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結納の日、姉が成人式に着た、継母が生家から持ってきた美しい振り袖。それを継母と血の繋がりのない愛人の娘の分際で袖を通し、麗は微笑みすら浮かべ顔を上げていた。
だって、麗は姉のためなら何でもできる。
これは、実質身売りだった。
相手は下劣な手段で財を成したと噂に聞く高齢の棚橋という男性で、危機的状況に陥った家業、佐橋児童衣料に援助をもらうためだ。
今隣で目も合わせない佐橋児童衣料の社長である父は小物だ。
相次ぐ経営の失敗に、馬鹿なスキャンダル、そのくせ優秀すぎるほどに優秀な後継ぎである麗の姉に嫉妬して会社から追い出し、あの姉が跡継ぎだからと我慢してくれていた投資家からも見放され、会社は最早風前の灯だ。
それで、そうだ、娘を金持ちと結婚させよう! と、京都に行く感覚で自社株とセットで投資家の棚橋という中年男性に売り払われようとしているのが現状だった。
最初は美人で賢く血筋も良い姉に来た話だったが、いつも気丈な愛しい姉が見せた怯えを麗が見逃すわけがなかった。
だから、自分から棚橋に近づいて精一杯誘惑した。ない胸をむりやり寄せて盛って、真っ赤な口紅を塗って、棚森さんのこと、わたしとっても素敵だと思っています。婚約者を私に変更してください、と。
だが、慣れないことはするものではない。
必死でした下手な誘惑は、嘲笑われただけだった。
相手は姉のような絶世の美女を狙っているのだ。麗ごときではやはり姉の身代わりにはなれないのだと絶望した、そのとき。
こんなつまらない手でどうにかできると思うとはお前、処女か? とからかわれたのだ。
麗は否定しなかった。
父のせいで男性不信気味の麗はそもそも誰かと恋愛しようという意思が薄弱なのだ。
だが、かえってそれがよかったらしい。
妻にするなら20代のバージンは自慢になると手を叩いて喜ばれた。
結局のところ、あの美貌でたくさんの男たちに持て囃され、傅かれている姉を相手にすることに棚橋が怖気づいたのだと思わなくはなかったが、もちろん口には出していない。
これもそれも愛しい姉を守るため。姉のためなら麗はどんなに怖気の走る気色悪いおっさんとだって喜んで結婚できるのだ。
「失礼します。お連れ様がおつきになられました」
ふすまの向こうから女将が声を掛けてくる。
麗ごときがトロフィーになるかはさておき、トロフィーワイフはトロフィーワイフなのだ。棚橋の機嫌を損ねるわけにはいかない。
緊張してしまっていたのだろう、噛んでいたことに気付き、麗は唇を緩め、覚悟を決めて微笑んだ。
そうして女将の後ろに見えたのは……。
海外モデルと並んでも押し負けないスラリと高い背に、力強い目が印象的な棚橋とは比べ物にもならない美丈夫。
「アキ兄ちゃんっ⁉⁉⁉」
思いもしなかった人の登場に、お淑やかなふりすら忘れ、麗は思わず叫んでいた。
「な、なんで? 棚橋さんは? あ、アキ兄ちゃん、もしかして仲人してくれんの?」
「誰がするか。そんなことするくらいならお前連れて地の果てまで逃げてやる」
そう、吐き捨てた明彦に、麗は状況が全く理解できないでいると、同じく状況が理解できない父が怒鳴りつけてきた。
「麗っ! 誰だこの男は! 今日が何の日かわかっているのか、お前は! 今更、駆け落ちでするつもりか! 棚橋さんに失礼な真似したら会社がどうなるかわかっているだろうっ! こんな男、きっと顔だけだっ!」
「わかってるわ! あんたこそアキ兄ちゃんにそんな口効いてええんか? アキ兄ちゃんは、姉さんの友達で、大赤字やったレジャー部門の立て直しで一躍有名になった須藤グループの御曹司様やで! なめたらあかんで、なめたらっ!」
麗が説明しよう! とばかりに全力で虎の威を借ると父がぴょーんと跳ね、手をすり合わせた。
「す、須藤デパートの御曹司でしたか、これはこれは、いつも娘がお世話になっておりますようで。それで本日はいったいどのようなご要件で?」
