1-5
雀が鳴く声で目覚め、台湾でも雀はチュンチュンと鳴くのだなと当たり前のことを考えながら麗は目を擦った。
日の光が寝室に入ってきてベッドを照らしている。
のっそりと上半身を起こした麗は寝乱れてバスローブからブラジャーががっつり見えていたので、慌てて前を閉め、ゆっくりと辺りを見渡した。
(良かった。隣にいるアキ兄ちゃんはまだ寝てるわ。いや、待て、アキ兄ちゃんが隣で寝てる。隣でだ。もしかして、これが巷で聞く朝チュンなの? 雀鳴いてるし)
麗は焦りながら昨夜の事を思い出した。
昨夜、明彦は意外と長風呂だったので、麗は一人、ソファの上でテレビを見ながらうとうとしてそのままソファで……寝た。
日本語のチャンネルがあったが、ニュース番組だったのが悪い。経済の話は麗には難しかったのだ。
つまり、ソファで寝ている麗を明彦が一つしかないベッドまで運んでくれたのだろう。
そして、明彦も横で寝たのだ。
(うん、何もなかった)
音を立てないようベッドからそっと下り、洗面所へ向かう。
途中で、テーブルにカラトリーが乗っているのが見えた。
そうだ、昨夜、麗は夕飯の存在を忘れていた。
中途半端な時間に機内食をもりもり食べ、スパでフルーツなどをもらったせいだ。
明彦は麗が寝た後、部屋で一人にしないようルームサービスを頼んだのだろう。
(大変申し訳ない)
「れい」
いつもよりもゆっくりと掠れた声で、名前を呼ばれ麗は振り向いた。
明彦もまたバスローブ姿で色気が漂っている。
豪奢な椅子に座らせ、血統書付きの毛の長い猫を膝に乗せ、赤ワインを持たせたら、今すぐにでも悪の組織の幹部になれそうである。
(二つ名は何だろう? イケメンジャーでは安直すぎるし正義の味方やな)
いや、元々明彦はただのビジネスマンでイケメンだった。
しかし、悪の組織の女幹部メンクーイにそのイケメンっぷりを気に入られ、組織の一員として無理矢理洗脳されてしまう。
ある日、組織の命令で美形戦隊イケメンジャーの本部に潜入した明彦は、自分と同じイケメンたちとの暖かな交流で本来の自分を思い出し始める。
しかし、いつまでも成果を上げない明彦に痺れを切らしたメンクーイが本部を襲撃、あわやイケメンジャーが倒される、その時!
明彦はイケメンの守護精霊ユウカンマッダムのお金の力で、漆黒のイケメン戦士イケメンジャーブラックに変身した!!
そうして、イケメンジャーたちは力を合わせてメンクーイを倒す。
しかし、俺は洗脳されていたとはいえ、これまで悪事を働いてきたからお前達の仲間にはなれない。と、悲壮な覚悟を決めたイケメンジャーブラックは、イケメンジャーレッドの説得もむなしく、皆の前から去ってしまう。
だが、それからちょくちょくイケメンジャーの危機には現れるようになり、ついに最終回の二話くらい前から仲間として共に戦い、悪の組織を倒し、本来のビジネスマンとしての生活に戻っていった。
ありがとう、イケメンジャーブラック、ありがとう、イケメンジャー。君たちのお陰で世界の平和は守られた!
「……おはよう。明彦さん、コーヒー淹れようか?」
妄想から帰還し、せめて、明彦のために何かしようと麗はエスプレッソマシーンを弄る。
何をどうすればコーヒーが入れられるのだろうか。
説明書が貼られてあるが、中国語と英語でわからない。
「いらない」
のっそりと明彦が麗の近くまで歩いてくる。
明彦も先程の麗と同じように寝乱れてバスローブがはだけているが、均整のとれた体を隠す気はないらしい。目に毒だ。
「明彦さん、まだ眠そうやね。二度寝したら?」
(結構、筋肉質。忙しい中、鍛えてるんやな)
「いや、起きてる」
「それなら、着替えて朝御飯食べに行かへん?」
「昨日の服はランドリーサービスに出した。戻ってくるまで着替えられないから部屋からは出られんぞ」
「そうなん!?」
麗は汗臭くても気にせずに昨日の服を着るつもりだった。
麗の服など、激安の量販店で買っているものなので、洗濯代の方が高くついてしまうだろう。
「腹が減ったならルームサービスを頼むか?」
お腹が空いていないと言えば嘘になるが、物凄く空いているわけではない。
我慢できるので麗は首を振った。
「私はまだ大丈夫。明彦さんは?」
「俺もまだいい。なら今日の予定を決めようか? どこか行きたいところはあるか?」
麗は質問されながら何故か後頭部を撫でられた。ペットの猫にするかのような扱いで、わりとよくあることだ。
「小籠包食べたい! これだけは絶っ対行きたい!!」
麗はテレビで見た大御所とオカマの芸能人が小籠包を味わっている映像が頭から離れず、ずっと食べてみたいと思っていたのだ。
「並ぶかもしれないが、台湾で一番有名な店に行くか?」
「うん!」
ぱああっ、と麗は目を輝かせた。
「他に行きたいところは?」
「うーん」
本当は台湾庶民が夜毎に集まる夜市にも行きたかった。
