集中……
中間試験を目前にした放課後。
図書室の窓の外では、夕方の空がじわじわと濃くなり始めていた。
橙色に染まりかけた光が、時間の流れを突きつけられる気がする。
そんな空の下、咲良先輩と隣り合って座る図書室の一角。
棚に囲まれたこの席は、奥まっていて、人影もまばらだ。響くのは鉛筆の走る音と、ページをめくる控えめな音だけ。
時折、誰かが椅子を引く音が遠くに混じるが、それすらすぐに静寂に溶けていった。
俺は教科書に目を落としつつ、ふと視線を横へ向けた。
咲良先輩の横顔。
睫毛の影が白い頬に落ちていて、まっすぐノートを見つめる瞳の奥には、静かに集中が宿っている。
細い指が器用にペンを走らせ、時折、無意識のように髪を耳にかける仕草。動作一つ一つに無駄がなくて、けれどどこか柔らかい。
「……何」
唐突に顔を上げた咲良先輩が、少しだけ眉を寄せてこちらを見た。
いつもの、あまり感情を表に出さない表情。
けれど、唇の端がわずかに震えている。
たぶん、俺がまた見つめていたことに気づいてる。
恥ずかしいくらい、バレバレなんだろう。
「いや……先輩、すごいなって思っただけです」
「ん?」
首を少しだけ傾げた先輩の瞳が、柔らかい琥珀のように光を吸っていた。
何が?と無言で問いかけるその表情が、妙に可愛くて、思わず視線を逸らした。
「いや、なかなか、あれで……」
ごまかすように頭を掻いて俯く。
俺の問題集はようやく半分ほど。
なのに、横を見ると咲良先輩はすでに次の教科に移っている。
明らかに進みが違う。
「……春川くん、進んでるの?」
低めの声。
ペンを持つ手が止まり、そっと俺のノートを覗き込みながらの問いかけは、叱るというより、少しだけ呆れたような、でも気遣うような響き。
「一応……でも、ここちょっと迷ってて」
俺が見せたページに目を落とした咲良先輩は、軽く頷いて、ノートを指先でなぞるように指し示した。
「それなら、ここの式を整理してから、代入。……ほら」
言いながら、身を乗り出して説明を書き足そうとした咲良先輩の椅子が、きぃ、と小さく音を立ててずれる。
重心が崩れた、その瞬間。
「――わっ」
咄嗟に手を伸ばして、肩を支えた。
細くて柔らかい。
その感触が手のひらを通して伝わる。
ぐっと近づいた距離。
目の前にあるのは咲良先輩の髪、そしてかすかに香るシャンプーの匂い。
胸が一気に跳ね上がる。
「あ……、ご、ごめんなさい、大丈夫ですか」
「……うん。ありがとう」
距離の近さに戸惑ったように、ふわりと揺れた髪が、ほんのわずかに赤い頬に触れ、咲良先輩が目を伏せる。
いつもの無表情に見せかけて、隠しきれてないところが、ずるいくらいに可愛らしい。
「……気をつけて」
俺の声は少し掠れていた。
落ち着こうと、ノートに視線を落とす。
だけど、俺の心臓はまだ落ち着かない。
少しして、ペンを置いた咲良先輩が小さく息を吐いた。
「……ちょっと、喉乾いたかも」
咲良先輩が立ち上がり、机の上に置かれた水のペットボトルに手を伸ばしたとき、消しゴムが床に落ちた。
「あ、それ拾いま――」
同じタイミングで机の下に手を伸ばす。
ゴンッ!
先輩と俺の頭がごつんとぶつかった。
「……っ」
「い、痛っ……す、すみませんっ」
「……私の、方こそ」
咲良先輩が静かに顔を伏せ、手で額を押さえる。
長い髪の隙間から見える赤い耳。
痛そうなのに、なんだか妙に申し訳なさと可愛らしさが混ざって、俺は思わず笑ってしまいそうになる。
「大丈夫、ですか?」
「うん……少し、びっくりした」
咲良先輩は、それ以上は何も言わずに、髪を赤く染まった耳に掛ける。
その仕草は、俺にはもう“照れ”のサインの一つとしてインプットされてしまっている。
視線が揺れたり、俯いたりはもちろん。
袖を握ったり、毛先を触ったり。
全部が、かわいいくて――。
ふっと見た窓の外は、オレンジ色に染っていた。
開け放たれた窓から、ひんやりとした風が吹き込んで、テーブルの上の本やノートのページを弄ぶ。
ザッと、二人同時に席を立つと自然に目が合った。
「……俺、閉めますから」
その瞬間、サーーっと、吹き込んだつむじ風が、咲良先輩のスカートの裾をふわりと持ち上げた。
「っ……!」
咲良先輩が、慌ててスカートを前後から押さえる。
そして、俺を一瞬だけ鋭く睨む。
……いや、俺、見てないです。ホントです。
「……何も、見てないです」
思わず目をつむって首を振る。耳が熱い。
「……見てないなら……いい」
短く返し、咲良先輩は椅子に腰かけて、またノートに視線を落とす。
でも、その耳が赤く染まっているのを、俺はしっかり見てしまう。
というか、俺も真っ赤だったのはバレてるだろうか。
窓を閉めて椅子に腰かけてた。
問題集のページを捲る。
でも、頭の中では、さっきのハプニングが動画のように繰り返し再生されて、どうしても集中できない。
咲良先輩がふーっと吐息を漏らす。
「……やっぱり……見たの?」
「え?……なにが?」
「ずっと……めくってる……だけだから」
図星を突かれた。
軽く咳ばらいをして、誤魔化すように頭を掻く。
「いや、なんかちょっと疲れたって言うか、分かんなくて……」
「どこ?」
「……はい。じゃあ……ここ、お願いします」
照れ隠しのように、すぐにノートを見せる。
咲良先輩が淡々とペンを走らせる間、机に落ちる小さな影を、ずっと目で追っていた。
咲良先輩が鉛筆を持つ細い指。
肩まで流れる長い髪。
放課後の図書室。
静かで、二人だけの時間。
「……ここは、公式を覚えた方が、早い」
そう言って、咲良先輩がノートの隅に小さく式を書いてくれる。
数字の羅列も、先輩の字だと、どこか温かいものに見えるから不思議だ。
「ありがとう……助かります」
「……別に」
そっけない口調の裏に、ふいに耳をかける仕草がまた現れる。
何度見ても、それは俺の心に優しく刺さった。
やがて、閉館前のチャイムが静かに鳴り響いた。
気づけば、図書室が薄闇に包まれていた。
「……もう、そんな時間か」
咲良先輩がそっと呟き、ゆっくりと鞄をまとめ始める。
だけど、手の動きが途中で止まり、ぽつりと、心の奥をすくうような言葉が落ちた。
「……暗くなるの、少し苦手」
低く、かすれた声。
その一言は、咲良先輩がめったに見せない、弱さのかけらだった。
思わず、手を伸ばしていた。
机の下、そっと指先が触れる。
咲良先輩は驚いたように俺を見る。
でも、手は引かれなかった。
「……一緒に、帰りましょう」
そう言った俺に、咲良先輩は一拍置いて、伏し目がちに小さく頷いた。
「……うん」
答えた口もとに小さく笑みが浮かんでいた。
図書室を出るころには、空は深い群青に染まりかけていた
でも、不思議と、心の中はあたたかかった。
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