我が父ながらあまりに変わり身が早く情けない。
いや、この父に情けがあった試しなどないのだが。
「須藤デパートってウチの売上の中でもトップ占めてるのに、そこの御曹司の顔も知らんとか大丈夫なん、しゃちょー?」
麗は父を全力で煽った。父子関係はもとよりかなり悪いのだ。
「うるさいぞ! 麗っ! 親に向かって生意気な口を!」
父が手を振り上げ、叩かれそうになって殴り返す準備をしたそのとき。
「佐橋社長。私の花嫁を殴るのはやめていただけますか?」
明彦が父の振り上げた手を握っていた。ミシッと音がするほどに。
「私の花嫁? え? 私、棚橋さんに嫁ぐんやけど??」
麗は父の心配を欠片もせず、明彦に聞き返した。
「その件で、佐橋社長に話があって参りました。棚橋でしたら先程、インサイダー取引と脱税とそのほか諸々が発覚して、結婚どころではありませんよ。だからここには来ません」
「マジで? ろくでもない人やとは思ってたけど、ほんまにろくでもないな」
まあ、以前スマホで名前を検索しただけで、すぐに逮捕歴が出てきた男だ、さもありなんである。
「そう思うなら嫁ごうとするな」
「それは、しゃーないやん」
「なら、俺との結婚もしゃーないで済ませろ」
「え?」
「お座りください、佐橋社長」
明彦が父の手を離し、下座を指で示した。
それにも関わらず、プライドだけは高いはずの父はへなへなと座り込んだので、麗も大人しく隣に座ろうと振り袖に皺を作らないよう前を整えた。
「麗はこっちだ」
「? わかった」
何故か上座の明彦の隣を指さされたので素直に従って、座る。
「アキ兄ちゃん。これ、ほんまにどうゆーこと?」
「棚橋社長と同じ条件で麗を嫁に頂戴します。文句はありませんよね?」
明彦から有無を言わせないオーラのようなものを感じているのは麗だけではないらしく、父がブルブルと震えている。
「本当に、全く、同じ条件で? 麗なんかを? 麗音の間違いですよね?」
麗は父の疑問に頷いていた。
麗音、世界で一番美しくて凛々しくてかっこよくて頭が良い、麗の姉のことである。
姉は出自の怪しい愛人の娘ではなく、公家の血もひく正妻の娘だ。須藤家の御曹司である明彦の花嫁として十分釣り合う。
「麗です。すり替わるのは花婿のみです。どうぞ、契約書はしっかりご確認いただいて結構ですよ。あなたが持っていらっしゃる御社の株を棚橋が予定していた金額と同額で同数買います」
父がパラパラと明彦が出した契約書をめくりだした。
今日は結納という名の、婚姻届を書くだけでなく、父が所有する会社の株式を譲渡するためのサインをもする予定の日だった。
「問題、ありましたか?」
「……ありません」
「それでしたら、サインをした後、ご退室ください」
「はい」
そうして滝のような汗を流している父がさささーと、サインをした。
多分、明彦が正気に帰って価格に見合わない高い買い物をしてしまったと気づく前に麗を売ってしまおうと必死なのだ。
「いやぁ、ご購入ありがとうございます。それではあとは、若いお二人で」
父が見たこともないハイスピードですさささーっと去っていき、麗は明彦の顔を見た。
「えっと、とりあえず庭でも歩いたらええん?」
ここにきて、麗は料亭での顔合わせでセオリーっぽい庭の散歩を提案した。
何故か明彦に嫁ぐことが決定しており、脳内は大混乱を起こしていたためだ。
「麗がそうしたいならそうしようか」
明彦が庭につながる掃き出し窓を開けてくれ、先に石畳の上に置かれたつっかけを履いた。
そして、麗がつっかけを履きやすいように手を差し出してくれる。
「ありがとう」
別に、明彦が優しいのはいつものこと。着慣れない振り袖を着ているから気を使ってくれたのだ。
だから、麗は明彦の手に手を乗せて支えてもらいながらつっかけを履いた。
「えっ?」
だがいつもとは違い、何故かその手をぎゅっと強く握られ、離れた。
そうして二人、並んで庭を歩く。
「えーーーっと、ご趣味は?」
