5-3
「帰るぞっ!」
明彦に手を捕まれて席を立つ。
音楽が始まって会場が静かになっている。こんなときに出るのは周りの迷惑だ。
「明彦さん、ええんよ。イルカショー楽しみにしてたやろ?」
どんどんと進んで、ついには会場から出そうになり、麗は明彦を止めたが、振り向きもしないで引っ張られていく。
「ショーは今日じゃなくてもまた見れる」
「でも、折角来たんやし。あんな人、どうなろうが別に」
麗と父は、明彦と義父母のような親子関係ではない。
だからそんな風に折角の予定を台無しにして欲しくない。
「そうだな。俺も麗の父親は嫌いだ」
(そう姉さんも、お母様も、社員も皆があいつを嫌ってる、あんな奴、嫌い、大嫌い!)
「ならっ!」
「だが、看取っても看取らなくても麗は気にするだろう? だから、俺が決める。行って、しっかり終わらせろ。恨み言でもぶつけてやればいい。何もしないで後悔だけはするな。後悔するなら行動して後悔しろ」
折角、楽しかったのに、会場はどんどん遠ざかっていき、ついには明彦の車に戻った。
明彦がスマートフォンと連携したカーナビを使って、電話帳で佐橋麗音を表示した。
最初はいつものコール音、その後聞いたこともないコール音に変わった。
「兄貴? こっちが今何時だと思ってるわけ?」
いつも軽薄な義彦の、聞いたこともない不機嫌そうな声がして、麗は驚いた。
(何で姉さん宛の電話に義彦さんが出たの?)
「麗音を出せ、今すぐ」
明彦が運転を始め、駐車場から車を出す。
「せっかく寝顔を鑑賞して楽しんでたのに無粋だなぁ」
「ねがお……?」
麗は思わず口を挟んだ。何故義彦が姉と一緒にいるのだ。
(あの姉さんが、私以外に無防備に寝顔を見せてる?)
「兄貴、スピーカーモードなら先に言ってくれなきゃ。困るよ」
義彦が苦笑した。
「……すみません。えっと、申し訳ないんですが、姉さんを起こしてもらえませんか?」
「ちょっと待ってね、麗ちゃん」
保留音。
「えっと……姉さんと義彦さんが付き合っているとか知らんかったわ……」
何故教えてくれなかったのか聞こうとするも、保留音が終わる。
「もしもし、麗。どうした?」
姉の声。強くそれでいて深みのあるこの声を聞けば、いつもは安心する筈なのに、今は落ち着かない。
「姉さん。あのね、あの人、危篤だって」
「ついに来たか。日本に帰るのに時間がかかるから通夜と葬式はそっちで適当に終わらせて。社葬は私が帰ってからするから、母さんにもそう伝えて」
「うん。気をつけて帰ってきてね」
「ありがとう。明彦、会社の事だが……」
明彦と姉が今後の経営について話し合いを始め、麗は口を挟めなくなった。
車が病院へと向かい走っていく。
麗はつまらない高速道路が流れていく風景をずっと見続けた。
病院の雰囲気は何度来ても慣れないと言う人も多いが、麗は病院という空間にはもう何も感じない。
「こんばんは、夜分遅くすみません」
「……今なら少しお話できますよ」
夜勤なのだろう、病室のベッドに横たわる父の傍にはいつものムキムキの看護師がいて、麗を見てやっぱり心配そうな顔をした。
きっと、麗が危篤の父に暴言を吐かないか案じているのだろう。
「ありがとうございます」
麗は頭を下げた。横にいる明彦も頭を下げてくれたが、明彦は無言で、麗の背中を優しく押した。
躊躇っている麗に行けと伝えているのだ。
「あら、麗ちゃん。来ていたのね」
後ろからいつもの穏やかな継母の声が聞こえて、麗は振り向いた。
「お母様」
「下の売店がもう閉まってたからコンビニまで行ってたの。二人がわざわざ旅先から帰ってきてくれたのを知っていたら、飲み物でも買ってきたんだけど」
こんな時でも継母は美しい。落ち着いた柄の着物を着て、綺麗に髪を纏めている。
「こんばんは、お義母さん。どうぞお気遣いなく」
明彦が継母の相手をしてくれ、麗はゆっくりと父に近寄った。
父の体には鼻や腕から、沢山の管が繋がっている。
細い体。こんなに痩せていたのか。
「ゆ、り」
まただ。また父は麗を母と間違えた。
もうほとんど意識がないのか、記憶が混濁しているのかもしれない。それとも、母が迎えに来たのだと思っているのか。
継母が嫌な思いをしていないか心配して振り向いたが、姉と連絡を取れたと伝える明彦とにこやかな笑みすら浮かべ話している。
継母はいつだって麗に優しい。
姉に初めて佐橋の家に連れてきてもらい、住まわせてもらうことになったとき、正妻である継母にどんな風に罵られるかと戦々恐々としていたのに、拍子抜けしたほどに。
