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台湾桃園国際空港に降り立つと、嗅いだことのない独特の匂いがした。
あのあとすぐ、明彦がチケットを取ってくれ、気づけば麗は高校の修学旅行ぶりの飛行機に乗ることとなった。
そのため、急な出張用に常にスーツケースを用意していた明彦と違い、麗はほぼ手ぶらだ。
今なら、RPGゲームではじめてのダンジョンに向かう主人公の気持ちがわかりそうだ。
一応、装備は現地で調達することになっているし、旅慣れた明彦と一緒なら問題はないだろうが、ついつい周囲をキョロキョロしてしまう。
台湾の気温は日本の夏とそう変わりなく、空港の設備は日本とほぼ同じなのに、匂いが違う。
これは台湾人が好んで使う調味料の臭いなのだろうか。
麗がそう思ったのは、テレビで外国人スポーツ選手が日本に初めて訪れた時に醤油の匂いがしたと言っていたことを思い出したからだ。
麗は隣を歩く明彦に声をかけてテレビの話をしようとして、やめた。
麗はテレビが好きだ。見たこともない世界に連れていってくれて、一人ぼっちで見ていても、笑い声が聞こえてきて誰かがいるような錯覚に陥れるから。
だが、明彦は精力的に仕事をし、姉のような特別に優れた仲間たちに囲まれた、自分自身の人生を謳歌して生きている人間だ。
麗はそんな明彦にテレビの話ばかりするのは何だか恥ずかしく思えたのだ。
なので、その代わりに明彦について聞く事にした。
「明彦さんは、台湾には来たことあるん?」
「仕事で何度か。だが、用が終わればすぐ帰国したから観光はしたことがない。精々、取引先にランチに連れていって貰ったくらいだ」
「ぇえ!勿体ない!!」
明彦は姉と同様に仕事人間だということは麗も知っていたが、何故そんな事ができるのだ。
理由は簡単。
忙しいいのは勿論、お金があるので仕事の合間を縫わなくても、時間の余裕のある時に自費で旅行はすればいいと考えているからに決まっていると麗は一人で疑問を抱き、一人で解決した。
「だが、そのおかげでお前と一から観光ができて俺は嬉しいよ。同じ感動を共有できるだろう?」
「なっ! な!」
明彦の突然の甘い言葉に麗は固まりそうになった。多分顔はまた赤い。
明彦が麗の顔を見て、クスリと笑った。
「もう! 人の事すぐからかうんだから!!」
昨日今日と、麗は明彦の言葉に翻弄されっぱなしである。
「んー? 本気で言っているんだがなぁ」
口ではそう言うくせに明彦の顔は笑っている。
「もう!」
麗が唇を尖らせて歩いているうちに、入国審査の列につき、明彦から紙を渡された。
出入国カードと書かれたそれは着陸前に明彦に一番下にサインするように言われたものだ。
「これとパスポートと搭乗券を審査官に渡せ」
出入国カードは明彦が英語で書いてくれたが、筆記体で書かれていて麗には読めない。
「わかった。ありがとう」
正直、麗は不安だった、何てったって中国語圏にきてしまったのである。
勿論、麗は中国語が話せない。
不安な顔の麗を見た明彦が麗の背中を軽く叩いた。
「sightseeing、3daysとだけ言えば大丈夫だ」
たった2単語とはいえ明彦の英語の発音が素晴らしかったので真似できるか自信がない。
「サイトッシーーイング、スリィディズ、サイトッシーイング、スリーディズ、さいとシーイング、スリィデイズ、さいとしーいんぐ、スリーでいず」
繰り返せば繰り返すぼと、正しく言えているのか、わからなくなる。
(どうしよう、入国できへんかったら。何言っているかわからないから日本に帰れと言われたりして……)
「麗、もし駄目でも、外国人相手の仕事をしている台湾人は、日本語が話せる人が多いから心配しなくていい。どうしても駄目なら後ろにいてやるから振り向け。な?」
明彦がワシャワシャっと、麗の髪を混ぜた。きっと髪がグシャグシャになったろう。
とはいえ、飛行機では、明彦は仕事が残っていると言って、手持ちの鞄から薄いノートパソコンを出して仕事をしだしたので、麗は邪魔にならないように、お酒を飲んで、ビジネスクラスの快適なシートを倒して寝ころび、最新のアニメ映画を見て感動するというかなり自堕落な時間を満喫したので、髪が乱れているのは今更かもしれないが。
「……わかった」
麗が手櫛で整えると明彦が責任を感じたのか手伝ってくれる。
頭を撫でられるのと髪を指でといてもらうのは違う感覚だ。
明彦の長い指が何度も頭から毛先まで往復する。
麗は髪にまで神経が通っている錯覚を覚えた。
気持ちがいいのに、どこか淫靡で、気恥ずかしい。まるで本当のハネムーンに来た新婚さんのようなやりとりだ。
麗はそうは思ったが、そのまま優しい手つきに陶然として、もっとしてと麗は明彦の手に頭を擦り付けようと……。
「ゴホン!」
突然、麗と明彦の後ろに並んでいる人がわざと咳をした。
「わっ、ごめんなさいっ!」
回りを見ると麗の順番が来ていたようで、麗は慌てて審査官の元へ行った。
(あかん、恥ずかしい!)
