君が風を止めた日
高校二年の春。
桜が風に舞い、校庭の隅に淡い花びらの吹き溜まりを作っていた。
淡く、儚く、それでもどこか芯のある色彩。
俺――春川悠真は、その光景を、教室の窓辺からぼんやりと眺めていた。
特に理由があるわけじゃない。ただ、春の風が心地よくて、頭の中までふわりと軽くなるような気がしたから。
……でも、ふと気づくと、俺の視線は、いつも同じところに向かっていた。
三年の美波咲良先輩。
校舎の渡り廊下を一人静かに歩く姿。
窓際で本のページをめくる、しなやかな指先。
彼女の動きはどれも音がしないのに、目を離せなくなる。
まるで、静かな絵画の中でだけ生きているような、不思議な存在感。
感情をあまり表に出さず、いつも一歩引いたようなその佇まい。
けれど、時折見せる仕草――長い髪を耳にかける動きや、制服の袖をそっとつまむ指の震えが、どうしても心に引っかかった。
「……また、見てたな」
廊下の向こうから歩いてくる咲良先輩と、今日も自然に目が合った。
ほんの一瞬。立ち止まりもしない。ただ、通り過ぎる間の、わずかな交差。
だけど、彼女の瞳は、まばたきひとつせず、まっすぐ俺を射抜いた。
その無表情の奥に、なにか言いかけたような気配があって。
言葉にならない声が、確かにそこに潜んでいたような気がして――俺は慌てて目を逸らした。
彼女は“氷の女王”と呼ばれている。
誰に対しても冷たくて、無表情で、でも誰よりも整った美しさと気品を持っていて――遠い存在だと、誰もが思っている。
だけど、俺には見えた。
ほんのときどき、彼女の中の“氷”が揺れる瞬間が。
放課後。
下駄箱で靴を履き替えていたとき、不意に声がした。
「春川くん」
その声に、俺は咄嗟に振り向いた。
すると、そこには咲良先輩が立っていた。
春の夕暮れを背にして、淡く照らされるその姿。
制服のスカートを指先でそっとつまみながら、わずかに視線を泳がせていた。
「……はい?」
俺の声は、情けないくらい裏返りそうになった。
それでも、目をそらさずにいられたのは、彼女が――俺をちゃんと見ていたからだ。
「ちょっと、いい?」
声は変わらず淡々としてる。でも、その声色の奥に、わずかな震えがあった気がした。
そして先輩は踵を返し、昇降口の外――人影のない中庭へと向かって歩き出した。
俺は、靴のかかとを踏んだまま、無意識に彼女のあとを追っていた。
中庭は、夕焼けの朱に静かに包まれていた。
空の色が金から紅へと移ろう中で、舞い落ちる桜の花びらが、ひとひら、ふたひら。
春の風がすっと吹き抜け、咲良先輩の髪をふわりと揺らした。
彼女は立ち止まり、少しだけ俯いて――やがて、俺の方を見た。
夕陽を受けた横顔は、どこか儚げで、でも確かな強さを秘めていた。
そして、制服の袖口をきゅっと握ったまま、小さく呟いた。
「……前から、気になってた」
心臓が跳ねた。思わず、呼吸を忘れた。
「最初は、なんとなく。教室で本を読んでるとき、君が外を見てるのが、よく見えて……」
そのとき、彼女はそっと指先で制服の裾をなぞった。
その仕草が、たまらなく綺麗で、切なくて、言葉を失う。でも、そこに彼女の精一杯の勇気が滲んでいて、胸が締めつけられた。
「君の目が、少しだけ寂しそうだった。でも、まっすぐで、きれいで……」
声がほんの少し掠れていた。たぶん、緊張している。
けれど、その震えの中に、彼女のまっすぐな想いが込められていた。
「……好き、です。わたしと、付き合ってください」
風が、止まった気がした。
彼女は俺の目を見つめたまま、一切目を逸らさない。
目の端がほんの少しだけ柔らかくなっていて、それが、彼女なりの“本気”の証だった。
「……ほんとに、俺でいいんですか」
情けなくも、それが精一杯だった。
けれど、彼女は一度まばたきをして、微かにうなずいた。
そのあと、そっと拳を解き、開いた指先に、春の風がふれて揺れた。
あれはたぶん、安心のしるし。俺には、わかる気がした。
「……他の誰でもない。君じゃなきゃ、だめ」
ほんの少し、頬が夕日に染まっているのが見えた。
風のせいかもしれないけど、俺はそれを“照れ”だと思いたかった。
その瞬間、胸の奥がふわっと熱くなった。
嬉しい、なんて言葉じゃ足りないくらい――俺は、救われていた。
次の日も、その次の日も、咲良先輩は俺の隣に無言で立ってくれる。
誰にでも無表情な彼女だけど、俺にはちょっとだけわかる。
たとえば、歩くときに指先が少し袖をつかむような動き。
俺が何か言いよどむと、視線をそっと向けてくれること。
昼休みに隣に座るとき、俺のペンケースに目を落としながら、机に指でリズムを刻むような音を立てる癖――
そういった“ちいさなこと”に、彼女の感情が宿っている。
言葉は少ない。でも、ちゃんと伝わってくる。
だから、俺は毎日、彼女の小さな変化を見逃さないようにしてる。
それが、俺だけに向けられた“気持ち”だから。
少しずつ、少しずつ――
心の温度を確かめ合うみたいに、俺たちは歩いている。
そして、そんな日々が、何よりも愛おしい。
お読み頂きありがとうございます_(._.)_。
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