だが、麗はいつも継母といると、昔、テレビで見た慈愛に満ちた修道女の「愛の反対は憎しみではない、無関心だ」という言葉を思い出す。
こんなに美しい妻がいるのに、父が愛人を作る理由には麗でも察しがつくくらいには、継母は父に一切興味がなかった。
継母は姉曰く、没落した旧華族の令嬢で、家柄目当ての祖母と援助目当ての継母の親の間で利害が一致し、継母の親の命令通りに父に嫁いだそうだ。
子供を産んだ後は自由とばかりに趣味に精を出し、家事はお手伝いさんに任せ、料理教室に通ってはいるが、あくまで趣味で家族のためではない。
姉の事は愛しているようだが、継母は父に対して常に無関心だった。
まさしくATMと言っていい。父に愛人がいようが、愛人の娘が登場しようが、また新しい愛人を作ろうが、一切気にも止めていない。
愛人の娘の麗に対しても、関心を抱く対象ではなく、ただの他人だから優しくされているように感じる。
そんな継母は今、いよいよ来る自由のときに向け、瞳を爛々と輝かせている。
(ああ、この夫婦には本当に情の欠片もなかったんだな)
「ゆり……」
「なあに?」
それは、自分でも驚くほど優しい声だった。
麗は母が好きだった。酷い男を一途に思い続け、娘より自分を棄てた男を愛していた人。
馬鹿で愚かで学がなくて貧乏でも、それでも、麗は母が好きだった。
優しくて、脆くて、麗が守ってあげなきゃいけなかった。
お手当てがもらえなくなり、水商売の仕事を増やし、夜遅くまで帰ってこない母を、起きている間中、テレビを見て待っていた。
疲れて帰ってきた母を抱き締めてあげたかったから。
そう、麗は母が好きだった。
だから、麗は父の手を握った。
母の代わりに。
多分、母は父の最期の瞬間、手を握りたいと願っただろうから。
「ゆり」
「はい、ここにいますよ」
この手を握ったのは何年振りだろうか。昔は、骨と皮だけで構成されてはいなかった。大きな手だった。
まだ、母と自分の立場を知らなかったころ、父は月に何度かやって来て、麗のために子供服を沢山持ってきてくれる自慢の存在だった。
仕事が忙しくてなかなか会えないと聞かされていたけれど、社長さんをやっている、いつもパリッとしたスーツを着た、カッコいい父。
お洒落をさせてもらい、小さなレストランに連れていってもらった帰り、幸せそうに笑う母と優しい目をした父にそれぞれの手を握って持ち上げてもらい、宙に浮くのが、嬉しくて、楽しくて、何度も、何度もねだった。
(ずっと、恨んで生きてきたと思ってたけど、好きだった時期もそう言えばあった)
父は社長の器じゃなかった。
本当は、実業家で忙しかった母親に振り向いて欲しくて、ずっと見ていて欲しくて、社長の座が欲しかっただけなのだろう。
もし、普通の家庭に産まれていたら、普通にサラリーマンをしていた。
そして、己より優秀で血筋が良くて美しい、凡庸な自分を卑屈にさせる継母のような人ではなく、馬鹿だけど己を愛してくれる麗の母のような人と結婚していたんだろう。
多分、父は救われたかったのだ。自分の存在を肯定して欲しかった。
偉大な母親と、世間知らずだが、何でもすぐにこなせるようになる妻、そしてその賢すぎる上の娘に釣り合わない自分の現実から逃れたかった。
だから、己を盲目的に愛してくれる頭の悪い愛人と頭の悪い下の娘を必要としていた。
(それなのに、そうだ、そうだった、父の訪れが途絶えたのは私が己の家庭がおかしいことに気付いてしまったから)
近所に住む、口さがのない小学校の同級生に、普段家に父親がいないことをからかわれた日。
麗は泣きながら、母の元を訪れた父に聞いた。何故いつも一緒にいてくれないのかと。
それが、母が棄てられる切っ掛けだったのだと、今ならわかる。
父を現実に帰してしまったのだ。
何も知らず、疑問を持たない頭の悪い娘のままでいてあげられなかった。
「れい」
名前を呼ばれ、麗は驚いた。
もう、父は母の幻を見続けて逝くのだろうと思っていたから。
愛するべきだった人ではなく、求めていた愛をくれた人の幻に浸るのだと。
「……うん」
「麗……ちゃんと、愛してやらなくて、ごめん。お前が生まれたときも、麗音が生まれたときも、ちゃんと愛そうと思ったはずだったのに」
思うだけじゃ、駄目だったね、とは口に出さなかった。
「うん」
許すとは言えない。きっと、一生言えない。
