おあいこ
五月の終わり、朝の空はどこまでも澄んでいて、真っ白な雲がいくつも、ふわりと形を変えながら流れていく。校庭の砂は昨日の雨をすっかり吸い上げて、うっすらと白い砂埃を舞わせていた。
テントの支柱が立てられ、紅白の旗が風に揺れている。遠くでは、応援団が太鼓を叩きながら声を張り上げていた。
体育祭が始まる前、昇降口裏の小さな階段に腰掛けて、俺はこっそり水筒の水を飲んでいた。
「……ここにいたんだ」
ふいに、影が落ちた。
顔を上げると、咲良先輩が制服姿で立っていた。
今日は体育祭本番。
これから教室に戻って、体操服に着替えるはずなのに、なぜか俺の前に立っていた。
「先輩……おはようございます」
「……うん。緊張して、落ち着かなくて……」
視線をそらしながら、咲良先輩は胸元で指先をそっと合わせた。
白いシャツの袖が風にふわりと揺れて、少しだけ透けるように見える。
「もうすぐ、着替えに行きます」
俺が言うと、咲良先輩は小さくうなずいた。
「……わたしも、行かなきゃ。……がんばろうね」
その声は少し震えていた。
咲良先輩の表情は、相変わらず静かで感情が読めないけど、なんとなくだけど緊張が伝わってくる。
「……先輩こそ、がんばってください」
そう返事をすると、咲良先輩はわずかに眉を上げて、それからゆっくり背を向けた。
校舎に向かう廊下の先で、咲良先輩の制服のスカートが小さく揺れていた。
今日の体育祭が、少しだけ特別なものになるような気がして。
やがて、パン、パン、と開会式が始まる合図の音が弾ける。
青い空の下、校庭を囲むテントの白が風に揺れていた――
次々と競技が進み、歓声が上がる。
砂埃と太鼓の音が混じりあって、空気が熱を帯びていく。
「続いて――三年生による、ペアダンス!」
アナウンスが流れると、一層大きいどよめきがわく。
午前の部のラストを飾る三年生のペアダンス。
少し、鼓動が高くなる。
入場門から出て来た三年生が、クラスごとに一団を作る。
視線は当たり前のように咲良先輩を捉えた。
その姿を見たとたん、ごくりと息をのむ。
ふわりと風を含んで揺れる白いミニスカート。
軽やかな素材が、動くたびにひらめいて、陽の光を柔らかく反射していた。
上は青のクラスTシャツだけれど、リボンと小さなゼッケンが胸元に添えられていて、どこか特別な雰囲気が漂う。
いつものストレートロングをポニーテールにまとめた髪には、白と水色のシュシュがきゅっと結ばれていた。
いつもと少し違う、その装いに――
太ももに視線を持っていかれた自分を「やば」と思いながらも、止められなかった。
咲良先輩の相手は、サッカー部キャプテンの市川先輩。
長身で爽やかな笑顔の、学年どころか学校中で人気の人だ。
「ほんと美男美女だなぁ……」
俺の近くで、女子がため息混じりに呟いた。
拍手の音に混じって、そんな声があちこちから聞こえる。
軽快な音楽が始まる。
市川先輩が咲良先輩の手を引き寄せ、二人の距離が一気に近づく。
咲良先輩の表情は変わらないけれど、市川先輩の腕がそっと咲良先輩の腰に回されると、わずかに体が硬くなるのがわかった。
ターンのたびに、先輩のポニーテールがふわりと弧を描き、青空に光を散らす。
スカートの裾が翻り、太ももがしっかりと見えて……。
市川先輩は軽やかにリードして、咲良先輩の背中を支えるようにして動きを合わせていく。
軽やかにステップを踏みながら、二人は顔を近づけ、見つめ合う。
「ひゅー」「きゃー」と歓声が上がる。
さらに咲良先輩の唇がわずかに動き、何かを囁くように微笑む。
観客席からさっきより、一際大きな歓声があがった。
音楽が盛り上がり、二人はさらに密着し、肩と肩がぴたりと触れる。
市川先輩が咲良先輩の腰を軽く支え、体を回すように導くと、ポニーテールが大きく舞い、ミニスカートがさらにふわりと広がる。
曲が終わりに近づくと同時に、二人は正面を向いてピタリと止まり、決めポーズ。
市川先輩が咲良先輩の腰に片腕を回したまま、もう一方の手で咲良先輩の手を高く掲げ、咲良先輩はわずかに笑顔を浮かべる。
その瞬間、パシャパシャッと、シャッターとフラッシュがたかれた。
空気が割れんばかりの拍手と黄色い歓声が校庭に響き渡る。
なんか心の中がずきずきとしてモヤモヤが広がる。
