに揺れて――静かに、ほんの少しだけ開く。
その向こうに、咲良がいた。
選んだのは、深いネイビーのワンピースタイプの水着。
襟元には控えめな白いレース。肩紐と背中には、細く結ばれたリボン。
背中はやや開いていたけど、前面はしっかり覆われていて、どこか清楚で、上品な印象を受けた。
スカート部分にはやわらかなフリルがあしらわれていて、可愛さもさりげなく添えられている。
その上に、透け感のあるベージュのオーバーシャツを羽織っていた。
派手じゃない。けど、だからこそ。
咲良の肌の白さを、どこかやさしく引き立てていて、妙に――いや、ものすごく、どきっとした。
シャツの隙間からちらりと見える、肩のライン、鎖骨。
決して露骨じゃないのに、むしろ隠されているぶん、目を引かれてしまう。
咲良は、まるで時間が止まったかのように、直立のままそこに立っていた。
髪を耳にかけていて、両手はオーバーシャツの前をそっと押さえるように添えられていて、でも、その動きすらピクリとも動かない。
唯一揺れていたのは、火照った頬の色と、もじもじと擦れ合う足先だった。
俺は、言葉を失って、ただその姿を見つめていた。
可愛いとか、綺麗とか、そんな言葉じゃ足りない。
もう、心臓をわしづかみにされていた。
咲良は視線をさまよわせたまま、口を開いた。
「……変じゃない?」
「全然」
即答だった。迷う理由なんて、どこにもなかった。
「……似合ってない?」
「すごく、綺麗です」
その瞬間、視線がほんの少しだけ、俺の方に向いた。
でも、すぐに逸らされる。
「……ばか」
思わず笑いそうになったけど、こっちまで緊張していたから、俺もごまかすように言った。
「咲良がどんな水着姿でも、俺には一番」
「……それ、慣れて言ってるでしょ」
「ぜんっぜん。むしろ、ド緊張してます」
その返しに、咲良の肩がふるっと小さく揺れる。
そして、くすっ――と、小さな笑い声がこぼれた。
まるで、氷がひとつ、静かに溶けたみたいな、柔らかい音だった。
「……ありがと」
ふう、と深呼吸をするように、胸元をやさしく上下させる。
そして、羽織っていたオーバーシャツの裾を、ぎゅっと握りしめた。
さっきよりも少しだけ、視線は強く、まっすぐに俺を見ていた。
ほんのわずかに、口元がやわらかく持ち上がる。
その瞬間――
カーテンが、シャーッと閉まった。
再び姿は見えなくなったけれど、鼓動はまだ、強く残っていた。
そのあと、咲良は二着ほど試着してくれた。
でも、どれも例外なく“直立不動”。
まっすぐに立ったまま、まばたきすら控えめに、じっと俺の反応を待っている。
それがなんだかいじらしくて、微笑ましくて――
そして、すごく、嬉しかった。
恥ずかしくてたまらないはずなのに、ちゃんと見せてくれた。
俺に、“見せたい”って、思ってくれたんだ。
その想いが、ただただ、ありがたくて。
帰り道。
夕陽が傾いて、街のショーウィンドウに反射する。
その光が、咲良の髪を金色に染めていた。
揺れる黒髪が、まるで夕焼けに溶けてしまいそうで――思わず見とれてしまう。
「……プール行くとき、天気いいといいね」
ぽつりと落とされたその声は、陽だまりの中でふわっと浮かんで消えていった。
そして、咲良は俺の袖をちょん、と引っぱる。
まるで「こっちだよ」とでも言われたみたいに、俺の世界が一瞬で咲良に引き寄せられていく。
俺は、自然とその手を握っていた。
そっと、やわらかく。
強くなりすぎないように、でも確かにつかまえるように。
肩にかけていた買い物袋の持ち手を握っていた、咲良の片方の手がそっと離れる。
ゆっくりと動いて、髪を耳掛けた。
そして、俺を見上げて微笑む。
「……悠馬くん、嬉しいけど、見すぎ……でも、私も見たから……かっこいいなって」
咲良の「かっこいいなって」なんて、そんなストレートな言葉、不意打ちすぎて――
一瞬、呼吸が止まる。
どれだけ心臓を鍛えても、これは無理だ。
顔が一気に熱くなって、言葉を返す前に口が開いてしまう。
でも声が出ない。
「……あの、えっと……それ、ずるいですよ……」
精一杯しぼり出したのは、それくらい。
でも内心はもう、咲良のその一言を何度も何度もリピート再生してる。
「嬉しいけど、見すぎ」って、照れながら言う咲良も。
「私も見たから……かっこいいなって」って、
あんな小さな声で、でもまっすぐ伝えてくれる咲良も。
“見られた”ことにちゃんとドキドキしてくれて、“見た”ことにちゃんと想いを返してくれる――
そのバランスが、咲良らしくて、たまらない。
きっと、この瞬間を一生忘れない。
帰り道の空の色、駅前の人の流れ、風のにおい、全部が特別な記憶になる。
その日、咲良の“ちょっとだけの勇気”は、俺の中で確かに宝物になった。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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