「はねむーん、すりーでいず!」
と言いながら手に持っていた物を渡すと、目があった監査感がゆっくりとにんまり笑った。
(あ、今私、ハネムーンって言ってもうた。間違えた。何故、サイトシーイングと言えへんかった。あれだけ練習したのに)
顔が赤い気がする。絶対に赤い。
もう今日だけで一生分顔が赤くなっている筈だ。
下を向いている間に手続きが終わったのか、監査官からパスポートを返却され、Have a nice tripと言われたのだった。
「ファンイングワンリン」
多分、店員にこやかにいらっしゃいませと言われ、麗はさっそく回れ右をしたくなった。
空港から乗ってきたタクシーとそれに乗ったままの明彦を待たせて、麗は一人、ランジェリーショップに台湾元とともに放り込まれたのだ。そう、明日からの下着がないから。
それにしても、ものすごーーーーく、派手な店構えで、中も実際、派手だ。
セクシーなお姉さんのポスターがこれでもかと掲げられており、ついでに音楽も五月蝿い。
それに、赤い下着が多い気がする。
(買うの? ここで、私、買うの、下着を。何かディスプレーのブラジャー透けてるけど? 貧乳の癖にサイズないよ、とか店員さんから思われていない?)
「ジャパニーズ?」
「イェース」
アジア系は互いに何となくどこの国出身か何故かわかるよねと、麗は頷いた。
「ハネムーン、スリーデイズ」
サイトシーイングと言うはずが、またしてもハネムーンと言ってしまったが、3日分の下着が必要だという意味は通じたはずである。
「ハネムーン! オーケぇィ!」
店員さんのテンションがにわかに上った。
器用に眉を動かしニヤリと笑って、パッと首にかけていたメジャーを麗の体に巻き付けてくるので、麗は腕を上げた。
初めての大人用ブラジャーこそ、忙しい姉が時間を縫って須藤デパートに入っている老舗ブランド店にわざわざ連れていってくれ、プレゼントしてくれた。
そう、姉が麗のために選んでくれた大切な下着。勿体なくて、普段はタンスに大切にしまっており、姉とお出かけするときだけ使っていた。
今は段ボールの一番上で眠っているはずだ。
だが、その一つ以外は、ドギツイ緑やショッキングピンクなど、とんでもない色のため売れ残った結果、大幅に値引きされ大型スーパーで投げ売りされていた下着をギリギリまで着潰しているような麗には、サイズを測ってもらうのはなかなかない体験で、ちょっと緊張してしまう。
「オーケー、オーケー!」
「シェイシェイ!」
ぐっと親指を立てた店員に、何故か麗もテンションをあげなければいけない気がして追随した。
「セクシー」
ヒラヒラと店員がちょっとおしりを振って踊りながら出してきた下着は真っ赤で、それなのに、スッケスケで、麗は慌てて手を横に振った。
「ノーセクシー、ノーセクシー!」
あまりに扇情的なブラジャーに麗は声が裏返りそうになりながら、何とか希望を伝えた。
「……ノー、セクシー?」
「イエス、ノーセクシー!」
すごーく悲しそうな顔をされたが、こっちはお気づきだろう、貧乳である。
(姉は大きい、母もそこそこあった。なのに何故?)