大御所とオカマの芸能人がエステを受けている間に、お守りから解放されたと笑いながら夜市で芸人が美味しそうな食べ物を頬張りながら散策している様子を思い出す。
だが、明彦のようなお金持ちに、人混みで衛生面でも完璧には思えない夜市で食べ歩きがしたいと言うのも麗は気が引けた。
「折角の新婚旅行だ。麗が行きたいところは全部連れていってやる」
明彦の指が麗の髪を弄り、優しい声が腰に響く。何だか、麗は体がざわざわするような感覚がした。
「………」
「ほら、言ってみろ」
「夜市とか、嫌じゃない?」
「嫌じゃない。お前と一緒ならどこでも……」
つい上目遣いになっていると、ピンポーンと、部屋のチャイムが鳴り、麗は出ようと振り向いた。
「こら、その格好で出るな」
ヒョイ、と猫のようにバスローブの首根っこを掴まれ、後ろに下がらせられる。
仕事が早すぎるのも考えものだと呟きながら、明彦が玄関へと向かっていったのだった。
心得ている様子のウェイトレスが、スマートフォンのカメラを構えた麗に向かってゆっくりと蒸籠の蓋を開いた。
「わあっ!」
湯気がフワッと広がり、麗は思わず小籠包が動くわけでもないのに連写した。
明彦に以前、お下がりでもらったスマートフォンには高画質カメラがついているものの、普段はあまり使わないので、いい機会とばかりに写真を撮りまくる。
スマートフォンの待受は最も美しく写った小籠包で決定である。
麗はスマートフォンを置き、お箸を右手にレンゲを左手に持った。
「いただきます!」
麗はそっと小籠包の頭を箸でつまみ、レンゲに乗せた。
(良かった、薄い皮が破れへんかった)
「熱いから気を付けろよ」
「はーい」
テーブル席の反対側に座った明彦の忠告など麗の耳には入ってこない。
まずは何もつけずにそのままを楽しもうと、箸で小籠包の端を破った。
ジュワっと肉汁のスープが溢れ、レンゲを少しでも傾けたらこぼれてしまいそうだ。こんなに小さいのによくぞここまで肉汁を貯めていた。
麗はそっとレンゲに口をつけた。
「あつっ!」
唇と舌が少し痺れ、慌てて水を飲む。
「大丈夫か?」
「へーき」
麗は言うや否やもう一度口をつけた。
外気に触れて少しだけ冷めた肉汁のスープが口の中で広がる。全て飲み干し、残った皮と肉を一気に口にいれた。
「はあ……美味しい」
麗は恍惚とした。
流石は世界でトップ10に入るといわれるレストランだ。
正直に言うと、外観は普通の古いビルで、前に小籠包らしきマスコットが置いてあるものの、大して儲かっているようには見えない。
朝食を食べずに早い時間に行ったので、あまり待たずに入れたが、二階の窓際の席から下を見てみると、どんどんと人が店の前に増えていき、麗の期待値も上がっていった。
そして今、これは、麗の予想を遥かに上回る美味しさである。
「そりゃ、良かった」
明彦がクスりと笑いながら小籠包を箸にとった。
(しまった)
小籠包に夢中になって我先にと勝手に食べ始めてしまった。
「うん、確かに上手いな。麗、冷めるから早く食え」
明彦は麗の無作法を気にしていないようで二つ目に箸をつけたので、麗も詫びて雰囲気を壊すよりかはと追随する。
今度は生姜を乗せて食べる。
濃い肉汁のスープにさっぱりした生姜が絡まり、やっぱり美味しい。
「幸せ……」
麗は感動すら覚えていた。
ほう、と余韻すら堪能していると、ウエイトレスがエビチャーハンを運んできてくれた。
注文の時にご飯ものは食べるかと明彦に聞かれたが、麗はそんなに食べきれないと断ったので、三つ目の小籠包に口をつけた。
小籠包は小さいので、麗はつるりと食べてしまう。
一方の明彦は箸休めには胃に重そうなチャーハンを食べている。
エビチャーハンだけあって、見ただけでもエビの量がすごい。
チャーハンの主役は米じゃない、エビである俺だ! と主張しているかのようだ。
「美味いからこれも食ってみろ」
明彦がヒョイとチャーハンの乗ったレンゲを麗の前に持ってきた。
スキンシップは多いが、そこまでのことはしたことがなかったので、一瞬迷ったものの、素直に口を開け、そのまま食べさせてもらう。
「ほんとだ、美味しい」
エビの風味が凄い。
やはり、エビが主役だと麗は確信した。
脇役の米と卵は名俳優で、油っぽすぎたりせず、ほどよく薄味でいくらでも食べられそうだ。
「ほら、もっと食え」
「うん、連れてきてくれてありがとうね。こんな経験は二度とできへんわ」
「馬鹿言え、日本にも支店があるらしいし、本店が気に入ったならまた台湾まで連れて来てやる。お前は一生俺といるんだから」
麗はふっと真顔になった。
明彦がまた麗を連れてくれる。少し年を重ねて中年になり、また年を重ねて老人になる。
明彦と劇的な恋に落ちる女刑事なんて登場させず、明彦の歴代の恋人達も、まして姉すら登場させず、明彦と麗が二人で美味しい物を食べているところを想像してしまった。
「……うん、ありがとう」
あまりにも分不相応な空想を麗は早々に忘れることにした。