わかってる。
ダンスだ。
種目だ。
でも、自分以外の誰かとあんなふうに笑い合う咲良先輩が、どこか遠くに感じられて苦しかった。
昼休み――
人の少ない体育倉庫裏の影で、俺は咲良先輩と二人、持参したパンをかじっていた。
強い日差しが校庭を照らして、砂埃が風に舞い上がる。倉庫のひんやりした壁にもたれながら、頭の中でグルグルとめぐる、ざわつきがまだ収まらない。
「……ダンス、すごく綺麗でした」
喉の奥が詰まって、少し遅れてやっと出た言葉だった。
咲良先輩は水筒を口に運びながら、視線をほんの少し横にずらす。
白い鉢巻は外されていて、汗で額に貼りついた濡れた髪を指先でそっと払った。
「……あれは、仕方ない……みんなの前で、だから」
ポニーテールの毛先をそっとつまんでいじる。
声は淡々としているのに、ほんのわずかに揺れているように思えた。
「……市川先輩、優しそうでしたね」
口にしてから、胸が小さく痛んだ。
視界の端で、咲良先輩の指が止まる。
うつむいた頬が、かすかに赤くなるのがわかった。
咲良先輩は下唇を噛むと、両手で太ももを抱え込むようにして、膝におでこをくっつけた。
声をかけようとして、飲み込む。
ごめんね……って言いたいのに、結局、言えない。
風が吹いて、砂埃が舞い上がる。
二人の間だけ、時間が止まったみたいに静かだった。
咲良先輩はそのまま動かなかった。
ポニーテールだけが風に応えてゆれる。
俺も俯きながらパンの袋をぎゅっと握りしめた。
そして――
午後の部。
俺の出番は、体育祭の演目の最後を飾る男女混合リレーだった。
男女一組、ペアで手を繋いで走る特別ルール。
相手は、学年で一番人気の川島さん。
アイドルみたいに整った顔立ちで、明るい茶色の髪が陽に透けている。
天真爛漫な笑顔が、やけに眩しく感じた。
スタート前、二人で並んで観客にポーズを取る流れになると、川島さんは躊躇なく俺の腕を取って、「がんばろーねっ!」と満面の笑顔を向けてきた。
「キャー!」
女子の歓声が一斉に上がり、あちこちからシャッター音が響いた。
思わず、観客席の咲良先輩を探した。
……いた。
タオルを胸の前でぎゅっと握りしめ、無表情のままだけど、少し俯き加減で俺を見てくれていた。
リレー本番。
「よーい。スタート」
パンッ!
トラックの熱気と砂埃が、走る足元に絡みつく。
バトンを握る手が汗で滑りそうになる。
全力で駆けて、カーブを抜ける。
川島さんの手が強く握り返してくるのを感じた。
バトンを繋いだ時、息が切れて頭がぐわんぐわんする。
その肩を川島さんが叩き、「速かったね!」と笑う。
華やかな声が耳に届いて、咲良先輩の顔がふいに頭に浮かんだ。
タオルを握りしめて、少しだけ哀しそうだった瞳――。
勝敗なんて、正直どうでもよかった。
ただ、今は咲良先輩に会いたい――
それだけだった。
それから――
帰り道。
校門の先で、咲良先輩が壁に寄りかかり待っていた。
「……お疲れさまです」
声をかけると、小さくうなずいて、でも視線は合わせてくれなかった。
しばらく。
当然のように沈黙がふたりの間に流れる。
「川島さん……楽しそうだったね」
ぽつりと言った声が、妙に静かで冷たい。
「……市川先輩と、すごい息合ってましたね」
俺も思わず、言葉を返す。
二人とも、その後黙ったまま歩く。
歩幅だけはぴたりと揃っていて、でも、ぎこちない沈黙だけが続く。
「……なんか、やだ」
咲良先輩の声が小さく震える。
俯いたままの指先が、ほんの少し俺の袖を掴む。
思わず、その手を握った。
「……俺も、です」
咲良先輩はぎゅっと力を込めて、俺の手を握り返してきた。
汗ばんだ掌の熱が、じんわり伝わってくる。
「……今日は、おあいこに、しよう」
顔は俯いたまま、でもしっかりとした咲良先輩の声音。
「はい……」
空には赤く染まりかけた夕焼け。
熱気の残る空気の中、そっと繋いだ手の温度を忘れないように、指先に力を込めた。
きっと、いや、この日のことを、一生忘れないと思った。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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