ただ、麗を社長に据えたのは、贖罪のためだったのではと思った。
かつて自分が母親に愛を乞うた時のように。
麗はぎゅっと手を強く握った。
夜が明ける少し前、父が亡くなった。
安らかに眠る、という言葉があるが、父の死に顔は安らかには見えない。麗は看護師に促されるまま死に水をとった。
当たり前だが遺体の表情は変わらず、眉間に皺を寄せて、最期まで苦しんだようだ。
見ているのが忍びなく、病室の整理等のこまごまとした雑用や手続きをしていると、いつの間にか朝が来ていた。
「麗、少し仮眠をとったらどうだ?」
「平気。逆に目が冴えてんねん。明彦さんこそ寝てきて」
明彦は継母に付き合って、というより、継母と麗の代わりに父の遺体についてくれていた。
行き帰りの運転もしてくれたため本当は疲れているだろうに明彦は疲労を見せないよう気を遣ってくれている。
「お前が寝るまで、俺は寝ない」
「すごい脅し文句」
麗は苦笑し、両手を軽く挙げた。
「わかった、ちょっと休む。でも、その前にお母様に声かけるわ」
継母は死亡届を書いているだろうと、麗と明彦が待ち合い室に行くと、ニコニコと継母に手招きをされた。
「麗ちゃん、明彦さん、お疲れ様。二人とも家に帰って休んで」
「お母様も休んでください。後で、葬儀社を探すの手伝いに佐橋の家に行きますね」
麗はスマートフォンで幾つか葬儀社を見つけておいたので、相見積もりを取ろうかと考えていた。
「もう決めたわ」
「え?」
おっとりとした継母の素早すぎる行動に麗は驚いた。
「じゃあ佐橋の家を整えないといけませんね」
麗は実母の寂しい葬儀を思い出した。
葬儀代を出そうとしてくれていた姉に遠慮して値段の安い家族葬にしたため、遺体となった実母がアパートに帰ってきて、二人きりで夜を過ごした時のことだ。
一晩中テレビをつけて、膝を抱えた。そして、現実から目を反らすために、テンション高く便利グッズを売るテレビショッピングを見続けた。
朝になると母の仕事仲間だった人達がチラホラとアパートに来て、香典返しは要らないという言葉とともに、皆が普通より少し高い香典をくれた。
一人残された麗を心配してくれての行動に感謝よりも先に、姉にお金をこれ以上出してもらわずとも、葬儀代をこれで払えると安堵してしまった。
あれは、己の薄情さをまざまざと思い知らされた出来事だった。
「その必要はないわ」
感傷をとりやめ、麗は頷いた。
つい、実母を基準に考えたが、経営者だった父を家族葬で送るわけがなかった。
「葬儀場で行うんですね。何て言うところですか?」
(葬儀場の近くで喪服売ってるところあればいいけど……)
麗の質問に継母はコロコロと笑った。
「いいえ、このまま焼き場に直葬するの。どうせ通夜も葬式も来てくれるような親しい人はいなかったでしょうし、義理で来る人達のためには後で豪華な社葬もするから、もういいでしょ。私、これ以上あの人に煩わされたくないのよ」
やっと自由を得た継母は清々しい顔をしていた。
「……そう、ですね」
継母と同じ気持ちになって然るべきなのに麗が戸惑っていると明彦が割って入ってくれた。
「お義母さん、良かったら家まで送っていきましょうか?」
「ありがとう明彦さん、でも、もうタクシー呼んじゃったの」
「他にお手伝いすることはないですか?」
「大丈夫よ、明日、安置所に送って、明後日が火葬の予定なの。また時間が決まったら連絡するわ」
「では、麗を連れて一旦失礼します」
麗は継母に辞去の挨拶をしたか覚えていない。
明彦に連れられるまま、車に乗り込み、窓の外を見る。
「麗、大丈夫か? お前が葬式をちゃんとしたいなら、お義母さんを説得するし、金も出すから心配するな」
明彦の声が優しい。麗に寄り添おうとしてくれている。
「ええよ、別に。お母様がお決めになったことやし。愛人の子が口を挟むことやないわ」
そういう言い方はやめろと、明彦に捨て鉢な言葉を窘められた。
「麗、立場とかは気にしなくていい。嫌なら俺がどうにかしてやる」
(そりゃ、佐橋家と須藤家なら須藤家の方が上だものね)
「ちゃうよ、嫌やない。ただビックリしただけ。葬式もしたくないくらい、別れの挨拶も必要ないくらいお母様はあの人に興味なかったんやな、って。憎しみさえ抱くほどの価値もなく、ただただ邪魔だったんやな、って思ったの。それだけ」
胸が痛むのは、いい子ぶりたいという自己保身だ。
この考えは、蓋をしなければならない。




