6章
女王が帰還した。
大株主の立場で姉を追い出した父が死に、会社に帰ってきたのだ。
姉は結局、父の火葬に間に合わなかった。しかし、その翌日に日本に帰ってきて、遺骨を見に佐橋の家に寄ることもなく、直接会社へ行き、仕事を再開したようだ。
最近まで自分が使っていたはずの社長室の扉をノックし、部屋に入る。
「麗、お疲れ様。大変だったろうに、よく頑張ったわね」
久々に見た姉は仕事を捌きながら、麗にちらりと視線を送ってくれた。
まだ一応辞令は出ておらず、社長は麗なのだが、社長の椅子は姉のために存在しているようにしか見えない。
ここ数年で、姉は更に美しくなったと思う。
ボブにカットされた艶やかな黒髪を耳にかけ、意思の強そうな大きな目には、常人では持ち得ない輝きが宿っている。
「ううん、私は大したことはしてないよ。明彦さんや重役の皆さんが踏ん張ってくれただけ」
「素直に感謝されておきなさい。社長の椅子はあんたには重圧だったでしょう?」
「うん。解放されて嬉しい」
そう、嬉しいはずなので、麗は笑ってうんうんと頷いた。モヤモヤとした感情は気のせいだ。権力の魔物という奴にきっととりつかれていたのだろう。
「あれの遺産を入金しておくからサインして。悪いけど、この会社の株は私がもらうから全部放棄してね。土地は母さんにしたから、あんたはお金」
姉が継母に分配すると決めた土地は駅前にあり、駐車場として活用されている。先見の明があった祖母が購入したものだ。
月に一度入金されるので、父から生活費を入金されていたときと継母の生活は変わらずに済むだろう。
「あんたは母さんと違ってお金に関してはしっかりしてるから大丈夫だと思うけど、無駄遣いしないように。といってもあれが豪遊していたから大した金額じゃないんだけどね」
「私の立場で遺産まで頂くのは申し訳ないし、お母様と姉さんで分けて」
姉が渡してきた遺産分割協議書と書かれた紙に書かれた麗への遺産額は、麗にとっては大金だが、確かに姉や明彦には大したことがない金額だろう。
それでも、このお金があった方が会社を再建する姉の助けになると麗は思った。
「麗、結局あれの最期の面倒もあんたが看たんでしょ? 母さんはそういうのやらないだろうし。当然の権利よ、受け取っておきなさい」
「はい、姉さん」
姉に命じられるとついつい聞いてしまい、麗はサインした。
姉もそれがわかっているから直接言ってきたのだろう。
「ところで、姉さん、義彦さんとお付き合いしてたんやね、知らんかった。今度恋バナとか聞きたいかも」
「付き合う? ああ、そんなんじゃないわ。ただのセフレ」
「セフレ!???」
なんでもないこととばかりに言う姉に麗の声は裏返った。
「別に今どき珍しくもないでしょう?」
「その、でも、義彦さんは……」
あの、姉の願いを見ていたという言葉。そんな言葉、姉を想っていないと出てこないはずだ。
「そうね、私に惚れてるわね」
なんでもないことのように言う姉に麗は困惑した。
いつもならば、さすが姉さん。進歩的だよねと、姉の行動を肯定しているはずなのに。
「あ、そうそう、アメリカの会社の引き継ぎは大丈夫なん?」
「ええ、はじめから父が死んだ時点で抜けるとは伝えていたから」
姉はアメリカでスタートアップ企業? というやつに参加して朝から晩まで働いていたらしい。
その会社の華々しい成果を肩書の一つとして持ち帰ってくるために。
すごく忙しかったのだろう。麗は一応、自身の結婚や社長就任など何かあったときはメールで知らせていたが、返事はいつも了解のみだった。
「麗、おいで」
姉が顔を上げ、麗を見ている。
社長の椅子を後ろに下げて空間を作ってくれた姉の傍に行き、麗はふらふらと膝をついた。
そうして姉のふとももに頭を乗せて、撫でてもらうのだ。
姉が麗を褒めるときにしてくれるいつものお約束。
「本当に偉かったわね。私がこんなに早く帰ってこれたのは麗のおかげ」
優しい手付き。
「うん、姉さんのためだもの」
これが麗の人生で一番幸福なとき。
それなのにひどくもやもやしていた。
(どうして私、明彦さんが頭を撫でてくれるときのことを思い出しているんだろう)
「麗が明彦と結婚してくれて姉さんすっごく助かったわ。流石私の妹」
ちょうど明彦のことを考えていたので麗はドキリとしたが、気づかれなかったようで姉はふふふと笑った。
「明彦に私不在の間、会社を任せられたし。その上、須藤百貨店の支配人、自社の御曹司を無碍にできないみたいで止まっていた改装の話が一気に進んだって部下から聞いたわ」
姉は以前、数ある佐橋児童衣料の店舗の中で、最も売上が高い須藤百貨店の梅田本店のリニューアルに着手していた。
だが、責任者の姉が父に追い出されたことで須藤百貨店の支配人が難色を示していたのだ。
「気づいたら、そうなっていただけだよ」
そう、いつの間にか明彦と結婚していたのは事実だ。
明彦もまた父の死と姉の帰還によりかなり忙しいようで、あれから全然話せていない。
朝早く出勤し、麗が眠りについた深夜に帰ってきている。
「麗、明彦と今どうなっているの?」
「どうって……大切にしてもらっているよ」
「本当に? まだ麗は飽きられていないの?」
姉がコテンと小首をかしげた。どこか楽しそうに。
「飽き、られる?」
明彦に飽きられる。考えたこともなかったことに麗の体は冷水を浴びせられたように冷たくなった。
「だって、そうでしょう? あの男がこれまでどれほど恋人を取っ替え引っ替えしてきたと思うの」
「でも、ふられるのはいつも明彦さんの方で……」
「そう仕向けていただけよ。あいつが恋人に捨てられて悲しんでいる姿、見たことある?」
「ない、かもしれない……」
ない。そう、ないのだ。一度も。
いつも平然としていた。
「でもでも、心のなかでは悲しんでいたかもしれないし……どうしてそんな、明彦さんは姉さんの友達なのに……」
明彦を冷たい人間だと断じるような姉の言葉に、ぐるぐる目が回る。
麗は初めて姉に反発心を覚えた。
「それは勿論、私にとって明彦より麗が大切だからよ」
姉が上半身をかがめて麗の頬を撫でた。
「だからね、須藤百貨店の改装が終わった後なら、別れてもいいわよ」
「明彦さんと、別れる?」
「飽きられた後にまで一緒にいるのは辛いでしょう? 麗が大切だから言っているのよ。麗にとっても私が一番よね?」
麗はいつものように反射的に頷いた。
まるでそれは明彦に傾いていた麗の心を取り戻そうとするかのような言葉。
「うん、私は姉さんがこの世で一番好き」
何故だろう、その言葉は自分で言っていて酷くぎこちなく感じた。