「この関係性で今聞くのか? それを」
明彦は姉の友人だ。麗のこともいつも気に掛けてくれ、それこそ妹のように可愛がってもらってきた。
何なら昨日も普通に連絡を取り合っていたくらいには長い付き合いなわけで、今更趣味もなにもないのは確かだ。
「……そういう流れかなーって。あ、でもそういや、アキ兄ちゃんの趣味って知らんかも?」
「趣味以外に大切な問題があるだろう。どうして私と結婚しようと思ったの? と上目遣いで可愛く聞くとか」
その言葉に麗は口元を拳で隠して、キュルンと明彦を見上げている己の姿を想像した。
「なんでやねん!」
シー--ーン。美しい日本庭園で鳥のさえずりと、ししおどしの音が響く。
麗はツッコミが滑ったのを全身で感じた。
明彦は本気だったのだ。本気で上目遣いで可愛く聞かれようとしていたのだ。
「…………いや、なんで私と、結婚しようと思ったん? あ、姉さんに私が危ないって聞いて助けに来てくれたん? それなら、適度なところで婚約破棄してくれてええからな。迷惑かけてごめん」
明彦には結婚のことは全く伝えていなかった。不安は隠していつものように楽しく世間話をしていただけだった。
それなのに知っていたということは姉が明彦に頼んでくれたのだろう。
「このことに麗音は一切関係ない。あいつには助けなんか求められてもいない」
「え?」
(あ、いやそっか。そりゃあそうか。私、姉さんの婚約者を奪ったことを本人には伝えてないし。姉さんが知るわけないか。あれ? なら、アキ兄ちゃんはどうやって私の結婚を知ったの?)
「麗、俺を見ろ。よそ事を考えるな」
麗は顔を上げた。
「麗は今日から俺の婚約者だ。俺が麗と結婚したいから結婚するんだ、わかったな?」
「わかったけど、なんで?」
「それは……その、だな」
「うん」
「だからだな……ときに、その、麗は好きな人、いるのか?」
明彦が目線を合わせるように顔を覗き込んできたので、麗はしっかり向き合った。
「姉さん!」
わかりきったことを答えると、明彦が眉間に皺を寄せた。
「恋愛対象としてだ!」
「恋愛? うーーーん、特には。姉さん以上にときめかせてくれる人なんてこの世にいないし。そもそも恋愛には興味ないわ」
麗の筋金入りのシスターコンプレックスを明彦はよく知っているはずなのに何故そんなことを聞くのか。
「恋愛に興味ないとか言うな。麗は今日、俺の婚約者になったってわかっているのか?」
「え? あ、そっか、私、アキ兄ちゃんと婚約したんや」
麗は今ようやく明彦と婚約したことを理解しうんうん頷いた。
「……お前と会話していると俺は負けたと思うことがよくある」
「完全無欠のアキ兄ちゃんが私なんかのなにに負けるっていうの」
明彦は姉と同じタイプの人種だ。全て持ってる。
それなのに、何かに苛立ったように明彦がどんっと、麗を囲い入れるようにして近くの松の木に手をついた。
これは所謂壁ドンというやつではないだろうか。松の木だから松木ドン、いや、ドン松木。
(うん、某ファッションデザイナーの弟子をやってそう)
そんな馬鹿なことを考えていた間に明彦の秀麗な顔が鼻と鼻が当たりそうなほど近づいてきた。
「あ、アキ兄ちゃん森林虐待はあかんで。す、ストップ地球温暖化」
明彦がこんなに近かったことなどこれまであったろうか。
麗は戸惑いを隠すようにただただ口を動かした。
「お前には俺に恋をしてもらう」
麗はその言葉にコテンと小首をかしげた。
「なんで?」
明彦が眉間にシワを寄せた。
「…………………………まずは自分で考えろといつも言っているだろ。兎に角、麗は俺と結婚するんだ」
「へ……」
「結婚式までの宿題だ。何故俺が麗と結婚したいのかよく考えてくるように。因みに式は来週の日曜、大安吉日だからな」
「おっけー、スケジュール確認しとくわ。来週ね、来週っ!!!! え、えーーーーーーー!!!」
いつものようにお出かけの予定を立てる感覚で結婚式をの日程を知り、麗は悲鳴を上げたのだった。