麗は姉に連れて行ってもらった老舗メーカーの店員曰く、シンデレラバストというものらしい。
当時、シンデレラに貧乳のイメージはないが何故だろうかと考えすぐに解決に至った。
ガラスの靴はシンデレラの足にしかフィットしない。他の女性たちにはガラスの靴は小さすぎるから。つまり、そういうことである。
「オーケー、オーケー。ソーリー、ユー、ユーズイン、トリップ。ユーウォント、イージー」
旅行で使うもんね、楽な方がいいんでしょ、と言われた気がして麗は頷いた。
多分互いに文法はめちゃくちゃだろう。でも、きっと言葉というものは伝えたいという気持ちが大事なのだ。
「イエス、イエス!」
すると、新しいブラジャーが出てきた。
「リトルセクシー」
すごーく残念そうな顔をしながら出されたリトルセクシーな下着に麗は勝利のガッツポーズをした。
多分これがこの店のノーセクシーの限界値である。
「イエス!」
ハーフカップの上にレースが乗ったそれは、やっぱり赤で、セクシーではあるが、先程より断然マシに思え、麗は頷いた。
「センキュー!」
本当はもう少し選びたかったが、タクシーに明彦を待たせており、その間にも刻一刻とメーターは上がる。
「カラー、ツープリーズ!」
「オーケー!」
そうして、麗はショーツはついてこないようなので、箱入りで三枚セットで売っている中から一番地味そうなものも選び、セクシーの守護天使か、セクシー大臣か、なんかとりあえず、セクシーの権化と別れたのだった。
麗の目に台北は、新旧が入り交じった、日本より雑多でエネルギーに溢れた町に映った。
新しい建物を建築している作業員の土台が竹でできていたり、今にも崩れそうな家の隣に最新のビルが建っている。
タクシーの車窓から見える風景に麗が夢中になっている間に、タクシーは日本ならば警察密着番組でモザイクを入れられた運転手が、若い女性白バイ隊員に叱られるのではないかという速度で進んでいく。
それでも、明彦は横でパソコンをタイプし続けており、酔わないか心配になる。急遽旅立つことになったので、調整しきれていない部分もあるだろう。
(それにしても、アキ兄ちゃん、三半規管めっちゃ強いな)
天は明彦に二物も三物も四物も与えたのだなと、麗は車に酔わないという視点から感心した。
「お客さん、もうつくヨ」
「ありがとうございます」
台湾人は日本語が話せる人が多いと明彦が言っていたが、本当のようで、麗が返事をすると運転手がフロントミラーごしににっこりと笑った。
彼はとても親切で、麗が台湾は初めてだと知ると、観光地や有名なビルやホテルが見える度、教えてくれたのだ。
因みにさっきのランジェリーショップも彼が奥さんと喧嘩したときにお詫びのプレゼントを買うのによく使うらしい。きっとセクシーな奥さんなんだろう。
「お客さんが行くホテル。凄くいいホテルネ」
明彦がいつの間にかホテルまで予約してくれていたらしく、旅はスムーズに進んでいた。
「楽しみです」
「見えてきたヨ」
麗は息をのんだ。
「わあ! 凄いっ」
城だ。普通ならヨーロッパ辺りに建っているような重厚な城が見える。
本来ならば、アジア圏にあれば違和感が満載の筈の建物はしかし、色合いが落ち着いているからだろうか、周辺に馴染んで見えた。
タクシーがホテルの敷地内に入っていき、奥へと進んでいく。
せめて、タクシー代くらい出さなきゃと麗は思いつつも、そもそも麗は明彦に渡された台湾元しか持っておらず、結局明彦に払ってもらう。
空港でキャリーケースをベルトコンベアから救い出すよう頼まれていた間に、明彦は一人、両替所へ行っていたらしく、両替することができず、麗は無一文ならぬ無一元だ。
「ありがとございました。台湾、楽しんで」
「はい。ありがとうございます」